「ひとが嫌がることをする表現の自由はない」なら、映画を観ることすらできない 週刊プレイボーイ連載(191)

乳腺切除と卵巣・卵管切除で話題となった米女優アンジェリーナ・ジョリーの監督作品『アンブロークン』の日本公開が危ぶまれています。

ベルリンオリンピックに米国代表の陸上選手として参加したルイス・ザンペリーニ氏は、太平洋戦争で搭乗機が洋上に墜落して47日間漂流し、奇跡的に助かったものの日本軍の捕虜となり、収容所で2年半にわたる過酷な日々を過ごします。戦後、ザンペリーニ氏は自分を虐待した日本兵への復讐心に苦しみますが、キリスト教の「救い」と出会って過去を乗り越え、1998年の長野五輪では80歳の聖火ランナーとして日本を訪れることになります。

映画の原作となったノンフィクション作品は全米ベストセラーとなり、アマゾンでは2万3000ちかいレビューが付けられ、そのうちの85%が5つ星ときわめて高い評価を受けています。歴史に埋もれていたヒーローを発掘したことに加え、サバイバルから憎悪の克服、愛と許しの境地へと至る「不屈(アンブロークン)」の物語がアメリカ人のこころをつかんだのでしょう。

報道によると、昨年夏頃から「日本を貶める映画」との批判がネットで上に現われ、アメリカなど50カ国以上で公開されながらも、ボイコット運動の影響で配給会社すら決まらないとのことです。

当たり前の話ですが、読んでもいない本や、観てもいない映画を批判することは誰にもできません。アンジーは、「反日映画ではなく許しの物語だ。映画を見てもらえばわかる」と述べていますが、これは監督としてもっともで、それに対して「観なくてもわかる」というのでは駄々っ子と同じです。こんな理由で映画が上映できないのでは、民度の低さを世界に晒し、かえって日本を「貶める」ことになるでしょう。

より問題だと思うのは、「リベラル」と呼ばれるひとたちが、この露骨な「表現の自由の圧殺」をほとんど取り上げようとしないことです。その理由は明らかで、彼らはフランスの出版社『シャルリー・エブド』襲撃事件の際、「テロは言語道断だが下品な風刺画を載せた方も問題だ」として、「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と主張していたからです。

ムハンマドの顔をモザイクで隠した風刺画を載せた書籍は、日本在住のムスリムの抗議でほとんど書店の店頭に並びませんでした。それについて出版社の社長は、「抗議しているイスラム教徒にも『読んでみてほしい』といったが、『いらない、読みたくない』との答えだった」と述べています*。

『アンブロークン』の上映に反対する会の事務局長は、「映画は見ていないが、事実無根の思い込みや決めつけによる作品で、上映の必要はない。日本人性悪説に基づいた人種差別だ」と語っています**。

両者の態度はまったく同じですから、ムスリムに配慮して風刺画を掲載しなかったリベラルなメディアは、「私が不快だと感じる“反日映画”を上映するな」と叫ぶひとびとを批判することができません。なぜならそれは、尊重すべき正当な「人権」なのですから。

日本は「自由な社会」だそうですが、そこでは「風刺画や映画を見て自分で判断したい」という当たり前の権利すら認められないようです。

表現の自由」を定めた憲法21条は削除したらどうだろう

**「反日?映画、遠い公開 旧日本軍の捕虜虐待描くアンジー作品」『朝日新聞』2015年3月17日朝刊

『週刊プレイボーイ』2015年4月13日発売号
禁・無断転載

 

第49回 ソムリエ欺くワイン偽造団 (橘玲の世界は損得勘定)

人間の味覚はどこまで信用できるのか――そんな疑問を抱いたのは、何年か前にフランスで捕まったワイン偽造団の記事を読んだときだ。

同じワインでも、ボルドーのメドック第1級とかブルゴーニュのロマネ・コンティなどの有名銘柄はものすごく高い。そこでワイン偽造団は、こうした超高級ワインのラベルを偽造し、チリやペルーなどの安い新世界ワインのボトルに貼って一流レストランに卸していた。

なぜこんなことができたのか。裁判で一味の首謀者は次のように証言した。「ボルドーとチリワインのちがいがわかるソムリエなんてどこにもいない」

これはけっこう衝撃的だ。1本何十万円もするフランスワインと千円札数枚で買える新世界ワインが同じだなんて……。

経済学者の人気者スティーヴン・レヴィットとジャーナリストのスティーヴン・ダブナーの『0ベース思考』(ダイヤモンド社)に、これを実際に実験してみた話が載っている。

料理とワインの評論家ロビン・ゴールドスタインは、ワイン初心者からソムリエ、ワイン醸造業者まで500人を集め、全米17の会場で目隠し試飲会を行なった。

ゴールドスタインが用意したのは1本1ドル65セント(約200円)から150ドル(約1万8000円)までの523種類のワインで、試飲者に「よくない(1点)」「普通(2点)」「よい(3点)」「とてもよい(4点)」の点数をつけてもらった。

