不倫疑惑の議員の当選を認めないひとと、選挙結果を認めないひと 週刊プレイボーイ連載(312)

総選挙が終わってから、暗い気分になる話題がつづいています。

ひとつは、不倫疑惑によって民進党を離党した女性議員の当選に対して、「無効票が1万票もあるのに834票差で当選したのはおかしい」として、「選挙をやり直せ」という電話が選挙管理委員会に大量にかかっていることです。なかには2時間半も抗議するものもあるとのことで、ここまでくると常軌を逸しています。

もちろん選管は「開票は公正に行なわれ不正はあり得ない」と述べており、抗議になんの根拠もありません。アメリカでは「ヒラリー・クリントンがかかわる小児性愛者の巣窟」とのフェイクニュースをネットに書かれたピザ店に銃をもった男が押し入り、発砲するという事件が衝撃を与えましたが、日本の民度もアメリカと変わりません。

もうひとつは、自公の与党で3分の2を獲得した選挙結果に対して、「総理の解散権の乱用」だとして、「こんな選挙は認めない」と主張するひとたちがいることです。「憲法で解散権を制限すべきだ」というのは今回の選挙が決まってから出てきた話で、それ以前にこんな改憲論は聞いたことがありません。これでは「安倍政権が勝つような選挙はするな」というのと同じで、かりに野党が政権をとるようなことがあれば自分に不利な“改憲”はすぐに忘れることでしょう。「出口調査では安倍政権を支持しないという回答が多かった」との声もありますが、これだと「選挙などせずに世論調査で政治を決めればいい」ということになってしまいます。

そのなかでもいちばんがっかりしたのは、“リベラル”な新聞が「共闘実現していたら」として、各選挙区の野党候補の得票数を単純合算し、希望の党から共産党までが共闘していれば63選挙区で勝敗が逆転したとの試算を載せていたことです。民進党が分裂したのは共産党との共闘を頑強に拒否する保守系議員がいたからで、右から左までごちゃまぜになった異様な政治組織に有権者が同じ投票をする根拠もありませんが、そんな事実をすべてなかったことにして空想(というか妄想)をわざわざ記事にするのでは“フェイクニュース”といわれても仕方ありません。

「与党圧勝」という有権者の判断を当然と思うなら、女性議員を当選させた有権者の“良識”を認めなければなりません。政治家は公職ですから「不倫」を批判されるのはしかたないとしても、選挙で当選したということは、政治家としての将来に期待する多くの有権者と強固な支援者がいたということです。これによって一定の責任を果たしたとわたしは考えますが、これに同意するなら選挙結果も有権者の判断として尊重すべきでしょう。

これは子どもでもわかるかんたんな理屈ですが、不倫疑惑の議員の当選を認めないひとと、安倍政権を「独裁」と批判して「こんな選挙は認めない」というひとはこのダブルスタンダードに気づかず、自らを“善”、相手を“悪”としてあいかわらずはげしく罵り合っています。

彼らはじつは、ものすごくよく似ています。冷静になってみれば、鏡には自分の醜い姿が映っていることに気づくのに……。

あっ、だからこのひとたちは冷静な議論を拒絶して、いつも怒っているんですね。

『週刊プレイボーイ』2017年11月6日発売号 禁・無断転載

日本は世界でもっとも格差の小さな社会? 週刊プレイボーイ連載(311)

なんのためにやったのかよくわからない総選挙の結果は、事前の予測どおり与党が安定多数を確保し、いささか賞味期限の切れかけた安倍政権で2020年の東京オリンピックを迎えることになりそうです。変化があったとすれば民進党(衆院)が分裂し、小池東京都知事が率いる希望の党が失速、立憲民主党が大きく票を伸ばしたことでしょうか。

今回の選挙で明らかになったのは、ひとびとが“右傾化”しているわけではなさそうだ、ということです。安倍政治にうんざりした有権者は、現状が大きく変わらないのであれば、右(小池新党)でも左(枝野新党)でもどちらでもかまわなかったのです。嫌われていたのは民主党=民進党で、政権党時代のスティグマがこれほど深く刻印されていては解党以外に道はなかったでしょう。

立憲民主党の枝野代表は自らを「リベラル保守」と述べており、日本の政治は“共産党以外ぜんぶ保守”という奇妙な状況になってしまいました。これではなにがなんだかわからないので、どこかに線を引く必要があります。憲法9条についてはすでにいいつくされているので、ここでは「格差」を考えてみましょう。

経済学では、「機会平等」と「結果平等」の2つの平等を考えます。徒競走にたとえれば、機会平等とはすべての選手が同じスタートラインに並ぶことで、結果平等は全員が同時にゴールすることです。

機会平等は自由な市民社会の基本原理で、身分制を理想とする封建主義者でもないかぎり右から左まで異論はないでしょう。ところが結果平等に対しては、深刻な意見の対立があります。

