リベラルな社会は、すべてのひとの「尊厳」を守ることはできない? 週刊プレイボーイ連載(452)

新型コロナの感染第二波が広がるなか、パリ近郊の公立中学校で歴史と地理を教えていた教師が刃物で首を切られて殺害されるという衝撃的な事件が起きました。

「表現の自由」を教える授業でムハンマドの風刺画を見せたことにムスリムの生徒の親が反発し、SNSに教師を批判するビデオを投稿、それを見たロシア・チェチェン共和国出身の18歳の男が犯行に及んだとされます(犯人は警官によって射殺)。

フランスは人権宣言によって人類史上はじめて表現の自由を掲げ、これを「建国の理念」としました。テロによってこの「普遍の権利」が侵されてはならないとして、多くの市民が街頭に出たのは当然です。

もちろん、これを「表現の自由」に名を借りた体のいいイスラーム批判だという見方もあるでしょう。実際、トルコをはじめとするイスラーム諸国では、マクロン政権によるモスク閉鎖や取締り強化に反発してフランス製品の不買運動が広がっています。

とはいえ、「イスラーム差別」の声がフランス国民に届くとは思えません。教師が授業に使ったムハンマドの風刺画は雑誌『シャルリー・エブド』のもので、2015年にテロの標的となり編集長など12人が殺害されています。このときも同様の反発がありましたが、この風刺雑誌はカトリック教会の性的虐待事件でペドフィリア(小児性犯罪者)のキリストを描いており、宗教にかかわらずあらゆる権威・権力を風刺しているのです。

この事件が提起したやっかいな問題は、じつは別のところにあります。それは、授業に反発して教師のキャンセル(解雇)を求めたムスリムの生徒や親の「権利」です。

リベラルな社会では、法律の範囲内で、すべてのひとに自らの尊厳を守るための最大限の権利が認められます。教師の意図にかかわらず、この授業によってムスリムとしてのアイデンティティを傷つけられたと感じたら、それについて抗議するのはどこから見ても「正当」なのです。

警察はビデオを投稿した保護者や、学校に抗議に訪れたイスラーム活動家を拘束していますが、これは国民の怒りを鎮めるためで、事件に直接の関係がないとわかれば釈放するほかないでしょう。彼らは人権宣言に定められた「普遍の権利」を行使しただけなのですから。

アイデンティティを貶めるような言動をした(とされる)者に「人種差別」や「性差別」のレッテルを貼って解雇・除名を求めることは、アメリカでは「キャンセルカルチャー」として社会問題になっています。#MeTooのような意義のある運動もあるとはいえ、気に入らない相手を社会的に葬る便利な方法としても使えるからです。

問題の本質は、すべてのひとの「尊厳」を守ろうとすると、対立するアイデンティティを調停できなくなることでしょう。ヨーロッパではこれが「近代市民(白人)vsイスラーム」の宗教問題になり、アメリカでは「白人vs黒人」の人種問題になります。

アイデンティティは「認められる」か「否定される」かの二者択一で、交渉の余地がありません。フランスではその後、刃物をもった男がニースの教会を襲撃、3人が死亡する事件が起きましたが、これらのテロはいまだ「紛争のはじまり」と考えるべきなのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2020年11月9日発売号 禁・無断転載

「これからは非正規でも扶養手当が受けられるようになる」はホント? 週刊プレイボーイ連載(451)

年功序列・終身雇用の「日本的な働き方」の転機になると注目された最高裁の2つの判決が出ました。

契約社員やアルバイトに賞与・退職金を支払うべきかを争った裁判では、最高裁はいずれも「不合理とまでは評価できない」として、一部の支給を認めた高裁判決を退けました。その一方で、日本郵便の契約社員らが正社員との待遇格差を訴えた裁判では、扶養手当や有給休暇など、高裁判決の一部を変更して原告の請求すべてが認められました。経営側と非正規労働者の双方が一勝一敗で、バランスをとった判断のようにも見えます。

正規/非正規の格差解消を目指す流れのなかでいずれも大きな意味をもつ裁判ですが、ここでは日本郵便の判決がどのような影響を与えるかを考えてみましょう。
民主党政権時代(2013年4月)に施行された労働契約法20条は、「正社員か非正規かにかかわらず合理的な根拠のない待遇格差は認めない」という画期的なものでした(現在はパートタイム・有期雇用労働法に移行)。これによって経営側は、「身分(正社員じゃないんだから)」を理由とした賃金の差を正当化できなくなり(同一労働同一賃金)、それが福利厚生や賞与・退職金といった「正社員の特権」にまで及んできたのです。

