「お願い」で私権を制限するのは全体主義 週刊プレイボーイ連載(430)

新型肺炎の感染拡大を防ぐために自治体がパチンコ店に休業要請したところ、それでも営業を続ける店に客が殺到し、一部の自治体が店舗名の公表に踏み切りました。さまざまな議論を呼んだこの問題を2つに分けて考えてみましょう。

まず、自治体による「要請」というのは「お願い」で、当然のことながら、相手から「お願い」されてそれに応じるかどうかは本人の自由です。店舗名公表によってこれを実質的に強制するのは、憲法で保障された「基本的人権」を明らかに侵害しています。

しかし現在は、治療法のない感染症が蔓延する「緊急事態」です。そんななか、ほとんどの店が要請に従っているのに、一部の店舗だけが営業をつづけて利益をあげるのは間違っているとほとんどのひとは思うでしょう。

この疑問は当然ですが、なぜこんなおかしなことになるかというと、緊急事態なのに「お願い」しかできない法律だからです。ここから「営業させないなら休業補償しろ」「店が納得するように丁寧に説明すべきだ」との意見が出てくるわけですが、これを緊急事態の典型である戦争に当てはめてみましょう。

敵が迫ってきて、自衛隊が国土防衛のために私有地に軍を展開しなければならないときに、「お宅の土地の使用料はいくらにしましょうか」とか、「あなたの家が戦闘で破壊されるかもしれませんが、なんとかご納得いけませんでしょうか」とか、一軒一軒交渉するのでしょうか。

「緊急事態」というのは、定義上、「問答無用で私権を制限しなければならない事態」のことです。だからこそ、日本よりずっとリベラルな欧米の国々では、国や自治体のトップが店舗の営業停止やオフィスの閉鎖を矢継ぎ早に命令しているのです。

もちろんだからといって、国・自治体は何もしなくてもいいわけではありません。しかし順番として、補償や経済支援の話は、緊急事態に必要な措置をとったあとになるはずです(そうでなければ緊急事態に対応できません)。

それにもかかわらず日本では、法律上、「お願い」以上のことができないようになっています。しかしこれでは、要請に従った店が「正直者が馬鹿を見る」ことになるので、なにか別の方法で強制力をもたせなければなりません。このときに使われるのが「同調圧力と道徳警察(バッシング)」です。驚くべきことに、日本では法律ではなく「村八分」の圧力によって社会が統制されているのです。

さらに驚愕するのは、「リベラル」を自称するメディアや知識人が、この「法によらない権力の行使」を批判しないばかりか、積極的に容認しているように見えることです。こんなことが許されるなら、国家は「道徳」の名の下に、際限なく国民の私権を踏みにじることができます。これはまさしく「全体主義(ファシズム)」でしょう。

改正特措法(新型インフルエンザ等対策特別措置法)が議論されていたとき、真のリベラルであれば、「法によって私権の制限を命令できるようにすべきだ」と主張しなければなりませんでした。残念なことに、この国にそんなリベラルはどこにもいなかったようですが。

『週刊プレイボーイ』2020年5月11日発売号 禁・無断転載

「一律10万円給付」の背景にある現実空間の歪曲 週刊プレイボーイ連載(429)


治療法のない感染症の本質は、「疫学的な損害」と「経済的な損害」のトレードオフです。感染拡大を防ぐためにロックダウン(都市封鎖)すると、仕事を失って生活できないひとたちが街に溢れてしまいます。それをなんとかするために経済活動を再開すると、人間の移動や接触が増えて感染が拡大します。

世界じゅうで起きている新型肺炎をめぐるさまざまな混乱は、ほぼこのトレードオフで説明できるでしょう。問題は、現在のところ、このふたつの選択のあいだの「狭い道」を抜ける方法を誰も見つけていないことです。

ワクチンができれば感染症は克服できますが、専門家の多くは「開発まで早くても1年半」といっています。そこからワクチンを量産して世界じゅうで接種するには、さらに2~3年はかかるでしょう。「集団免疫ができればいい」という意見もありますが、そのためには人口の6~7割が感染して抗体を獲得する必要があるとされます。感染した場合の死亡率を1%とすると、日本人の7000万人が感染し、高齢者や疾患のあるひとを中心に70万人が生命を落とすことになります。

「解決できない脅威」は、私たちをものすごく不安にします。トレードオフは心理学でいう「認知的不協和」を引き起こし、そのとてつもない不快感から逃れるために、ひとはおうおうにして事実を直視するのをやめて目の前の現実を歪曲します。