中国(文化大革命)やカンボジア(ポルポト)で死者の山を築き、ソ連が収容所国家と化したことで、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産主義の壮大な実験は悲惨な結果に終わりました。こうして90年代以降、「機会が平等なら貧富の格差が拡大しても問題ない」という“ネオリベ”的な論調が主流になっていきます。「改革」を掲げる希望の党や日本維新の会はこの路線です。

それに対して、“ネオリベ化”が極端に進むアメリカで、「これ以上格差が拡大すると社会が崩壊する」との警鐘が鳴らされるようになります。経済学者リチャード・ウィルキンソンは世界各国の膨大な統計データを調査し、平均余命、健康状態、肥満、学業成績、暴力や犯罪など、あらゆる指標で「格差社会」のアメリカが格差の小さな社会に劣っていることを示して大きな衝撃を与えました。

こうして「自由な競争を維持しつつも格差を一定範囲に抑えるべきだ」との主張が勢いを増してきます。これが現代のリベラルで、立憲民主党はこの立場をとることになるでしょう。

とはいえ、アメリカとちがって日本では格差をめぐる論争はいまひとつ盛り上がりません。

ウィルキンソンによれば、日本は北欧とならんで世界でもっとも格差の小さな社会です。そんな“平等主義者の理想郷”では、「みんなもうちょっと競争しようよ」という主張が「リベラル」になってしまうからかもしれません。

所得格差と健康の国際比較 リチャード・ウィルキンソン『平等社会』より

参考:リチャード・ウィルキンソン、 ケイト・ピケット『平等社会』

『週刊プレイボーイ』2017年10月30日発売号 禁・無断転載

アメリカへの憧れが消えて「すごいぞニッポン!」が増えた? 週刊プレイボーイ連載(310)

安倍首相が総選挙に踏み切り、民進党(衆院)が希望の党に吸収されて日本じゅうが大騒ぎしている頃、たまたま海外にいましたが、アメリカのニュース番組はプエルトリコを襲ったハリケーン「マリア」の話題ばかりでした。

9月20日に巨大台風に直撃されたカリブの島では全土が停電し、自家発電の燃料を使い果たした病院で患者がつぎつぎと死亡し、島民は動物の死骸に汚染された川の水を飲まざるを得なくなりました。首都サンファンの女性市長は涙ながらに救援の遅れを訴え、アメリカ政府と本土の市民に対して“We are dying and you are killing us.(私たちは死にかけていて、あなたたちが私たちを殺している)”と批判しました。プエルトリコは米国の自治領で、現代の先進国の出来事とはとうてい信じられません。

10月1日には観光地ラスベガスで、ミュージックフェスティバル会場の群集に向けてホテルの高層階から自動小銃が乱射され、約60人が死亡、500人ちかくが負傷する大惨事が起きました。容疑者は64歳の退職した白人男性で、事件後の捜査で47丁もの重火器を所有していたことが判明しました。

アメリカで銃撃事件が頻発するのは、憲法で「市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」としているからです。そのため社会には銃が広く行き渡り、これを規制しようとすると「善良な市民だけが銃を放棄し、武装した犯罪者の餌食になる」との批判が噴出して身動きがとれなくなってしまうのです。

しかしこれは、日本のような「銃のない社会」から見れば、ものすごくバカバカしい話です。そんなおかしな憲法はさっさと改正しておけばよかったのですが、市民の武装権はアメリカ建国の理念とされていて、「不磨の大典」に触れることは許されないのです。

日本で総選挙が決まったときに、この2つの事件がアメリカで起きたのは象徴的です。

太平洋戦争に敗北した日本は米軍に占領・統治され、民主政国家へと「改造」されました。戦後日本の歴史には、アメリカへの憧れと反発の複雑な心理が深く刻印されています。

1970年代まではアメリカは「きらきら輝く夢の国」でしたが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるようになった80年代からすこしずつ印象が変わっていきます。それがよくわかるのが音楽で、かつての若者は海の向こうのヒットソングを知るためにラジオにかじりついていましたが、いまではJポップのファンは洋楽になんの興味もありません。「同じような曲が日本語で楽しめるのにわざわざ英語の歌を聴く必要などない」と考える彼らに、もはやアメリカへの憧れはないのでしょう。

しかしなんといっても、決定的なのは昨年末の米大統領選です。「民主主義の教科書」だった国に世界じゅうから笑い者にされる大統領が誕生したことで、多くの日本人の「アメリカ幻想」がはがれ落ちました。プエルトリコやラスベガスのニュースを見ても、驚くというよりは「あんな国に生まれなくてよかった」と思うだけでしょう。

日本人が“保守化”し「すごいぞニッポン!」が増殖するのは、「あそこよりはマシ」な国がどんどん増えているからなのかもしれません。

『週刊プレイボーイ』2017年10月23日発売号 禁・無断転載