集団的自衛権を議論する前にやるべきことがある  週刊プレイボーイ連載(150)

集団自衛権についての議論が徒労感しか残らないのは、そもそもの前提を共有せず、わけのわからないことをいうひとがいるからです。それも、ものすごくたくさん。

地球の裏側の国がいきなり攻めてくることがない以上、安全保障というのは国境を接する隣国とどのようにつき合えばいいのか、という話です。

いつ裏切られるかわからない相手とのつき合い方は、ゲーム理論でもっとも研究されてきたテーマです。

社会心理学者のロバート・アクセルロッドは、「囚人のジレンマ」と呼ばれる協力と裏切りゲームを繰り返した場合、どの戦略がもっとも効果的かを調べるため、心理学、経済学、政治学、数学、社会学の5つの分野の専門家を世界じゅうから集め、コンピュータ選手権を開催しました。

選手権に挑戦した天才たちは、さまざまな戦略を持ち寄りました。相手に裏切られても協力するお人好し戦略、逆に、相手が協力しても裏切る悪の戦略、裏切った相手には徹底して懲罰を加える道徳的戦略、ランダムに協力したり裏切ったりする気まぐれ戦略、さらには過去のデータから統計的に相手の意図を推察し、最適な選択を計算する科学的戦略……。ところがこの競技を制したのは、全プログラムのなかでもっとも短い「しっぺ返し戦略」と名づけられた単純な規則だったのです。

しっぺ返し戦略は、次のふたつの規則から成り立っています。

  1. 最初は協力する
  2. それ以降は、相手が前の回にとった行動を選択する

しっぺ返し戦略では、とりあえずどんな相手でも最初は信頼します。それにこたえて相手が協力すれば信頼関係をつづけ、相手が裏切れば自分も裏切ります。いちど裏切った相手が反省して協力を申し出れば、ふたたび相手を信頼して協力関係に戻るのです。

この科学的知見を国際関係に応用すると、最強の安全保障戦略は次のようなものになります。

  1. 平和主義を宣言する
  2. 武力攻撃を受けた場合は徹底して反撃する
  3. 相手が撤退したらそれ以上の攻撃は停止し、平和条約を締結する

国際紛争を解決する手段としての武力行使を永久に放棄したうえで、自衛隊と日米安保によって反撃の意志と能力を示すというのは、ゲーム理論的にきわめて合理的な安全保障戦略です。戦後日本の政治家はものすごく賢かったのです(信じられないかもしれませんが)。

ところが残念なことに、「自衛隊は違憲ですべての軍備を放棄すべきだ」という暴論を大真面目に唱えるひとがこの国にはまだたくさん残っています。このひとたちは、「敵が攻めてきたら降伏すればいい」とか、「国民一人ひとりが武装してパルチザンになれ」とか、でたらめな理屈をいい散らかしてきました。

「平和」の名のもとに空理空論を振り回すひとがいるかぎり、安全保障についてのまともな議論は成立しません。だとすれば、常識のあるリベラル派がまずやるべきなのは、安倍政権を感情的に叩くことではなく、「進歩的知識人」の残党を徹底的に批判することです。

そうすれば日本でも、より現実的で実りのある安全保障の論争がはじめて可能になるでしょう。

『週刊プレイボーイ』2014年6月9日発売号
禁・無断転載

第42回 中国社会に根を張る朋友の絆(橘玲の世界は損得勘定)

飛行機が予定より2時間遅れ、中国・河南省の省都・鄭州の空港に着いたのは夜の8時を回っていた。到着ロビーに出ると、身なりのいい女性がさかんに手を振っている。外車ディーラーとして成功した潘さんの奥さんで、定刻の2時間前、夕方4時から空港で私たちを待っていたのだという。

駐車場で待機していたワゴンに乗り込むと、宮殿のようなレストランに案内された。個室では潘さんと親戚一同が待っていて、円卓には鄭州名産の珍味がずらりと並んでいる。

なぜこんな歓待を受けることになったかというと、今回の旅に通訳として同行してくれた張さんのお父さんが、潘さんの友人だからだ。しかしその接待は、上海の知り合いの娘が外国人を連れてやって来た、というレベルとはまったくちがう。

その翌日は鄭州郊外に行くことになっていたのだが、潘さんは「列車の切符はキャンセルすればいい」といって運転手付きの車を用意してくれた。その夜は潘夫人から地元で大人気の羊鍋の店に招待され、翌日は潘さんの車で少林寺を訪れたあと、空港まで送ってもらった。まさにVIPの扱いで、予約していたホテル代を除けば、鄭州滞在で1銭のお金も使わなかった。

張さんの説明によると、彼女のお父さんと潘さんは文革の頃に軍隊で出会い、苦労した仲だ。潘さんの息子が米国留学する際にビザの件でなんども上海に来る必要があり、そのとき張さんが世話したことから、今回はそのお返しだという。