近代の市民社会は身分制を否定し、すべての市民を平等に扱うことによって成立するのですから、日本の労働慣行に根強く残る「身分差別」をなくしていくべきなのは当然のことです。しかし、日本郵便の判決を受けて、「これからは非正規でも扶養手当などの福利厚生が受けられるようになる」とのメディアや識者の説明には疑問が残ります。労働者を平等に遇する方法は、それだけではないからです。

今回の最高裁判決を受けて、契約社員にも扶養手当や有給休暇を認める会社が出てくるでしょう。ところがその会社には契約社員と同じような仕事をするアルバイトがいて、「なぜ自分には福利厚生がないのか?」と訴えたらどうなるでしょう。会社は法律にのっとって、その待遇格差に「合理的な理由」があることを証明しなければなりません。

こうした事態に対処するには、どのようなケースが福利厚生の対象となり、どの場合は支給の対象外かを定める細則が必要です。ところが現場には広大なグレイゾーンがあるので、アルバイトと契約社員の仕事のちがいが判然としないことも起こり得ます。その場合は、アルバイトにも扶養手当や有給休暇を認めるべきなのでしょうか。

このように、紛争を避けようと規則を細かくすると、それによってさらにトラブルが増えてしまいます。だったらどうすればいいのか。答えはあきらかで、「正社員も含め、すべての福利厚生を廃止する」です。

実際、「世界でもっともリベラルな国」スウェーデンでは、交通費も含めて福利厚生はまったくなく、フルタイム・パートタイムにかかわらず、労働者には職位にもとづいた月収と、成果で判断される賞与が支払われるだけです。

これが「すべての労働者を平等に扱う」方法なのですから、日本企業も早晩、同じことになるのではないでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2020年11月2日発売号 禁・無断転載

日本学術会議問題は「脅して従わせる」マネジメント 週刊プレイボーイ連載(450)

日本学術会議が推薦した会員候補のうち6人が任命されなかった問題で、菅政権が発足早々、逆風にさらされています。経緯に関しては不明な点もありますが、報道を見るかぎりでは、以前から官邸は多めの人数の名簿で事前説明するよう求めていて、2016年には補充人事で上位に推した候補に官邸が難色を示したことから、全ポストについて推薦そのものを見送る事態が起きています。

官邸が問題にしたのは、学術会議が「政府機関」でありながら「独立した人事権」をもつという慣行で、民主的な手続きで選ばれた政府の上位に「超越的」な権力が生まれることを危惧したとされます。とはいえ、学術会議が「軍事的安全保障研究禁止」の方針を決定したり、所属する学者が政府を批判する発言をすることへの心情的な反発が大きかったのでしょう。

今回の紛争の直接の原因は、学術会議の前会長(前京大総長)が、官邸との事前折衝を無視して105人の会員候補の推薦名簿を問答無用で送りつけたことにあるようです。それに対して官邸側は、安保法制に反対した「学者の会」の呼びかけ人や賛同人6人を任命拒否して「報復」した――。子どものケンカのような話ですが、「学問の自由」とか「民主的な統治」とか、双方にどうしても譲れない意地があるのでしょう。

この紛争はたちまち「親菅/反菅」のリトマス試験紙になり、SNSでは例によって罵詈雑言が乱れ飛んでいますが、ここでは一歩距離を置いてマネジメントの観点から考えてみましょう。

官邸の対応で不思議なのは、6名を任命拒否すればその理由を問われることはわかりきっているのに、それについて事前になにも考えていなかったらしいことです。あわてて与党内にプロジェクトチームをつくって、学術会議への10億円の予算(100兆円の国家予算の10万分1)を検証するそうですが、こんな泥縄式のやり方では「その前にちゃんと説明責任を果たすべきだ」との正論にとうてい対抗できません。

さらに不思議なのは、この問題には担当大臣がおらず、任命責任者である新首相が批判の矢面に立たされることがわかっていたはずなのに、なんの対処もしていないことです。モリカケや検察疑惑でも、前首相の盾となって火だるまにされる大臣や官僚がいたのに、今回は「キーマン」とされる官僚の国会招致を阻むために首相が間に入るという摩訶不思議なことになっています。

政権発足直後の高支持率をだいなしにしかねないのに、なぜこんな混乱を招いたのか。「部下(官僚)を脅して従わせる」というマネジメントを日常的にやっていたからだと考えれば、この謎はすっきり解決します。今回も「ちょっと脅せばいうことをきくだろう」くらいの甘い判断をしていたら、予想外の反発にあって右往左往しているというのが現実でしょう。

「脅して従わせる」マネジメントが効果をもつのは、組織にしがみつく以外に生きる方途がない人間を相手にするときだけです。外部の相手に同じことをすれば、怒りだすに決まっています。

こんな当たり前のことすらわからないのは、官邸を仕切る「優秀」なひとたちが、「脅されて従ってきた」経験しかないからなのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2020年10月26日発売号 禁・無断転載