中国の”デタラメ”にも理由がある 週刊プレイボーイ連載(219)

日本が提案した国連での「核全廃をめざす被爆地訪問決議」は156カ国の圧倒的多数で採択されましたが、核保有国である米英仏は棄権、中国、ロシア、北朝鮮が反対しました。なかでも中国は突出していて、傅聡軍縮大使は日本がヒロシマ・ナガサキの悲劇を「歴史をゆがめる道具」として利用し、「日本の侵略で中国だけで3500万人が犠牲になった。その大半は日本軍の国際法に反する化学・生物兵器の大規模使用の犠牲者だ」と批判しました。中国はほかでも同様の主張を行なっていますから、「南京大虐殺」の犠牲者30万人説に加え、これが今後、中国共産党の「正史」になっていくことは間違いないでしょう。

日本陸軍が「731部隊」のような研究機関を使って細菌兵器を開発したり、中国戦線でその効果を検証していたことは戦史に記載がありますが、(幸いなことに)試験段階で敗戦を迎えたため、日本国内ではリベラルな歴史家ですら化学・生物兵器の大量使用を否定しています。日本の侵略と国共内戦、軍閥の抗争によって中国で多くの死者が出たのは事実ですが、その多くは餓死・病死で、「数千万人が日本軍の化学兵器で殺された」というのは荒唐無稽というほかありません。「南京大虐殺」の世界記憶遺産への登録もそうですが、国連の場で他国を声高に批判する以上、中国は歴史家の検証に耐える証拠を提出すべきです。

しかしここではすこし頭を冷やして、中国がなぜこのような“デタラメ”を言い立てるのか、その理由を考えてみましょう。

第二次世界大戦の人類史的悲劇として誰もが思い浮かべるのは、アウシュヴィッツとヒロシマです。アウシュヴィッツはホロコーストというナチスの「加害」の歴史遺産ですが、ヒロシマは核兵器による一般市民の無差別殺戮という「被害」の記録で、これによって戦後日本人は、心理的に、自らの「加害」と「被害」を相殺しました。これがドイツのリベラルな知識人が日本の歴史認識に批判的な理由で、戦後処理で近代ドイツ発祥の地である旧プロイセン領を失い、1000万人を超えるドイツ人が追放されたにもかかわらず、自分たちは「加害」の悪役を永遠に担わされ、同じ敗戦国の日本がいつのまにか「被害」の側に回っていることが許しがたいのでしょう。

これは中国も同じで、大陸への侵略という「加害」と、太平洋戦争の敗北という「被害」を、日本人の都合で勝手に相殺することが認められるはずはありません。ここまでは納得できる主張ですが、問題はその手段として共産党に都合のいい歴史を捏造し、ナショナリズムを刺激していたずらに対立を煽ることでしょう。ただしそのことで、日本軍の「加害」の歴史的事実が免責されるわけではないのもたしかです。

今年は戦後70年で、安倍談話をめぐる騒ぎもあって多くのメディアが戦争特集を組みましたが、そのほとんどは「(日本人)被害者」を登場させて、「あの悲劇を繰り返すな」と訴えるものでした。

戦争のほんとうの恐ろしさは、「無辜の民」が犠牲になること以上に、ごくふつうの市民が平然と“隣人”を殺すようになることです。このグロテスクな「加害」のリアリズムから目をそらせ、「被害」の側からのみ歴史を語るなら、どの国であれ、悲劇をふたたび招きよせることになるでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年11月16日発売号
禁・無断転載

第54回 住宅ローンは信用取引(橘玲の世界は損得勘定)

横浜市内の大型マンションが傾いた事件では杭が強固な地盤に届いておらず、基礎工事を施工した下請業者がデータを改ざんしていた。同じ業者が過去10年間に手がけた物件が約3000棟に及ぶことがわかって不安が広がっている。

この欠陥マンションを購入した住民は、「何千万円もの資産が無価値になるかと思うと夜も眠れない」と語っていた。マンションを販売した大手デベロッパーが買取りを申し出ているが、他の工事でも同様の改ざんが発覚した場合、損害がすべて補償されるとはかぎらないだろう。

今回の事件を資産運用理論で説明すると、「タマゴをひとつのカゴに盛るな」ということになる。ひとつの株に全財産を投資して、その会社が倒産してしまえば一文なしだ。それを避けるには、異なるタイプの株式を保有すればいい。これが分散投資理論で、寿司屋がダメでもラーメン屋が儲かればなんとかなるのだ。

借金をして株式を買うのが信用取引で、素人が手を出してはならないハイリスクな投資だとされている。多くのひとが誤解しているが、マイホームは不動産投資の一種で、全財産を頭金にして住宅ローンを組むのは超ハイリスクな不動産の信用取引以外のなにものでもない。物件価格が大きく下落すれば、すべてを失うばかりか一生重い借金に苦しむことになる。

リスクというのは、いつかどこかで、思わぬかたちで顕在化する。不動産の信用取引をするひとがものすごくたくさんいれば、理論上、かならず誰かがババを引くことになってしまう。