彼らの話を聞いていて、中国人の人間関係がなんとなくわかった。

潘さんと張さんのお父さんは「朋友」だ。論語では「同門の友」の意味だが、その関係にいちばん近いのはヤクザの義兄弟だ。二人は軍隊で血よりも濃い契り結び、生涯の友となったのだ。
いったん朋友になれば、その誓いは言葉ではなく態度や行動で示さなければならない。

朋友やその家族が訪れたときは、自分にできる最高のもてなしをする。潘夫人が空港で4時間も待っていたのは、到着の時に迎えが来ていないという無礼が許されないからだ。歓待の席は地元で最高のレストランで、物見有山を含めあらゆる便宜を図る。それが、自分の思いがいまも変わらないという友への証しなのだ。

日本ではヤクザですら廃れてしまった古い人間関係が中国にはまだ残っている。これは彼らが、巨大な人口と流動性の高い社会に生きているからだろう。

いつ誰に裏切られるかわからない社会では、信用できる相手を見つけるためのさまざまな工夫が必要になる。華僑は同じ苗字を共有する宗族でつながっており、宗教結社や秘密結社も健在だ。だがそのなかでもっとも大切なのが朋友で、共に死地に赴くことを誓った彼らこそが最後の命綱なのだ。

中国でいう「関係(グワンシ)」とは、家族と朋友を中核とした人的ネットワークのことだ。豪華な河南料理や少林寺観光よりも、その一端が垣間見えたことがいちばん興味深かった。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.42:『日経ヴェリタス』2014年6月1日号掲載
禁・無断転載

「表現の自由」でエイズの似非科学を擁護した代償 週刊プレイボーイ連載(149)

「自分に甘く他人に厳しい」というのは人間の本性でしょうが、それが目に余るのは似非科学を振りかざすひとたちです。

彼らはまず、相手に対して厳密な証明を求め、すこしのミスも許しません。そして、自分の主張が非科学的だと批判されると「表現の自由」だと言い張ります。

似非科学が流布する背景には、それを支持する知識人(と呼ばれるひとたち)がいます。彼らは、あらゆる意見には発言の場が与えられるべきであり、国家権力がそれを制限するのは不当だといいます。

これは一見、正論のようですが、だとしたら「朝鮮人を殺せ」と叫ぶ集団の表現の自由も命がけで守らなければなりません。しかし彼らは、そんなことをする気はまったくないでしょう。「表現の自由」は、自分の気に入った意見にだけ適用されるのです。

マンガ『美味しんぼ』では、福島第一原発を取材した主人公の鼻血と放射能の関係が問題になりました。マンガを掲載した編集部は「ご批判とご意見」と題した特集を掲載しましたが、そこに似非科学擁護の典型を見ることができます。

長年、反原発の活動を続けてきた原子核工学の専門家は、「私は医者でも生物学者でもない」と断わりつつ、「現在までの科学的な知見では立証できないことであっても、可能性がないとは言えません」と述べます。また疫学の専門家は、「(放射線と鼻血のあいだに)『因果関係がある』という証明はあっても、『因果関係がない』という証明はされていません」として、福島の風評被害は『美味しんぼ』問題を過剰に煽ったせいだといいます。

こうした少数の擁護派を探してきて、「福島県内で被爆を原因とする鼻出血(鼻血)が起こることは絶対にありません」(放射線防護学の専門家)という正論(科学の常識)と並べれば、賛否両論を公平に扱っているように見えて「非科学的」との批判をごまかせるのです。

“トンデモ科学”はエンタテインメントとして楽しめますが、専門家(らしきひと)が似非科学を擁護するようになると被害はとめどもなく拡大します。

アメリカでは、「エイズの原因はHIVウイルスではない」という似非科学が問題になっています。その中心にいるのはトンデモ科学者ではなく、がん遺伝子の研究で大きな成果をあげ、米国科学アカデミー会員に選ばれた超一流の分子生物学者です。「エイズはドラッグの使用や貧困が原因だ」という彼の説は専門家にはまったく相手にされませんが、「異説を述べるのは表現の自由だ」と(自称)知識人が擁護し、「エイズはゲイや黒人を絶滅させるためにつくられた」という陰謀論と融合して広まっていきます。

エイズ否認主義に共感したのが南アフリカのムベキ大統領で、2000年の大統領エイズ諮問委員会に否認主義の学者を加えて、HIVウイルス説と「公平に」扱いました。その結果保健相は、抗レトロウイルス薬を毒物だとしてエイズ患者の治療に使うことを許可せず、似非科学がエイズ治療薬とするビタミン剤を勧めました。ムベキがエイズ否認主義に傾斜したのは無知だからではなく、「エイズはアフリカへの偏見だ」という(彼の考える)正義に合致していたからです。

南アフリカではいま、1日にほぼ800人がエイズで死亡し、1000人が新たにHIVに感染し、産婦人科を訪れた妊婦の3割がHIV検査で陽性と診断されています。これが、表現の自由を守って似非科学を擁護した代償なのです。

参考文献:セス・C・カリッチマン『エイズを弄ぶ人々』

『週刊プレイボーイ』2014年6月2日発売号
禁・無断転載