”終活”とは自殺合法化を考えること 週刊プレイボーイ連載(214)

日本はこれから、人類史上未曾有の超高齢化社会を迎えます。2020年には人口の3分の1、50年には約4割を65歳以上が占めると推計されており、どこの家にも寝たきりや認知症の老人がいるのが当たり前になるでしょう。

そこで話題になっているのが「終活」で、エンディングノートや遺言の書き方、相続を争続にしないための財産分与、葬儀や墓、戒名を自分で決める方法など、さまざまなアドバイスが巷に溢れています。しかし、これがほんとうに「いかによく死ぬか」を考えることなのでしょうか。

オランダでは1970年代から安楽死合法化を求める市民運動が始まり、80年代には安楽死が容認され、94年には、自殺未遂を繰り返していた50歳の女性を安楽死させた精神科医が「刑罰を科さない有罪」という実質無罪になりました。

この女性は22歳で結婚して2人の男の子を産みますが、夫の暴力で家庭生活は不幸で、長男は恋愛関係のもつれを苦に20歳で拳銃自殺してしまいます。息子の死のショックで精神に異常を来たした彼女は、精神病院から退院すると夫と離婚、次男を連れて家を出ますが、その直後に次男はがんであっけなく死んでしまいます。

生き甲斐だった2人の息子を亡くした女性は大量の睡眠薬を飲んで自殺をはかるものの死にきれず、かかりつけ医に「死なせてほしい」と頼んでもあっさり拒否され、自発的安楽死協会を通して精神科医と出会います。

この精神科医は彼女を診察し、「自殺願望を消す方法はなく、このままではより悲劇的な自殺をするだろう」と診断し、同僚ら7人の医師・心理学者と相談のうえ、致死量の即効睡眠剤によって患者を安楽死させたのです。

自殺幇助罪で起訴された精神科医は一審、二審とも「不可抗力」として無罪、最高裁では、第三者の医師を直接患者と面談させなかったとの理由で形式的な有罪となりました。この歴史的な判決によって、肉体的には健康なひとが自らの意思で「平穏に自殺する権利」が認められたのです。

その後、ベルギーやルクセンブルグなどヨーロッパの他の国でも自発的安楽死が認められるようになります。スイスにいたっては外国人の安楽死も認めているため、ドイツやイギリスなど安楽死できない国から「自殺旅行者」がやってきます。彼らの多くは末期がんなどを宣告されており、家族や友人に囲まれ、人生最後の華やかなパーティを楽しんだあと、医師の処方によってこころ穏やかに最期の時を迎えるのです。

日本では自殺の半数は首吊りで、電車に飛び込んだり、練炭自殺するひともあとを絶ちません。ヨーロッパでは、「いつどのように死ぬかは自分で決める」というのが当たり前になってきました。

同じ人生を生きてきたのに、なぜ日本ではむごたらしい死に方しかできないのか――。それを考えるのがほんとうの“終活”だと思うのですが、残念なことに日本では、「死の自己決定権」というやっかいな問題から目を背け、相続や葬儀、戒名など、死んだあとのどうでもいいことばかりが熱心に議論されているのです。

参考文献:三井美奈『安楽死のできる国』(新潮新書)

『週刊プレイボーイ』2015年10月13日発売号
禁・無断転載

第53回 人は現実を見ないと動けない(橘玲の世界は損得勘定)

中国経済が減速期に入り、過剰な公共投資でとてつもない不動産バブルが起きている、という話は何年も前からいわれていた。ところが去年の暮れあたりから上海市場の株価が上昇しはじめ、2500ポイント前後だった指数はわずか半年で5000ポイントを超えた。

経済が低調なのに株式市場が熱狂するというこの奇妙な現象を、専門家は「不動産市場に投じられていた資金がバブル崩壊で行き場を失って株式市場に流れ込んだからだ」と説明した。だったら株式バブルが早晩はじけるのは当然で、実際、そう予測するひとはたくさんいた。

案の定、6月中旬に高値をつけた上海市場は、そこからわずか3週間で30%ちかくも暴落した。その後は中国政府の介入もあって乱高下を繰り返し、いまでは3000ポイント前後になっている。株式市場の未来を予測することは難しいが、近年、これほど見事にバブル崩壊を的中させた例はない。

ところが不思議なことに、世界じゅうが中国株の暴落で大騒ぎしている。バブルがはじけることがわかっていて、そのとおりのことが起きたのだから、なにひとつ驚くことはないはずだ。新聞の経済面の片隅にでも「中国株、予想通り大幅下落」と1行書いておけばいいだけなのに。

でも実際には、中国市場につられて世界の金融市場が動揺している。なぜこんなことになるかというと、「予想していたこと」と「現実に起きたこと」は別だからだ。バブルが崩壊してみると、元の切り下げのような想定外のことが起きて、どんどん不確実性が増していくのだ。

