ある日突然、戸籍に見知らぬ外国人の名前が載っていたら 週刊プレイボーイ連載(275)

一夫一妻制の国では重婚は犯罪です。日本は戸籍制度があるので、複数の女性を法的な配偶者にすることは不可能だとされています。

しかし現実には、戸籍に2人の配偶者が記載されることがあります。そのうえ本人のまったく知らないうちに戸籍が書き換えられ、重婚の状態になることもあります。

なぜこんなことが起きるかというと、海外で現地の女性と結婚式を挙げたものの、日本の戸籍にはそのことを載せない男性がいるからです。その後、2人の関係が破綻して、日本人の父親が妻子を捨てて日本に帰ってしまう、ということも珍しくありません。この場合、日本では戸籍上独身ですから、日本人女性とあらたに結婚してもなんの問題もありません。

しかしじつは、ここに「罠」があります。

国際私法では「婚姻の方式は、婚姻挙行地の法による」とされており、日本人が海外で結婚式をあげた場合、現地の政府が発行した正式な証明書があれば、日本でも婚姻の事実が認められます。さらに戸籍法では、婚姻届は、その事実があればいつでも提出できます。この2つを組み合わせると、海外で日本人男性と結婚した外国人女性は、何年後、あるいは何十年後でも、その事実を日本の戸籍に記載させることができるのです。そしてこのとき、男性が別の女性と結婚していれば、「合法的」に2人の妻を持つことになります(理屈のうえでは日本人女性と外国人男性でも同じことが起きますが、そのようなケースは聞いたことがありません)。

この事実が知られるようになったきっかけは、フィリピンで「新日系人」と呼ばれる子どもたちの存在が社会問題になったからです。彼らは日本人男性とフィリピン人女性のあいだに生まれましたが、父親が養育を放棄したため、フィリピンで母子家庭の貧困生活を余儀なくされていました。しかし母親がフィリピン政府の発行する結婚証明書を持っていれば、父親が日本人であることを証明できますから、血統主義の日本の国籍法では子どもは「日本人」になるはずです。

こうしてフィリピンで、新日系人に日本国籍を取得させるビジネスが始まりました。そのためにはまず、フィリピン人の妻を日本の戸籍に記載させます。するとそれに基づいて日本の大使館から渡航ビザが発給され、本人あるいは母子で日本に行くことができます。そして国籍法に定められた一定の居住要件を満たせば、戸籍上、日本人の父を持つ子どもには自動的に日本国籍が与えられるのです。そして驚くべきことに、これはたんなる行政手続きなので父親の同意や許諾が必要ないばかりか、その事実を通知する義務もないのです。

成人した新日系人が日本国籍を取得すれば、「日本人」として自由に働くことができます。幼い子どもに日本国籍が与えられれば、母親は保護者として日本での労働ビザが発給されます。これが国籍取得の目的ですが、自業自得とはいえ、知らないうちに戸籍を書き換えられ、重婚になった男性とその家族はいったいどうなるのでしょうか。

そんな話を小説『ダブルマリッジ』(文藝春秋)で書きました。

ある日突然、戸籍に見知らぬ外国人の名前が載っていたら、あなたはどうしますか?

『週刊プレイボーイ』2017年1月30日発売号 禁・無断転載

『ダブルマリッジThe Double Marriage』誕生裏話

『ダブルマリッジThe Double Marriage』は『別冊文藝春秋』2015年11月号~2016年9月号まで6回にわたって連載されました。「ただいま連載中」のコーナーでこの本が生まれるきっかけをすこし書いたので、一部加筆してアップします。

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2013年3月に『月刊文藝春秋』の取材でフィリピンの日本人向け介護施設を訪ねました。米軍基地の将校宿舎を改築したその施設を運営しているのは、日本の老人ホームにフィリピン人介護士を派遣している会社で、その現地責任者がIさんでした。

マニラ郊外にあるIさんのオフィスで外国人看護師・介護士の受け入れ問題について話を聞いているとき、壁に奇妙なボードがかかっているのに気がついて、帰り際に「これは何ですか?」と訊いてみました。そのボードには、フィリピン人の名前の横に「戸籍」という欄があり、そこに「OK」とか「調査中」などの記号が並んでいたのです。

「ああ、これは日本で働きたい新日系人が、戸籍を書き換えて日本人になるためのものなんですよ」あっさりと、Iさんはいいました。

フィリピンには、第二次世界大戦以前に日本人の父親とフィリピン人の母親のあいだに生まれ、敗戦によって取り残された多くの日系人がいます。その後、1980年代になるとフィリピンから“じゃぱゆきさん”と呼ばれる女性たちが大量に日本に出稼ぎに来るようになりました。彼女たちと日本人男性のあいだに生まれ、父親から認知も援助を受けられず、フィリピンで育てられた子どもたちを「新日系人」というのだそうです。