これはもちろん、欠陥マンションを購入したひとが自業自得だというわけではない。マーケットの本質は不確実性で、いつ何時予想外のリスクにさらされるかわからないから、なにが起きても大丈夫なようにちゃんとリスクを分散しておきましょう、という話だ。

資産三分法は株式、債券、不動産に分散投資することで、古くから資産運用の黄金率とされてきた。でもこのルールを守ろうとすると、5000万円の不動産を買うのに1億5000万円の総資産が必要だ。この条件をクリアするのは難しいから、標準的な資産運用理論ではマイホームを持てるひとはほとんどいない。

もしあなたが数少ない例外だとしても、資産の3分の1を欠陥マンションに注ぎ込むのはイヤだろう。だからこの場合も、タマゴをひとつのカゴに盛るのではなく、5000万円でREITを買って、その配当で家賃を支払うのが理論的に正しい投資戦略になる。個別物件のリスクは機関投資家に負わせ、リスク耐性の低い個人は賃貸が合理的なのだ。

ここまでは「1+1=2」みたいな話で、難しいことはなにひとつない。でも不思議なことに、「資産運用の専門家」のなかでこういう話をするひとはほとんどいない。そしてときどき今回のようなことが起きて大騒ぎするけれど、いつのまにか「あのひとは運が悪かった」という結論になって、「マイホームは素晴らしい」といういつもの大合唱が始まるのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.54:『日経ヴェリタス』2015年11月8日号掲載
禁・無断転載

福祉国家は「差別国家」の別の名前 週刊プレイボーイ連載(218)

「現代の民族大移動」ともいうべき難民の大量流入でヨーロッパが動揺しています。ハンガリーの右派政権は移民の流入を防ぐために国境を封鎖して批判を浴びましたが、批判の急先鋒に立ったクロアチアやオーストリアといった国々も、難民が国内に滞留しはじめると態度を翻しました。難民を満載した列車を市民が歓迎したドイツでもメルケル首相の支持率が急落しています。

「反移民」は東欧だけの現象ではありません。世界でもっともリベラルな社会を実現したスウェーデンでは、2010年と14年の総選挙で「税金を納めない移民のただ乗りを認めるな」と主張する“極右”の民主党が第三党に躍進して衝撃を与えました。大麻も安楽死も合法で、「自由と自己決定権」を重視する世界でもっとも進歩的な国オランダでも、「イスラーム諸国からの移民受け入れ停止」を掲げる自由党が第三党となり、閣外協力ですが政権の一翼を担っていました。国連の調査で「世界で一番幸せな国」(2014年)に輝いたデンマークでは、「ムスリムはヨーロッパ人の民族浄化を企んでいる」として非白人移民の国外追放を求める過激な国民党が政権の中枢に入り、いまでは「難民にとって魅力のない国」をアピールしています。

なぜこのような奇妙なことが起きるのでしょうか。

その理由のひとつは、ゆたかになればなるほど、また年をとればとるほど、ひとはリスクを嫌い安全を重視するからです。高齢化が進むゆたかな北のヨーロッパはまさにこの典型で、社会全体が保守化するのは人間の本性からして当然なのでしょう。

もうひとつの理由は、ひとびとが高福祉を達成した社会に暮らしているからです。

北欧の国々は、高い税金と引き換えに充実した年金や失業保険、医療・介護制度を国民に提供しています。国民の多くは「高負担・高福祉」に満足しており、だからこそ幸福度指数も高いのですが、その結果、ひとびとは制度の破綻を恐れるようになります。移民の失業率や生活保護受給率が平均より高いのは欧州のどの国も同じですから、右派政党は、「ただ乗りによって社会保障制度が崩壊する」との不安を煽って得票を伸ばすのです。

グローバル資本主義による格差拡大を批判するひとたちは、富裕層が「悪」で貧しいひとたちが救済すべき「善」だといいます。しかし移民問題では、ゆたかな都市部のひとたち(グローバル資本主義の「勝ち組」)が難民の受け入れに寛容で、年金に依存する貧しいひとたちが「移民排斥」の極右政党を熱烈に支持しています。社会を単純に善悪で二分する議論がいかに無意味かよくわかります。

無制限に移民が流入すれば、いかなる社会保障制度も破綻します。福祉国家は「差別国家」の別の名前で、負担の義務を果たせない貧しいよそ者を排除することでしか成立しません。しかしこれまで、「福祉」と「リベラル」が両立できないという不都合な現実が意識されることはほとんどありませんでした。

移民が人口の1割を超える北のヨーロッパの国々が、もっとも成功したリベラルな社会であることは間違いありません。だからこそ故郷で生きていけなくなった難民は欧州を目指すのですが、そのユートピアですら、というよりも、ユートピアだからこそ極右が台頭するところに、この問題の難しさが象徴されているのです。

『週刊プレイボーイ』2015年11月9日発売号
禁・無断転載