その典型がトランプで、最初は「新型肺炎はインフルエンザみたいなもの」といい、感染が拡大すると「特効薬がすぐにできる」と豪語し、死者の山が積みあがるとWHO(世界保健機関)を非難して資金を引き揚げ、いまでは「中国の生物兵器」説を流しています。

しかし私たちも、海の向こうのドタバタ劇を笑っているわけにはいきません。「一律10万円給付」は公明党が連立離脱まで持ち出してしぶる安倍首相を押し切ったとされますが、この経済政策は5月の連休明け、あるいは6月中には感染が収束することを前提にしています。だからこそ、それまでなんとか耐え忍ぶだけの現金を「スピード感」をもってすべての国民に給付すべきだ、という理屈になるわけです。

しかし、そもそもこの前提が間違っていたとしたらどうなるのでしょうか? これから長い「感染症とのたたかい」がつづくとすれば、10万円配ったところでなんの意味もありません。だったらなぜ、こんなことに「連立離脱」を賭けるのか。

この奇妙な政治劇は、「1カ月で感染症は収束しているはずだ」あるいは「収束していなければならない」と現実空間が歪曲していると考える理解できます。

「一律10万円給付」のポイントは、満額の年金を受け取っているひとも給付を受けられることです。当然、高齢者は大喜びでこの政策を支持するでしょう。これは団塊の世代の票で当選している政治家や政党にとって、ものすごく魅力的な提案です。

新型肺炎がすぐに解決するのなら、この機に乗じて支持者に便宜をはかり選挙対策をやっておくのがもっとも合理的なのです、邪推かもしれませんが。

『週刊プレイボーイ』2020年4月27日発売号 禁・無断転載

第89回 お肉券とアベノマスク(橘玲の世界は損得勘定)

新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で、安倍首相が全国5000万超の全世帯に布マスクを2枚ずつ配布する方針を明らかにした。それ以前には、自民党農林部会で、需要が急減して苦境にある和牛生産者を支援するとして「お肉券」が提案され、インターネット上で「族議員の利権」などとの批判が沸騰、頓挫する騒ぎが起きた。

いずれの政策も国民から芳しい評価を得たとはいえないが、両者はじつは異なる問題だ。

国民国家の大原則は「無差別性」だ。これは「すべての国民を平等に扱う」ということでもある。当たり前だと思うかもしれないが、近代以前は貴族や武士の家に生まれただけで特別扱いされたのだから、これはとてつもなく大きな社会の変革だった。

「お肉券」はこの無差別性に反するからこそ、はげしい批判を浴びることになった。新型肺炎で売上が落ちた業種はほかにもたくさんあるのに、和牛の生産者だけを救済する正当な理由はどこにもない。

もっとも、本音をいえば農林族の議員たちも、これが無理筋だとわかっていたのではないか。それでも支持者へのアピールとして、「お肉券」を提案して火だるまになる姿を見せる必要があったのだろう(たぶん)。

それに対して「マスク2枚配布」は、全世帯が対象なのだから無差別性の原則をクリアしている。国民の多くが、マスクが手に入らないことに不満や不安を抱いていることも間違いない。

だったらなぜ評判が悪いかというと、「マスク2枚ではどうしようもない」からだろう。20枚配るなら、反応はまったくちがったのではないだろうか。

マスクの感染防止効果には諸説あるものの、この問題の本質は、膨大な需要に対して供給がわずかしかないことだ。需要と供給の法則によれば、このような場合は価格が上がって需要を抑制するが、ドラッグストアなどでは定価販売を続けているために、早朝から長蛇の列ができることになる。

マスクはきわめて稀少で、本来なら値段が高騰するはずだが、行列すれば格安で入手できる。そう考えれば買い占めは合理的な行動で、道徳に訴えてもなんの効果もない。一時は高額転売が元凶とされたが、それを違法にしても状況がまったく改善しないことで、買い占めているのが転売業者だけでなく「ヒマなひとたち」だということが明らかになった。

働いている、子育てや親の介護をしている、怪我や病気で家から出られないなど、早朝から何時間もドラッグストアに並べないひとはたくさんいる。マスクの定価販売は、そのような「ヒマのないひとたち」を最初から排除している。

だとすれば、重要なのはマスク2枚を配ることではなく、「ヒマなひと」だけが一方的に優遇される現状を変えることだとわかるだろう。メディアも政府を高みから批判するだけではなく、この「差別」と向き合い、市場原理の導入(マスクの値上げ)も含めてさまざまな方策を議論することが、いま求められているのだと思う。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.89『日経ヴェリタス』2020年4月18日号掲載
禁・無断転載