その結果、試飲者は平均すると「高いワインを安いワインに比べて少しだけおいしくないと感じた」。それに対して試飲者の約12%を占めていたワインの専門家は、「安いワインを好んだわけではないが、高いワインを好んだともはっきり言えない」くらいの“実力”は見せたようだ。

この結果を見ると、ワイン偽造団が成功した理由がわかる。ソムリエはもちろんワイン醸造者ですら、ラベルがないとワインの味が見分けられないのだ。

味にうるさい「専門家」が多いことでは他を圧倒するワインでこれなら、それ以外の味覚は押して知るべしだろう。有名な蔵元の日本酒や焼酎と大衆的な銘柄はどれほどちがうのか、一人3万円の有名寿司店と回転寿司のちがいはわかるのか……。テレビ番組の企画で、(被験者だけでなく実験者も正解を知らない)二重盲検法で試してみたらきっと面白いだろう――という意地悪なことをいいたいわけではない。

ワイン偽造団の記事を読んだときに真っ先に思ったのは、彼らが選んだ新世界ワインのリストを知りたい、ということだった。なぜならそれは、何十万円もする超高級ワインと“同じ”味なのだから。

あるいは、ワインの流通業者が一流レストランのソムリエを集めて目隠し試飲会を行ない、「高級ワインと見分けがつかなかった安いワインのセット」をつくってみるといいかもしれない。これなら大ヒット間違いなしだ――といっても、どうせ無理だろうけど。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.49:『日経ヴェリタス』2015年4月5日号掲載
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「英雄」たちの時代が終わって、歴史はどんどんつまらくなった 週刊プレイボーイ連載(190)

リー・クアンユー元シンガポール首相が91歳で生涯を終えました。これで、アジアの「英雄の時代」が完全に幕を下ろしました。

明治維新によって近代国家への道を踏み出した日本に対して、アジアの国々は(タイを除けば)ずっと植民地か半植民地でした。第二次世界大戦が終わってようやく民族自決の権利が認められ、独立が可能になったのです。

毛沢東、蒋介石、ガンジー、スカルノ、金日成、ホー・チ・ミンなど、毀誉褒貶はあるでしょうが、この時期に「建国の英雄」たちが続々と現われました。中国や韓国・朝鮮は日本より長い歴史を持っていますが、近代国家になってからは70年しか経っていない“若い”国なのです――これが、日本と近隣諸国との「ナショナリズム」が食いちがう理由のひとつでしょう。

そのなかでも東南アジアは、政治的な理由から建国が遅れました。インドネシアがオランダから独立を果たしたのが1949年、シンガポールがマレーシアから分離したのが1965年、米軍がベトナムから撤退して南北が統一されたのが1976年です。こうした建国神話の主役のなかでもリー・クアンユーは際立って若く、シンガポール独立のときはまだ41歳でした。

31歳で人民行動党を創設したリーは、35歳でイギリス統治下の自治政府の初代首相となり、独立とともにマレーシアと合併します。しかし多数派のマレー人とゆたかな華人との対立が激しくなり、大規模な民族暴動が起きたことから、シンガポールはマレーシアから追放されてしまいます。「建国」は、リーが望んだものではありませんでした。

シンガポールはマレー半島の先端にある小さな島で、水やエネルギー、食糧などすべてをマレーシアに依存していました。これから国民が耐えなくてはならない多くの苦難を思って、「独立宣言」のときにリーが涙を流したことはよく知られています。

豆粒のような国が生き延びるために、リーは国民を厳しく叱咤しました。なにひとつ資源がないのですから、頼るべきは国民の創意工夫しかありません。こうして英語を公用語とし、教育を重視し、汚職や犯罪に厳罰を科す独特の国づくりが始まったのです。

シンガポール経済は軽工業と観光業からスタートし、その後、タックスヘイヴン政策によって香港と並ぶアジアの金融センターとして発展したことで、一人あたりGDPでは日本(3万8468ドル)を大きく上回る5万5182ドルと、アジアでもっともゆたかな国になりました(世界8位/2013年)。

リーの政治哲学は、賢人が大衆を率いる中国の伝統的な士大夫主義で、その成功が中国の改革開放政策のモデルとなりました。表現の自由が制限されているなどの批判もありますが、国連の「世界幸福度報告」でもアジア最高の30位で、日本(43位)よりずっと「幸福」な国です。

植民地主義は過去のものとなり、アジアの建国の時代も終わりました。私たちはもう二度とリーのような「英雄」を見ることはなく、歴史はどんどんつまらなくなっていきます――それはおそらく、よいことなのでしょうが。

『週刊プレイボーイ』2015年4月6日発売号
禁・無断転載