ボスニアでナショナリズムについて考えた 週刊プレイボーイ連載(154)

6月16日午前0時。ボスニア・ヘルチェゴヴィナの首都サラエボの中心にあるショッピングセンター前は群集で埋め尽くされていました。多くは20代の若者ですが、高齢者や女性の姿も混じっています。

広場に据えつけられた巨大なモニターにブラジルのサッカー会場が映し出されると大歓声があがり、発炎筒が焚かれ、花火が何発も打ち上げられました。ワールドカップの舞台にボスニア国歌が流れる歴史的な瞬間が訪れたのです。

ユーゴスラビア解体で1992年から95年まで続いたボスニア内戦は、20万人の犠牲者と人口の半分に迫る200万人もの難民を生み出しました。これはセルビア人、クロアチア人、ムスリムの“民族紛争”とされていますが、彼らはもともと異なる民族ではなく、南スラブ人として同じ容姿、同じ言葉、同じ文化を持っています。

そんなひとびとを隔てるものは宗教です。地域性や歴史的経緯から、バルカン半島の北西部ではセルビア正教、カトリック、イスラムの3つの宗教が広まりました。しかしこれは、“宗教紛争”ともいえません。400年以上にわたったオスマントルコ統治下でも宗教間の軋轢はありましたが、凄惨な殺し合いは起きませんでした。

ボスニアの悲劇は近代のナショナリズムによってもたらされました。国民国家とはそれぞれの民族(ネイション)が自分たちの国(ステイト)を持つという政治上の工夫(虚構)で、これによってフランスやイギリス、すこし遅れてドイツなどが国民皆兵の強大な軍事国家となり世界に覇を唱えました。ところがボスニアのように民族的なアイデンティティがあいまいな地域では、隣国(セルビアやクロアチア)の極右民族主義の扇動によって社会は混乱に陥ってしまうのです。

昨日までの隣人が突然“敵”に変わったときにひとびとをとらえたのは恐怖でした。「奴らが自分や家族を殺しにくるかもしれない」という恐怖から逃れるもっとも簡単な方法は、「奴ら」を自分たちの縄張りの外に追い出してしまうことです。

ところが、ここにはひとつ大きな問題があります。それとまったく同じことを、相手も考えているのです。

戦争とは国家の軍隊同士が戦うことで、戦闘員と市民は区別されています。ボスニア内戦の悲劇性はこの区別がなくなり、ごくふつうの市民が銃をとって隣人たちと殺し合いを始めたことでした。その結果、誰が戦闘員かわからなくなり、捕虜となった数千人の成人男子全員を処刑するというジェノサイドが引き起こされました。

膨大な犠牲者を出したのち、内戦は欧米の介入によってセルビア人地区(スルプスカ共和国)とムスリム・クロアチア人地区を分離することでようやく終息しました。このときサラエボはムスリムの居住地区とされ、セルビア人は町の東側の山麓部でまったく隔絶した暮らしをしています。ボスニアのすべての国民がワールドカップに熱狂していたわけではないのです。

初戦はアルゼンチン戦で、開始早々にオウンゴールがあったもののその後は善戦し、後半には「歴史的な初ゴール」が生まれました(イラン戦で「歴史的な初勝利」もあげました)。

その瞬間、広場に集まったひとびとは狂喜乱舞し、声をかぎりにボスニアの応援歌を歌いはじめました。それは感動的な光景でしたが、その一方で「民族」の持つ魔性を思わずにはいられませんでした。

『週刊プレイボーイ』2014年7月7日発売号
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ワールドカップ会場にボスニア国歌が流れると、発煙筒が焚かれ花火が打ち上げられた(サラエボ市街)

バカと利口のちがいはどこにあるのか? 週刊プレイボーイ連載(153)

机の上に、さまざまな表情をしたひとの写真が置かれています。私たちはそれを見た瞬間、「怒っている」「笑っている」「悲しんでいる」とその感情をいい表わすことができます。

文化人類学者は、顔写真から感情を推測するこの実験を、南太平洋やアマゾンの奥地など文明社会と接触のなかったひとたちにも行ないました。すると彼らは、これまで見たことのない白人や黒人の感情を写真だけで私たちと同じように正確にいい当てたのです。

私たちは相手の感情を「直感」で判断しています。直感の特徴は、脳に情報(表情)がインプットされた瞬間に回答(相手の感情)がアウトプットされることです。

顔写真の実験は、直感が文化(経験)によってつくられるのではなく生得的なものであることを明らかにしました。それはヒトの脳(コンピュータ)にあらかじめ組み込まれたOS(オペレーティングシステム)です。ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学の創始者ダニエル・カーネマンは、これを「速い思考」と名づけました。

それでは次に、暗算をやってみてください。

17×24=?