この新日系人が国際的な人権問題になるのを防ぐため、日本政府は彼らに積極的に日本国籍を与えるよう方針を変えました。こうして、フィリピンで結婚の事実が証明できる場合は、行政手続きによって戸籍を書き換え、フィリピン人の母親を戸籍上の配偶者にしたうえで、その子どもを「日本人」にするビジネスが始まったのです。

私はそのときはじめてこのことを知ったのですが、それからずっと、「日本人」と「国籍」をめぐる物語を書いてみたいと思ってきました。その後、日本国籍を取得した新日系人の若者たちの話を聞いたり、本作の舞台となるマニラのスコーターや孤児院、ビコールのスコーターを訪れるなどして、『ダブルマリッジThe Double Marriage』にまとめることができました。一人でも多くの「日系日本人」がこの問題に目を向けるきっかけになればと思います。

橘 玲

『ダブルマリッジThe Double Marriage』「日本人」をつくるビジネス

新刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』で、戸籍上、前婚の妻となったマリア・ロペスと話をつけるべくフィリピンに渡った憲一は、マニラでコンサルタントをする鴨川武彦から、新日系人を「日本人」にする裏の事情を説明されます。その場面を第4章「スコーター」からアップします。

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午後一時半を回ると、ランチの客は大半がいなくなった。のんびり食事しているのは旅行者か、ベビーカーに子どもを載せた有閑マダム風の欧米人だけだ。

「鴨川さん、フィリピンは長いんですか?」甘辛いカレーを口に運びながら憲一は訊ねた。

「私ですか? 今年で一〇年めです。その前になにをしていたかは、ちょっといえませんが」

「お仕事は、新日系人を日本に送ることですか」

「そんなのはごく一部ですよ」ウェイターを呼んでもう一本ビールを頼むと、鴨川はこたえた。「顧客のほとんどはフィリピンで暮らす日本人か、日本で働きたいフィリピン人です。新日系人の世話は大使館との腐れ縁でやってるだけですから」

「大使館?」憲一は驚いた声をあげた。「いったいなぜです?」

「日本人の父親を持つ子どもがこの国にどのくらいいるか知ってますか」鴨川はグラスを置くと憲一を見た。「正確な数字は誰にもわからないんですが、日本国籍者だけで三万人、フィリピン国籍を加えれば一〇万人は下らないといわれています」

「一〇万人!?」

「ものすごい数でしょ。彼らは父親に捨てられ、母子家庭の貧しい暮らしでは学校にも満足に通えないんですが、それはまだいいほうで、なかには母親にも捨てられてストリートチルドレンになる子どももいるんです。日本の国籍法は血統主義ですから、父親が日本人なら子どもも日本人です。日本語を話す日本人の子どもが、マニラの路上で残飯を漁ってるんですよ」

「そんなことが……」

「日本ではほとんど知られていないでしょ。でも新日系人のための孤児院ができたりして、その実態がすこしずつ報じられるようになってきたんです。それが政府内で問題になったんでしょうね。きっかけは例の従軍慰安婦ですよ」

「慰安婦?」憲一はけげんな顔をした。「なぜ韓国の、それも第二次世界大戦中の話がフィリピンに関係あるんですか?」

「慰安婦問題というのは、国際的には女性の人権問題なんです。九〇年代から国連人権委員会などで取り上げられるようになりましたが、決定的なのは二〇〇七年にアメリカ下院で慰安婦問題の責任を認定するよう決議されたことでしょうね。それがオランダ、カナダ、EU議会へと広がったことで、日本政府は「人権侵害の国」のレッテルを貼られることにものすごく神経質になったんです。そんなとき、フィリピンに数万人の日本人の孤児が放置されているとわかったらどうなりますか。それからですよ、大使館の態度ががらっと変わって、父親が日本人だと証明できれば積極的に国籍を与える、といいはじめたのは」

「それで、フィリピンで結婚している女性を探して戸籍を修正する業者が現われた……」

「私はそこにも裏があると思いますよ」鴨川はぐびりとビールを飲んだ。「私らみたいな業者には、戸籍制度のことなんかなにもわかりませんよ。外務省と法務省で国籍取得の道筋をつくって、それを懇意にしている大手の業者に教えたんじゃないかと私は勘ぐってますけどね。いずれにせよ、大使館を通じてやってることですから」

「大使館が実務にかかわってるんですか?」

「もちろんですよ」なにをバカなことを、という顔で憲一を見た。「日本人の男との婚姻証明を持ったフィリピン女性が相談にくるでしょ。そしたらまず、いつどこで出会って、子どもはいつ生まれて、どういう理由で夫がいなくなったのか、詳しい身上書をつくるんです。その身上書と婚姻届、出生届、日本で取得した夫の戸籍謄本を添えて大使館に提出して、それで夫の戸籍を修正するんですよ」