それでもやはり、疑問は残る。中国市場の未来を見通していた「賢明な投資家」なら、資金をアメリカや日本の国債に変えてリスクヘッジしていたはずだ。これなら上海株が暴落しようが、人民元が切り下げられようが、どうだっていい話だろう。

この話の教訓は、ひとは自分の目で現実を見ないと行動に起こせない、ということだ。そしてこうした非合理性は、株式市場だけではなく、いたるところで見られる。

日本は少子高齢化によって人口構成が激変し、社会保障費の膨張で財政赤字が急拡大している。でも日本のような先進国では、将来人口の推計はほとんど外れないから、これは20年以上前からわかっていたことだ。

社会人としてのスタート地点は同じでも、人生の有為転変でひとは異なる境遇を歩むことになる。最近になって、年金だけで生活できない「老後破産」が社会問題になっているが、高齢化で経済格差が拡大し、老人の貧困層が増えるのは当たり前だ。

高齢者の認知症率から、2025年には認知症患者が700万人を突破すると予測されている。現状では60万人程度しか老人介護保健施設に収容できないのだから、このままでは認知症の老人が街を徘徊することになるだろう。これも、介護関係者なら誰でもわかっていることだ。

でも、どれほど予測が正しくても、ひとは不愉快な問題を直視できない。なぜならそれが、人間の“本性”なのだから。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.53:『日経ヴェリタス』2015年9月27日号掲載
禁・無断転載

番長がいなくなって監視社会が到来した 週刊プレイボーイ連載(213)

大阪・寝屋川市で中学1年生の男女が殺害された事件では、現場付近に設置されていた監視カメラが犯人逮捕の決め手になりました。それ以外でも渋谷駅の地下鉄駅構内の殺傷事件や、長崎県で幼稚園児が誘拐され、立体駐車場から投げ落とされて殺された事件など、監視カメラが犯人の特定につながったケースは枚挙にいとまがありません。いまでは、まずカメラの映像を調べるのが犯罪捜査の常道になっているようです。

統計的な事実を確認しておくと、多くのひとの実感とは逆に、日本の犯罪被害は減少の一途をたどっています。少年犯罪の減少も顕著で、世間でいわれる「低年齢化」とは逆に、犯罪のピークは18~20歳に「高齢化」しています。さらに、世代別でもっとも犯罪者が増えているのは高齢者です。

とはいえ、「治安の悪化」をたんなる錯覚だと決めつけることもできません。「治安感覚」は、たしかにむかしとは変わってきているからです。

公立高校の教師から、「かつては番長が学校の治安の下限を決めていた」という話を聞いたことがあります。70年代くらいまではどの学校にも番長をリーダーとする不良集団がいて、長ランという丈の長い学生服を着て、校内で煙草を吸ったり、授業をさぼって他校の不良と喧嘩したりしていました。

番長組織には厳しい掟があります。番長より派手な長ランを着ることができないのはもちろん、彼らの喫煙場所が体育館裏だとすると、他の生徒は校内のそれ以外の場所で煙草を吸うことは許されません。番長がカツアゲを禁じていれば、一般生徒が下級生を強請るのは制裁の対象です。

そこで有能な教師は、新学年になると、まず新しい番長と話をつけたのだそうです。そこで学校の治安の「下限」が決まれば、教師も一般生徒も、それよりヒドいことは起こらないと安心できます。最近の底辺校では教室内の喫煙も珍しくなくなったようですが、番長がいる時代にはこのようなことは考えられませんでした。

一般社会において、これと同じ役割を担ってきたのがヤクザです。山口組三代目の田岡一雄組長は、ヤクザはあぶれ者に居場所を与え、社会の最底辺を安定させる「必要悪」だと述べましたが、警察の認識もこれ同じで、マル暴の刑事の仕事は暴力団を壊滅させることではなく、彼らに治安維持の仕事を肩代わりさせることでした。市民社会もヤクザの存在に寛容で、地域のもめごとは警察ではなくヤクザの組長に持ち込まれるのがふつうでした。

しかしこうした「前近代性」は80年代以降、急速に失われ、学校からは番長がいなくなり、ヤクザは「市民社会の敵」として排除の対象になっていきます。そしてこれと軌を一にして、学校でも社会でも「治安の下限」が決まらなくなったのです。

「番長がいなくなって、学校はなにが起きるかわからないところになった」と高校教師はいいました。少年犯罪は減っているにもかかわらず、教師や生徒の不安が増しているのはこれが理由でしょう。

暴対法でヤクザが排除され、日本社会は統計上はより安全になりましたが、ひとびとの不安は逆に高まっています。こうして私たちは、あらゆる場所に監視カメラが設置される「監視社会」を望むようになったのです。

参考文献:浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会 誰もが「不審者」?』 (光文社新書)

『週刊プレイボーイ』2015年10月5日発売号
禁・無断転載