「ワクチン敗戦」の語られざるほんとうの理由 週刊プレイボーイ連載(478)

5月になってようやく日本でも一般のワクチン接種が始まったものの、予約システムの不具合や、国と地方の連携不足など、例によってトラブルが頻発しています。ワクチン開発の目途が立ってから半年以上たつのですから、その間、いったいなにをやっていたのかと批判されても仕方ありません。

しかし、日本の「ワクチン敗戦」にはさらに深刻な要因があります。

政府のコロナ対策分科会のメンバーなどによれば、ファイザーは3、4万人規模の治験をアメリカで行なっており、そのなかに日系人も含まれているにもかかわらず、厚労省は日本国内での臨床試験にこだわりました。もちろん、ワクチンには副反応のリスクがありますから、海外のデータをそのまま使うのではなく、日本人を被験者とした治験を実施したほうがよいのは当然です。

問題は、アメリカに比べて日本の感染者が圧倒的に少ないため、治験の被験者が集まらなかったことです。日本人のほんとうのリスクを知るためには数十万人単位の治験が必要ですが、結果として行なわれたのはわずか160人。これでは医学的にはなんの意味もなく、「アリバイづくり」以外のなにものでもありません。

厚労省が「無意味」とわかっている治験にこだわったのは、日本独特の理由があります。子宮頸がんワクチンに対しては、医学的な根拠がないにもかかわらず、新聞・テレビなどの大手メディアがこぞって健康被害を報じ、恐れをなした厚労省は「勧奨接種」から外してしまいました。こんなことをしている国は世界に日本しかなく、WHO(世界保健機関)から繰り返し批判されていますが、それでも撤回できないほど「メディアの暴力」は恐ろしいのです。

そもそも日本では、1970年代からワクチン禍訴訟が相次ぎ、92年の東京高裁判決をきっかけに予防接種法が大幅改正され、これまで「義務接種」だった予防接種が「勧奨接種」になりました。その結果、ワクチン接種は実質任意とされ、国民に納得して接種してもらうには、厚労省は「絶対安全」を証明しなくてはならなくなったのです。

こうした歴史的経緯(トラウマ)によって、新型コロナでも、日本国内での治験にあくまでもこだわることになったのでしょう。だとすれば、必要なのは「政治的決断」でした。

ワクチン接種で先行したアメリカやイギリスでは、行動制限が大幅に緩和されことで消費が活発になり、楽観的な気分が広がっています。それに比べて日本では、ワクチン接種が進まないなか、緊急事態宣言で飲食店などに大きな負担をかけ、不人気のオリンピックが近づいています。

この「三重苦」で菅政権の支持率は大きく下がっていますが、昨年12月にワクチンを承認していれば、日本でも2カ月早く一般のワクチン接種が始められたはずです。そうなれば、社会の雰囲気もずいぶんちがっていたのではないでしょうか。間違った決断だけでなく、決断できないことも「敗戦」への道なのです。

ちなみに、この「政府の失敗」を野党が追及しないのは、20年の改正予防接種法付帯決議で、コロナワクチンの承認審査を「慎重に行うこと」と求めたからで、大手メディアが批判しないのは、過去の「非科学的」なワクチン報道を検証されることを警戒しているからでしょう。

参考:大野元裕、小林慶一郎、三浦瑠璃、宮坂昌之、米村慈人「徹底討論 コロナ「緊急事態列島」」月刊『文藝春秋』2021年6月号

『週刊プレイボーイ』2021年5月31日発売号 禁・無断転載

差別をなくそうとすると差別が拡大する? 週刊プレイボーイ連載(477)

従業員の育成に大きなコストをかけている会社は、新入社員に長く働いてもらわないと元がとれません。このとき、女性社員が出産で退職する割合が有意に高いとしましょう。すると「社員教育に熱心な」この会社にとってもっとも合理的なのは、育児と仕事を両立できる制度を整えることではなく(さらにコストがかかる)、男の新入社員をたくさん採用することです(コストはゼロ)。

その結果、出産した女性が会社にいづらくなると、「やっぱり女はすぐに辞める」という予想が「自己実現」してしまいます。このような統計的な事実に基づいたステレオタイプを「統計的差別」といいます。

アメリカでは若い黒人男性が有罪判決を受ける割合が高く(その大半は麻薬売買などの軽犯罪)、失業率は全国平均の2倍に達しています。ところがそのアメリカには、採用にあたって求職者に犯罪歴を訊ねることを認めている州があります。

「あなたは有罪判決を受けたことがありますか」の質問で「はい」のボックスにチェックを入れると、当然のことながら、書類審査の合格率が大きく下がります。そこで23の州が、雇用機会の均等を保障し、黒人の雇用を増やすために、この質問を禁じました。これが「バン・ザ・ボックス法」です。