正解は408ですが、珠算の経験のあるひとでなければかなり苦労するでしょう。

暗算をしているときの生理的な変化を調べると、筋肉が硬直し、血圧や心拍数が上がるこことがわかっています。これは心理的にも生理的にも負荷が高い不快な状態です。

すぐに答の出る「速い思考」はわかりやすくて快適です(負荷が低い)。しかし私たちは、おうおうにして直感では解くことのできない問題に遭遇します。二桁の掛け算を暗算するには負荷の高い「遅い思考」が必要とされるのです。

私たちは、不愉快な「遅い思考」を無意識のうちに避けようとします。その方法は原理的にふたつしかありません。

(1)「遅い思考」が必要な問題を無視する

(2)あらゆる問題を「速い思考=直感」で解こうとする

理解が難しい問題に直面すると、「そんなことは私の人生になんの関係もない」と問題の存在そのものを否認するのが①の態度です。しかしそれよりやっかいなのは、複雑な問題を直感によって解こうとすることです。

「速い思考」は原因と結果を因果論で結びつけ、そのわかりやすさで感情に訴えます。「自分が正しいと感じたことだけが正しい」という狭隘な主張は、ウクライナやタイでも、「朝鮮人を殺せ」と叫ぶ団体がデモをする日本でも見ることができます。

「速い思考」しかできないひとを“バカ”と呼ぶのなら、私たちはみんなバカでしかありません。ひとは日々の出来事のほとんどを直感によって処理しています。生きるということは無数の判断の積み重ねですから、それをいちいち「遅い思考」で考えていては気が狂ってしまいます。

しかしその一方で、文明が発達し社会が複雑化してくると、速い思考だけでは対応できないことが増えてきます。私たちは生活の99%(もしかしたら99.9%)を「速い思考」で済ませていますが、世の中には負荷の高い「遅い思考」を徹底して忌避するひとと、1%(あるいは0・1%)の「遅い思考」ができるひとがいます。

私たちはみんな進化の奴隷ですが、それでも「バカ」と「利口」のちがいはあるという話を、新刊の『バカが多いのには理由がある』(集英社)で書きました。“バカ”にうんざりしているひとはぜひどうぞ。

参考:ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』

『週刊プレイボーイ』2014年6月30日発売号
禁・無断転載

「残業代ゼロ法案」に反対するほんとうの理由 週刊プレイボーイ連載(152)

政府の産業競争力会議が提言する労働時間規制の緩和をリベラルなメディアは「残業代ゼロ法案」と呼んで批判しています。労働規制緩和の「残業代を支払わない契約を認める」という面だけを強調しているのですが、はたしてこれは公正な報道でしょうか。

日本的な雇用慣行は製造業をベースにつくられたものです。工場では労働者が働いた時間だけ製品がつくられますから、残業代が払われないのは無料奉仕、すなわち奴隷労働になってしまいます。

ところが産業が高度化してサービス業や知識産業が主流になると、工場と同じような労働管理ではうまくいかなくなります。

知識社会においては、働き方は大きく3つに分かれます。(1)クリエイティブクラス、(2)スペシャリスト(専門家)、(3)バックオフィスです。

バックオフィスというのは縁の下のちからもちで、いわゆる事務仕事です。こうした仕事は時給計算が可能で、残業すれば収入が増え、欠勤すれば給料から差し引かれます。飲食店などと同じ給与体系なので、“マックジョブ”とも呼ばれます。

クリエイティブクラスとスペシャリストの違いは、映画スターと舞台の役者にたとえるとわかりやすいでしょう。

どれほど人気の演劇やミュージカルでも、公演の回数や劇場の規模、チケットの料金には自ずと上限があります。弁護士や公認会計士、医師などの専門職も同じで、時給は高くてもクライアントの数や仕事の量には物理的な制約があります。

それに対して映画スターは、いったんヒット作に主演すると、映画やテレビ放映、DVDなどで世界じゅうに作品が拡散していき、何十億、何百億と稼ぐことも珍しくありません。テクノロジーの進歩によって、クリエイティブクラスの富には上限がなくなったのです。

もちろんこれは、クリエイティブクラスの方が有利だ、ということではありません。世界的な大スターになれる確率はきわめてわずかで、ほとんどの挑戦者は脱落していきます。それに対してスペシャリストは、無限の富は手にできないかもしれませんが、高い確率で平均以上の収入を得ることができます。

知識社会化が進むなかで、クリエイティブクラスは真っ先に会社を辞めて独立していきました。日本の会社はいま、社内のスペシャリストをどう処遇するかで悩んでいます。

「残業代ゼロ」の例として為替ディーラーが挙げられていますが、彼らの仕事の実態は会社の庇を借りた自営業者と変わりません。成果報酬で社長以上の給与を受け取ることもあるのですから、残業代ゼロはもちろん、大損すれば退職金ゼロで解雇されるのが当たり前です。

法務や経理などのスペシャリストは、資格などによって人材としての価値が労働市場で客観的に評価されるようになるでしょう。そうなれば、会社の処遇に不満なら転職や独立すればいいだけですから、政府が労働規制で保護する必要はありません。それに対してバックオフィスの仕事は景気に左右され、転職も簡単ではないので、どこの国でも一定の保護が必要とされています。

日本の会社では、いまだにバックオフィスとスペシャリストが混在し、同じ給与体系で社員全員を管理しようと四苦八苦しています。労働規制緩和というのはそれを実態に合わせることなのですが、大半のサラリーマンにとって、自分の仕事がマックジョブだという現実を突きつけるような“改革”はとうてい受け入れられないのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2014年6月23日発売号
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