「するとこれは、ぜんぶ大使館がやってることなんですか?」

「そうともいえないんですよねえ」鴨川は意味ありげに笑った。「いちど大使館の人間に聞いたことがあるんですが、彼らはただ書類を本省の領事課に送るだけで、自分たちはなにもしてないというんですね。本省はそれを夫の戸籍を管理している自治体に転送して、自治体は本人に戸籍を修正するよう催告書を送る。その催告に返答がないと、書類は管轄の法務局戸籍課に回されて、そこで真正なものと確認されると職権で戸籍に妻の名前が記載される、という話でしたけどね。マスコミなどから批判されても、誰も責任をとらなくてもいいように、たらい回しの仕組みになってるんです。法務局だって、自分で判断することなんてできないから、法務省と内輪で調整しているはずですしね。うまくできてますよ」

鴨川の説明を聞いて、T市役所戸籍係の山下がいったことがようやく理解できた。政府の方針で外務省と法務省が結託してやっているのなら、末端の役人に文句をつけたところでどうしようもないのは当たり前だ。

「戸籍が修正されると、それに基づいて、子どもが幼い場合は母子の、二十歳以上なら子どもの日本滞在ビザを大使館に請求するんです」鴨川が説明をつづけた。「これは外国人向けのビザではなくて、戸籍上子どもが日本人と推定されることを前提としているので、大使館で領事のかんたんな面接を受けるだけで期間一年程度のビザが発給されます。母子の場合は、母親はフィリピン人ですから「子どもの養育のため」という名目になります。子どもが二十歳未満なら、国籍法によって、半年たつと日本に住所があると見なされて無条件で日本国籍の再取得ができます」

「犯罪歴があってもですか?」

「もともと日本人なんですから、そんなの関係ないですよ。有罪になると日本国籍を剥奪する、なんて法律はないでしょ」鴨川は皮肉な笑みを浮かべた。「桂木ケンのケースは二十歳を超えているから帰化の手続きになるんですが、これも日本人とのあいだの子であることが戸籍でわかっているんですから、申請すればほぼ自動的に帰化が認められます。これで国際社会に対して、「本人が望めばちゃんと日本国籍を与えている」と名分が立つということですよ」

「そういう例はどれくらいあるんですか?」

「それは私らではわかりません」鴨川はいった。「でも大手はうちなんかよりずっと手広くやってますから、数千人単位で日本国籍を取得しているのは間違いないでしょうね」

「数千人、ですか……」

「でも、その数もこれからは先細りでしょうね。新日系人が生まれたのは“じゃぱゆきさん”の時代で、ピークの二〇〇四年には八万人のフィリピン人女性が興行ビザで日本に入国したとされています。でも翌年に法務省が興行ビザの発給を厳格化して、それ以降はフィリピーナの数も激減しました。いまでも定年退職した高齢者がこっちに来て子どもをつくってますが、女の子が大挙して日本に行くのとでは桁がちがいますよ。まあ、JFC相手の商売は儲からないからどうでもいいんですけど」

「儲からない?」憲一はまたけげんな顔をした。

「私らの食い扶持は、書類を整えたり手続きを代行した手数料です。でもほとんどの依頼者はカネなんか持ってないから、日本で働いて稼いだ分から支払ってもらうんです。最近ようやく社会問題になってきたようですが、外国人労働者の職場はまともなところばかりじゃないですからね。パスポートを金庫に入れて、契約期間が終わるまで返さないような現場はいくらだってある。でも新日系人は日本人でしょ。日本国籍さえ取れば、契約なんて紙くずと同じですよ。パスポートが必要なら日本のを取ればいいんですから、さっさと3Kの仕事を辞めて、それっきりです」それから憲一に目をやって、「そういえば桂木ケンさんからの送金も最初の一年だけで、まだ半分も回収できてません」とつけ加えた。

憲一は困惑した顔をしていたが、「その残金、私が払わせていただきます」といった。

鴨川は大仰に手を振ると、「いやいや、そんなつもりでいったんじゃないです」と笑った。「息子さんの不始末の責任を取れなんて、そんなこと思ってませんから」

「……」

不愉快そうな憲一の顔を見て、「いや、こっちのほうが失礼でしたね」と鴨川は頭をかいた。「いずれにせよ、マリア・ロペスの居所を探すのが先決でしょう。生きているのか死んでいるのかすら不明なんですから」

「手がかりはあるんですか?」鴨川が話題を変えたことにほっとして、憲一は訊いた。

「住所から辿るしかないんですが、スコーターなんですよ」鴨川はため息をついた。

「スコーター?」

「Squatterが訛ったもので、本来は廃屋などを不法占拠することなんですが、こっちではスラムのことです。地元の人間でも恐がるところですから、私らみたいな日本人には近づくことすらできません。犯罪者と麻薬中毒者の巣窟で、足を踏み入れれば生命の保証はありませんから」

文藝春秋刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』 禁・無断転載