リストカットは自己セラピー(週刊プレイボーイ連載659)

日本だけでなく欧米諸国を中心に、若者の自傷行為が大きな社会問題になっています。しかしなぜ、リストカット(リスカ)のような無意味な(すくなくとも、なにひとつ利益がなさそうに見える)ことをするのかよくわらず、自己顕示欲が強すぎてかまってもらいたいのだとか、薬物の使用の影響とか、ある種の精神疾患によるものとか、さまざまな否定的なレッテルを貼られてきました。

この謎を解くために、2010年から13年にかけてハーバード大学の研究者グループが、自傷行為の経験がある被験者を対象に、両手を氷水につけたり、電気ショックの痛みを与えたりする実験を行ないました。

その結果発見されたのは、痛みが止んだときの安堵感のために、その痛みが与えられる前に感じていたよりも気分がよくなることでした。この効果は、「痛み後の多幸感」と名づけられました。

興味深いのは、同じ効果が自傷行為をしたことのない対照群でも確認されたことです。どうやらほとんどのひとが、痛みを感じたあと、それが消失するとともに心地よさを感じるようなのです。

イヤなことがあったときに、無意識に腕や足の皮膚を引っかいたりすることはありませんか? 自傷行為もこれと同じで、より強い「pain-offset relief(痛み消失による心地よさ)」の効果を得るために、カミソリやカッターの刃を使っているのです。

脳は、身体的な痛みと感情的な痛みを区別しません。だから、身体的な痛みが治まると、こころの痛みも治まったように感じるのです。いじめや失恋などをきっかけに自傷行為は始まりますが、それは自殺衝動の一種ではなく、痛みに対処しようとする行動だったのです。

問題を深刻にするのは、脳が原因(刺激)と結果を結びつけようとすることです。

「痛みが緩和された心地よい状態」を得るために毎回同じ刺激(リストカット)を用いていると、やがてその刺激と痛みの緩和が関連づけられます。そうなると、ささいな不安(こころの痛み)でも自傷行為で軽減せずにはいられなくなり、腕が傷跡だらけになってしまうのです。いわば「リスカ依存」です。

その後の研究で、自傷行為の経験者はそうでないひとに比べて、両手を氷水に長い時間つけていられることがわかりました。自己評価が低く、自分自身を批判的に見ているひとほど、より長い時間痛みを我慢しようとするばかりか、痛みそのものが気分を改善させるという研究もあります。

痛みへの耐性が強いことは、痛みを感じる経験をすることへの心理的なハードルの低さを説明します。「自分は罰を受けて当然だ」と思っているのなら、自分に痛みを与えること自体がある種の快感になってしまうのかもしれません。

これらの研究が示唆しているのは、自傷行為の最中に経験される痛みと、それにつづく痛みの緩和が、ネガティブな気分の減少とポジティブな気分の増加をもたらすという不穏な結果です。リストカットは、つらい日常をすこしでも生きやすくするための自己セラピーの一種だったのです。

参考:モンティ・ライマン『痛み、人間のすべてにつながる 新しい疼痛の科学を知る12章』塩﨑香織訳/みすず書房

『週刊プレイボーイ』2025年10月6日発売号 禁・無断転載

旧ユーゴスラビアの民族紛争はいかにして始まったか(前編)

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2015年9月公開の記事です。(一部改変)

セルビア・ベオグラードにあるユーゴスラビア初代大統領チトーのブロンズ像/ToskanaINC/Shutterstock

******************************************************************************************

旧ユーゴスラビアの解体にともなって1991年から2000年にかけて、クロアチア、ボスニア、コソボなどを舞台にセルビア人、クロアチア人、ボスニア人(ボシャニャク人)の三つ巴の凄惨な内戦が勃発した。その象徴的な事件が、1995年7月にボスニア人男性7000人が殺害された「スレブレニツァの虐殺」だ。

参考記事:ボスニア紛争のジェノサイドでなにが起きたのか?

