集団的自衛権の行使に反対するひとたちはなぜ空洞化するのか 週刊プレイボーイ連載(155)

集団的自衛権の行使が閣議決定で容認され、リベラルなメディアは「立憲主義を破壊する暴挙」と大々的に報じていますが、国民の大半は無関心で、首相官邸を取り囲むデモの熱気も福島第一原発事故を受けた反原発運動のピーク時とは比べ物になりません。

盛り上がりに欠ける理由のひとつは、反対派の理屈がわかりにくいからでしょう。

安倍政権を批判するひとたちの主張は、大きくふたつに分けられます。

(1)集団的自衛権の行使にも、解釈改憲にも反対する

(2)集団的自衛権の行使は容認するが、解釈改憲には反対する

(1)は典型的な平和主義ですが、(2)は「憲法を改正して軍の存在と国家の自衛権を明記すべし」という立場ですから、“戦後民主主義”的な護憲リベラルとは真っ向から対立します。しかしそうなると反対派が分裂してしまうので、憲法改正の是非をあいまいにしたまま解釈改憲を批判するという戦術をとらざるをえません。しかしこれでは、誰がなにに反対しているのかがわからなくなってしまいます。

さらにややこしいのは、平和主義のなかにもふたつの異なる立場があることです。

(3)国家に自衛の権利があるのは当然だから、自衛隊と個別自衛権は認める

(4)日本国憲法9条には「戦力を保持しない」と書かれているのだから、自衛隊は違憲である

この両者も折り合うことはできませんから、反対派を結集するには個別自衛権をめぐる論争も封印しなくてはなりません。その結果、反対派の論理はますます空洞化してしまうのです。

こうして「解釈改憲は憲法を破壊する」と声を張りあげることになるのですが、ここでもやっかいな問題が待ち構えています。

よく知られているように、敗戦直後の吉田内閣は「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」と憲法9条を字義どおりに解釈していました。ところが朝鮮戦争によって米国から再軍備を求められ、帝国陸海軍の残存部隊を再編して警察予備隊と海上警備隊を発足させます(これが現在の自衛隊です)。

この重大な国家の岐路に世論は沸騰しましたが、日本政府は憲法を改正するのではなく、9条を維持したまま解釈改憲で強引に乗り切りました。「国家の自衛権は自然権なのだから、文面として明示されるまでもなく、9条が(個別)自衛権を前提にしているのは当然だ」というのです。これを「第一の解釈改憲」と呼びましょう。

(4)の絶対平和主義は、第一の解釈改憲も(今回の)第二の解釈改憲も認めないのですから、それなりに筋は通っています。ところが(3)の現実的な平和主義では、第一の解釈改憲は容認し、第二の解釈改憲には反対することになってしまいます。ふつうに考えれば、憲法解釈が根底から変えられたのは自衛隊創設の方ですから、こちらを認めるのなら自衛権が「個別」か「集団的」かは些末なことでしょう。

このように反対派の実体は烏合の衆で、その根拠を突き詰めるとたちまち破綻・分裂してしまいます。

それではなぜ、彼らが一致団結しているように見えるのでしょうか。それは、「安倍政権が嫌いだ」という感情的な反発だけは強く共有されているからなのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2014年7月14日発売号
禁・無断転載

ボスニアでナショナリズムについて考えた 週刊プレイボーイ連載(154)

6月16日午前0時。ボスニア・ヘルチェゴヴィナの首都サラエボの中心にあるショッピングセンター前は群集で埋め尽くされていました。多くは20代の若者ですが、高齢者や女性の姿も混じっています。

広場に据えつけられた巨大なモニターにブラジルのサッカー会場が映し出されると大歓声があがり、発炎筒が焚かれ、花火が何発も打ち上げられました。ワールドカップの舞台にボスニア国歌が流れる歴史的な瞬間が訪れたのです。

ユーゴスラビア解体で1992年から95年まで続いたボスニア内戦は、20万人の犠牲者と人口の半分に迫る200万人もの難民を生み出しました。これはセルビア人、クロアチア人、ムスリムの“民族紛争”とされていますが、彼らはもともと異なる民族ではなく、南スラブ人として同じ容姿、同じ言葉、同じ文化を持っています。

そんなひとびとを隔てるものは宗教です。地域性や歴史的経緯から、バルカン半島の北西部ではセルビア正教、カトリック、イスラムの3つの宗教が広まりました。しかしこれは、“宗教紛争”ともいえません。400年以上にわたったオスマントルコ統治下でも宗教間の軋轢はありましたが、凄惨な殺し合いは起きませんでした。

ボスニアの悲劇は近代のナショナリズムによってもたらされました。国民国家とはそれぞれの民族(ネイション)が自分たちの国(ステイト)を持つという政治上の工夫(虚構)で、これによってフランスやイギリス、すこし遅れてドイツなどが国民皆兵の強大な軍事国家となり世界に覇を唱えました。ところがボスニアのように民族的なアイデンティティがあいまいな地域では、隣国(セルビアやクロアチア)の極右民族主義の扇動によって社会は混乱に陥ってしまうのです。

