第68回 幸せに必要なお金、おいくら(橘玲の世界は損得勘定)

アメリカは「超格差社会」だといわている。それがどのような社会なのか、具体的なデータで見てみよう(1ドル=110円で換算/端数は四捨五入)。

まずは所得の比較。アメリカの世帯数は1億6500万で、下位90%の1億5000万世帯の平均所得額は360万円。それに対して上位0.01%=1万6500世帯は32億円で下位90%の900倍になる。

次は資産だが、下位90%の世帯の平均純資産(資産―負債)は920万円。上位0.01%は4000億円でその差はなんと4万倍以上だ。毎年の所得が蓄積されて資産になるのだから、資産格差は所得格差よりもずっと大きくなる。

その結果アメリカでは、下位90%のひとたちが総純資産に占める割合は全体の22.8%しかなく、上位0.01%の超富裕層は資産全体の11.2%を占めている。

上位0.1%の富裕層と比較しても、超富裕層は所得で8倍、資産で9倍ゆたかで、極端な富の集中は明らかだ。このような数字からはアメリカが0.01%によって支配されているように思えてくるし、そのように主張するひとも多い。

しかし視点を変えてこのデータを眺めると、アメリカ社会の別の側面が見えてくる。

所得分布で上位5%以上10%未満では、平均所得額は1600万円だ。資産分布で上位1%以上10%未満では、平均純資産額は1億4000万円になっている。さらに、下位90%と上位10%%を分けるボーダーラインは所得で1300万円、資産で7200万円だから、アメリカでは10世帯に1世帯が所得でも資産でもこれよりゆたかだということになる。

さまざまな幸福の研究では、お金は幸福感に影響するものの、一定額を超えるとそれ以上お金が増えても幸福感は変わらなくなる。暑い夏の日のビールのひと口めはものすごく美味しくても、その感動はだんだん薄れていって、やがて惰性で飲むようになるのと同じだ。経済学でいう「限界効用の逓減」で、ひとの感情はほとんどのことに慣れるようになっているから、お金でもこの法則が通用するのだ。

所得が増えても幸福感が変わらなくなるのはいくらだろうか。これはアメリカで年収7万5000ドル、日本で年収800万円とされていて、奇しくも日米でほぼ同じだ。これは一人あたりなので、世帯ではおおよそ1500万円になる。一方の資産では、金融資産(預金や株式など)が1億円を越えると幸福感が変わらなくなるという研究がある。

幸福の研究では、お金のことを気にすると幸福感が下がることがわかっている。世帯収入1500万円、金融資産1億円というのは、日々の生活でお金のことを気にせず、老後の経済的な不安もなくなる水準なのだろう。

データからわかるのは、アメリカでは上位10%の世帯の大半が、所得でも資産でもこの基準を越えていることだ。「超格差社会」とは、国民の10世帯に1世帯(おおよそ10人に1人)が、「幸福の限界値」を上回るゆたかさを手に入れたユートピアでもある。だからこそ、そこから取り残されたひとたちの絶望がより深まるのだろう。

参考:小林由美『超一極集中社会アメリカの暴走』

橘玲の世界は損得勘定 Vol.68『日経ヴェリタス』2017年6月11日号掲載
禁・無断転載

『幸福の「資本」論』あとがき

新刊『幸福の「資本」論』から、出版社の許可を得て、「あとがき」をアップします。

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この本が生まれるきっかけは「幸福な人生」の土台についてライターの渡辺一朗さんからインタビューを受けたことで、それをもとに過去の著作をアップデートするかたちで一冊にまとめました。東日本大震災を受けて2011年7月に『大震災のあとで人生について語るということ』(『日本人というリスク』として講談社+α文庫に収録)を出版したときに「人生設計についてはすべて書きつくした」という気持ちがあったのですが、今回、「3つの資本=資産のポートフォリオ」という視点から「幸福論」をまとめてみるとまた新しい発見があったことに気づきました。人的資本と社会資本については新たな知見も加え、より詳細に論じられたのではないかと思っています。

かつて、「幸福」は神の専売特許でした。しかしダーウィン以降の私たちは、もはや神に頼ることはできません。幸福は主観的なものですが、だからこそ「自分の幸福」については自分で考えるしかないのです。

この本で書いたことはさまざまな研究によってエビデンス(証拠)が示されていますが、それでもあらゆる幸福論と同様に、私の個人的な体験に基づいていることは間違いありません。