ユーゴスラビア紛争は当初、過激な民族主義(大セルビア主義)を唱えるセルビアに対してスロベニアやクロアチアが民族自決を要求し、その後は(セルビア人主体の)旧ユーゴスラビア政府に抵抗するボスニアやコソボのムスリムが「民族浄化」の犠牲になった、という「わかりやすい物語」が欧米メディアで大々的に報じられた。

こうした勧善懲悪の善悪二元論に当初から懐疑的だったのが日本のジャーナリストたちで、欧州政治の利害関係から自由な彼らは、この内戦がはるかに複雑な問題を抱えていることに気づいていた。講談社ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞をダブル受賞した高木徹氏の『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』 (講談社文庫)、Jリーグ名古屋グランパスのスター選手(のちに監督)だったドラガン・ストイコビッチとの出会いからユーゴ内戦を取材した木村元彦氏の『悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記』 (集英社文庫) 、ボスニア出身の元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムの通訳を務めた千田善氏の『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(勁草書房)などがその代表的な作品だ。

『戦争広告代理店』で高木氏は、セルビア人を加害者、ボスニア人を被害者とする内戦の構図が生まれた背景に、アメリカの凄腕PRマンの情報操作があったことを説得力をもって示した。木村氏はセルビア人サッカー選手への取材からユーゴ内戦の報道があまりにも一方的であることを、千田氏はドイツをはじめとするEU諸国の独善的な関与が事態を泥沼化させたことを鋭く告発した。

東欧史・比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』(ちくま学芸文庫)は、膨大な文献と資料を渉猟し、客観的・中立的な立場から凄惨な民族浄化の歴史的経緯をまとめた日本人歴史家によるきわめてすぐれた仕事だ。ここでは佐原氏の労作に依拠しながら、「歴史の記憶」が如何にしてジェノサイドを生み出したのかを見ていきたい。 続きを読む →

将来の性犯罪に対して刑を科したらどうなるか(週刊プレイボーイ連載658)

神戸市内のマンションで24歳の女性が刺殺された事件は、殺人容疑で逮捕された35歳の男がストーカー事件で2度の有罪が確定し、執行猶予中だったことで、性犯罪の再犯についての議論を提起しました。

報道によると、神戸市の建設会社で働いていた2020年9月、女性のあとをつけてオートロックのマンションに侵入した男は、エレベーターに同乗するなどつきまとったとして、ストーカー規制法違反などで罰金の略式命令を受けました。22年9月には同じく神戸市内で、路上で見かけた女性に一方的に行為を抱き、オートロックを解錠した女性のあとにつづいてマンションに侵入、女性の部屋に押し入って首を絞めるなどしたとして、懲役2年6カ月執行猶予5年の刑を言い渡されています。

男はその後、東京の配送会社でドライバーとして働いていましたが、夏休みで帰省するといって神戸に行き、たまたま見かけた女性に衝動的に好意を抱いて凶行に及んだようです。その後、執行猶予の判決に批判が集まりましたが、ある裁判官は「刑はあくまでも犯した罪への代償。再犯の恐れに対して刑を科すことはできない」と述べています。

じつはイギリスでも1990年代に、仮釈放中の犯罪が大きな社会問題になり、97年に政権の座についたリベラルな労働党ブレア政権の下で「IPP(公衆保護のための拘禁)」と「DSPD(危険で重篤な人格障害)プログラム」が導入されました。

IPPは重大な暴力・性犯罪を対象に、刑期を満了しても再犯の可能性が高いと見なされると、期限を定めずに収監を継続できる制度で、DSPDプログラムは、重大な暴力犯罪の可能性が高いと判断されたパーソナリティ障害者に対し、制度上は、なんの犯罪をおかしていなくても「危険性」に基づいてDSPDユニット(刑務所と高セキュリティ精神科病院の中間的な施設)での治療・拘禁を命ずることができます。

ところがその後、IPPは「実質的な終身刑」だと批判され、2012年に廃止されることになります。だからといって性犯罪などの前科がある収容者をそのまま社会に戻すこともできず、刑期を終えた多数の収容者(2025年時点で約1000人、うち99%が10年以上の拘禁)の存在が政治問題になっています。

DSPDも同様に、「将来の危険性」に基づく収容は予防拘禁だと批判されたことで、2010年代以降、プログラムは徐々に縮小・再編されて、刑務所・保健・福祉の連携による包括的な地域ベースの支援「PDS(パーソナリティ障害戦略)」に置き換えられつつあります。とはいえ、反社会的人格の治療には限界があり、専門スタッフや予算の不足もあって、機能しているとはいい難いという批判もあります。

ゆたかで平和な社会では、ひとびとは「安全」に高い関心をもつようになります。とりわけ性犯罪や小児性犯罪は社会的脅威とされ、治安と人権の複雑で困難な問題を引き起こします。神戸のストーカー事件でもいたずらに厳罰化を求めるのではなく、イギリスの困難な経験を学ぶことから始めていいのではないでしょうか。

参考:「神戸女性刺殺、過去の2事件との共通点 元裁判官「重く受け止めて」」朝日新聞2025年9月1日

『週刊プレイボーイ』2025年9月29日発売号 禁・無断転載