一見、よい案に思えますが、この「改革」にはどれほどの効果があるのでしょうか。それを確かめるために2人の研究者が、法律施行の直前と直後を利用して、ニューヨーク州とニュージャージー州の雇用主に1万5000件の架空の応募書類を送りました。

求職者の経歴はまったく同じで、有罪判決のボックスにだけランダムにチェックが入っています。そのうえで、白人と黒人に典型的なファーストネームを使い、人種的な要因で書類審査の合格率が変わるかを調べました。

法律施行前は、面接に進む割合は、白人の名前が黒人の名前より23%高いことがわかりました。雇用主は明らかに人種だけで応募者を選別しているのです。ただし、有罪判決の質問欄にチェックした応募者は、書類審査の合格率が62%低かったものの、白人と黒人のあいだに大きな差はありませんでした。

次いで「バン・ザ・ボックス法」が施行されるのを待って、研究者は同じ応募書類を送ってみました。すると驚いたことに、この改革によって、人種による格差が大幅に広がったのです。面接に進む割合は、白人の名前が黒人の名前より43%も高くなったのです。

なぜこんなことになるかは、雇用主の立場になって考えるとわかります。改革前は、書類を見れば有罪判決を受けたかどうかわかったので、黒人の応募者でも「犯罪歴がないなら面接してみようか」と思ったかもしれません。ところが「ボックス」が禁じられてしまうと、雇用主にわかるのは、「黒人の方が白人より有罪判決を受けている割合が高い」という統計的事実だけです。こうして、「黒人の応募者は避けた方が無難だな」ということになってしまうのです。

その結果、犯罪に手を染めていない黒人が「リベラル」な改革の最大の被害者になってしまいました。この理不尽な統計的差別を避けるには、応募者一人ひとりの犯罪歴が雇用者に伝わるようにした方がずっといいのです。

さて、あなたはこの事実(ファクト)をどう考えますか?

参考:Amanda Y. Agan and Sonja B. Starr(2016)Ban the Box, Criminal Records, and Statistical Discrimination: A Field Experiment, Quarterly Journal of Economics
アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか』日本経済新聞出版

『週刊プレイボーイ』2021年5月24日発売号 禁・無断転載

第96回 都税カード払いの過度な手間(橘玲の世界は損得勘定)

法人都民税・事業税の予定申告の書類が送られてきた。新型コロナの感染拡大で緊急事態が発出され、わざわざ銀行に行くのも気が進まないと思ったら、クレジットカードでも支払えるという。

東京都の場合、カード払いには0.73%の決済手数料が別途かかる。これはムダなようだが、クレジットカードのポイント還元率が1%ならじゅうぶん元がとれる(マイレージなど、それ以上の還元率のカードもある)。

そこで納税サイトにアクセスすると、「納付番号」「確認番号」「納付区分」の入力が必須とされていた。だが通知書類のどこを見ても、確認番号しか記載されていない。

不思議に思って都税事務所に電話してみると、応対してくれた女性から、「納付番号を発行するには、申告書を先に送ってください」といわれた。

決算後の税務申告ならたしかにそのとおりで、納税者がいくら税を納めるのかを申告しなければ、税務当局は納付書を発行できない。だが予定申告では、前年度の決算に応じて仮の納税額を決めているのだから、納税者がいちいち申告する必要はないはずだ。

だが彼女によると、通知書といっしょに申告書がついているので、それに住所や法人名、代表者氏名などを記入し、押印したものを提出しなければならない。予定申告額を勝手に決められて、納税者に不服があるかもしれないからで、申告書を受け取ってはじめて正式の手続きができるのだという。

不可解なのは、申告書を郵送しただけではダメで、それが到着した数日後に納税者が都税事務所に電話して、申告が処理されていることを確認したうえで、納付書の発行を依頼しなければならないことだ。

それに輪をかけて不可解なのは、予定申告書を銀行の窓口にもっていけば、面倒な申告手続きを省略して税の納付が完了することだ。銀行員が予定申告書を受領することで、納税額に同意したと見なすことにしているのだろう(私の憶測だが)。

だとしたら、手続きルールをちょっと変えて、納税者がクレジットカード払いをした時点で、同様に納税額に同意したことにすればいいのではないだろうか。実際、国税では予定申告でもカード払いができるようになっている。

政府は感染防止のため、不要不急の外出を極力控えるように国民に求め、菅政権はDX(デジタルトランスフォーメーション)の推進を掲げている。それにもかかわらず、なぜこんな簡単なことができないのか。

などと文句のひとつもいおうと思ったが、電話で説明してくれた女性から、「毎日大量に送られてくる申告書をすべて目視で処理しているので」といわれてその気も失せた。都税事務所の職員は、こんなことのために感染の危険を冒して、毎日出勤させられているのだ。

「そんなに大変なら銀行で納付するからいいです」といったあと、思わず、「ご苦労様です。頑張ってください」とつけ加えて電話を切った。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.96『日経ヴェリタス』2021年5月15日号掲載
禁・無断転載