昨日までの隣人が突然“敵”に変わったときにひとびとをとらえたのは恐怖でした。「奴らが自分や家族を殺しにくるかもしれない」という恐怖から逃れるもっとも簡単な方法は、「奴ら」を自分たちの縄張りの外に追い出してしまうことです。

ところが、ここにはひとつ大きな問題があります。それとまったく同じことを、相手も考えているのです。

戦争とは国家の軍隊同士が戦うことで、戦闘員と市民は区別されています。ボスニア内戦の悲劇性はこの区別がなくなり、ごくふつうの市民が銃をとって隣人たちと殺し合いを始めたことでした。その結果、誰が戦闘員かわからなくなり、捕虜となった数千人の成人男子全員を処刑するというジェノサイドが引き起こされました。

膨大な犠牲者を出したのち、内戦は欧米の介入によってセルビア人地区(スルプスカ共和国)とムスリム・クロアチア人地区を分離することでようやく終息しました。このときサラエボはムスリムの居住地区とされ、セルビア人は町の東側の山麓部でまったく隔絶した暮らしをしています。ボスニアのすべての国民がワールドカップに熱狂していたわけではないのです。

初戦はアルゼンチン戦で、開始早々にオウンゴールがあったもののその後は善戦し、後半には「歴史的な初ゴール」が生まれました(イラン戦で「歴史的な初勝利」もあげました)。

その瞬間、広場に集まったひとびとは狂喜乱舞し、声をかぎりにボスニアの応援歌を歌いはじめました。それは感動的な光景でしたが、その一方で「民族」の持つ魔性を思わずにはいられませんでした。

『週刊プレイボーイ』2014年7月7日発売号
禁・無断転載

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ワールドカップ会場にボスニア国歌が流れると、発煙筒が焚かれ花火が打ち上げられた(サラエボ市街)

バカと利口のちがいはどこにあるのか? 週刊プレイボーイ連載(153)

机の上に、さまざまな表情をしたひとの写真が置かれています。私たちはそれを見た瞬間、「怒っている」「笑っている」「悲しんでいる」とその感情をいい表わすことができます。

文化人類学者は、顔写真から感情を推測するこの実験を、南太平洋やアマゾンの奥地など文明社会と接触のなかったひとたちにも行ないました。すると彼らは、これまで見たことのない白人や黒人の感情を写真だけで私たちと同じように正確にいい当てたのです。

私たちは相手の感情を「直感」で判断しています。直感の特徴は、脳に情報(表情)がインプットされた瞬間に回答(相手の感情)がアウトプットされることです。

顔写真の実験は、直感が文化(経験)によってつくられるのではなく生得的なものであることを明らかにしました。それはヒトの脳(コンピュータ)にあらかじめ組み込まれたOS(オペレーティングシステム)です。ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学の創始者ダニエル・カーネマンは、これを「速い思考」と名づけました。

それでは次に、暗算をやってみてください。

17×24=?

正解は408ですが、珠算の経験のあるひとでなければかなり苦労するでしょう。

暗算をしているときの生理的な変化を調べると、筋肉が硬直し、血圧や心拍数が上がるこことがわかっています。これは心理的にも生理的にも負荷が高い不快な状態です。

すぐに答の出る「速い思考」はわかりやすくて快適です(負荷が低い)。しかし私たちは、おうおうにして直感では解くことのできない問題に遭遇します。二桁の掛け算を暗算するには負荷の高い「遅い思考」が必要とされるのです。

私たちは、不愉快な「遅い思考」を無意識のうちに避けようとします。その方法は原理的にふたつしかありません。

(1)「遅い思考」が必要な問題を無視する

(2)あらゆる問題を「速い思考=直感」で解こうとする

理解が難しい問題に直面すると、「そんなことは私の人生になんの関係もない」と問題の存在そのものを否認するのが①の態度です。しかしそれよりやっかいなのは、複雑な問題を直感によって解こうとすることです。

「速い思考」は原因と結果を因果論で結びつけ、そのわかりやすさで感情に訴えます。「自分が正しいと感じたことだけが正しい」という狭隘な主張は、ウクライナやタイでも、「朝鮮人を殺せ」と叫ぶ団体がデモをする日本でも見ることができます。

「速い思考」しかできないひとを“バカ”と呼ぶのなら、私たちはみんなバカでしかありません。ひとは日々の出来事のほとんどを直感によって処理しています。生きるということは無数の判断の積み重ねですから、それをいちいち「遅い思考」で考えていては気が狂ってしまいます。

しかしその一方で、文明が発達し社会が複雑化してくると、速い思考だけでは対応できないことが増えてきます。私たちは生活の99%(もしかしたら99.9%)を「速い思考」で済ませていますが、世の中には負荷の高い「遅い思考」を徹底して忌避するひとと、1%(あるいは0・1%)の「遅い思考」ができるひとがいます。

私たちはみんな進化の奴隷ですが、それでも「バカ」と「利口」のちがいはあるという話を、新刊の『バカが多いのには理由がある』(集英社)で書きました。“バカ”にうんざりしているひとはぜひどうぞ。

参考:ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』

『週刊プレイボーイ』2014年6月30日発売号
禁・無断転載