40歳でフリーエージェントになったとき、人生をできるだけシンプルにしたいと考え、それ以来、日々の生活は本を読むことと文章を書くこと、そしてときどきサッカーを観ることだけで、ほとんどなんの変化もありません。テレビ出演などを引き受ければいろいろな刺激を受けられるかもしれませんが、「キャラ」が合わない気がするのでその気になりません。その代わり、1年のうち数カ月を旅にあてています。

経済的に独立した一介のもの書きとして、どんな組織にも所属せず、誰に遠慮する必要もなく好きなことを書き、(批判も含めた)読者の声を社会資本とし、誰も読んでくれなくなったらそれでお終いだと思っています。ささやかなものですが、私にとってはこれ以上望むもののない幸福な人生です。

もの書きになってからずっと、この仕事は「読者を探す旅」だと考えてきました。その一方で、読者もまた著者を探しているはずです。

あらゆるひとに適した、普遍的な「幸福の法則」はありません。この本もすべての読者が満足することはないでしょうが、それは仕方のないことでもあります。しかし心理学者は、どのようなアドバイスが有用なのかを明らかにしました。その原則はとてもシンプルです。

ひとは、自分と似ているひとからの助言がもっとも役に立つ。

この本が、「私に似た」あなたの人生になんらかの役に立てば幸いです。

2017年4月 橘 玲

規制緩和なんて、しょせん私利私欲? 週刊プレイボーイ連載(293) 

学校法人「加計学園」が愛媛県今治市の国家戦略特区に大学の獣医学部を新設する計画で、安倍首相の関与をめぐって国会が紛糾しています。森友学園問題では、理事長夫妻の特異な教育方針に心酔したのは昭恵夫人で、校名に自分の名を冠して寄付金集めの道具にされるなど、首相は「困った妻に振り回される夫」の役回りでした。しかし今回は、首相自らが権力を行使したのではないかというのですから疑惑はより重大です。

なにが問題になっているのか、論点は2つあります。

(1)文部科学省と獣医師会は「全国的に獣医師の数は足りている」として、50年以上にわたって獣医学部の新設を認めてこなかったが、この規制は正当化できるのか。

(2)規制緩和するとして、獣医学部はどの地域にどれほどの定員で新設し、誰が運営するのか。設置場所と事業者の選定は公正な手続きで行なわれたのか。

獣医学部の新設については民主党政権時代にも検討されたことがあり、規制が既得権を守っているだけとの認識はあったようです。税金を投入しているわけでもないのに、需要に合わせて獣医師の数を調整しなければならない理由があるとも思えません。供給が多くなればサービスの悪い獣医師が淘汰されるだけですから、消費者にとってもよいことでしょう。

だとすれば問題は、「どこに誰がつくるか」にあります。そして前文部科学次官の証言などを見るかぎり、その経緯は権力の陰に覆われているといわざるを得ません。

獣医学部の新設が認められたあと、内閣府は公募を行ないますが、手を挙げたのは加計学園と組んだ今治市だけでした。これは一見すると、競合者がいないのだから公正に思えますが、報道によれば、京都府が京都産業大学と組んで名乗りをあげていたものの、公募条件が突然、「獣医系大学のない地域に限り」に変わったため、地域内にすでに獣医学部がある京都府は諦めざるを得なかったといいます。これは「あと出しじゃんけん」以外のなにものでもありません。

安倍首相の関与については、内閣府の文書に「総理のご意向だと聞いている」との文言があったり、「総理は自分の口からは言えないから、私が変わりに言う」との首相補佐官の発言を前次官が証言するなど、ぞくぞくと傍証が出てきています。加計学園の理事長を首相は「腹心の友」と呼んでいるのですから、規制緩和を利用して支援者に便宜を図ったと見られても仕方ないでしょう。

国家戦略特区は、「岩盤規制に風穴を開ける」という大義名分で、トップダウンの強い権限が与えられています。規制緩和の正統性は、権力と結託して甘い汁を吸っている既得権益を破壊し、「消費者主権」のもとで市場を活性化させていくことにあります。既得権が「岩盤」となっている業界では強引な手法が必要なこともあるでしょうが、それだからこそ運用にあたっては常に公正をこころがけねばなりません。

規制緩和の名のもとに自分たちも甘い汁を吸っているなら、そんなものを誰も信用しないのは当たり前です。「改革」の掛け声だけでけっきょくなにも進まないのは、けっきょくこういうことなのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2017年6月12日発売号 禁・無断転載