日本には1億人の「被害者」がいる 週刊プレイボーイ連載(511)

近所にあるチェーン店の居酒屋でランチを食べていたときのことです。厨房のスタッフが配膳に出てくるのを見て、混んできたのかなと思ったら、一人の客がホールスタッフの女性と話し込んでいることに気がつきました。50代と思しき男性で、席がちょっと離れていたので正確にはわからないのですが、メニューの金額表示についてなにごとか問いただしています。

私が理解した範囲では、「1000円までの注文に割引」のような記載があって、そのつもりで頼んだら、それは「税込み1000円」の意味だった。それに対して男性は税抜きで1000円分を注文してしまい、結果として食べたくもないものに余分なお金を払わなくてはいけなくなった、というような話です。それに対して女性スタッフが「ここに書いてあります」とメニューを見せながら何度も説明するのですが、男性は納得せず、「そんな書き方じゃわからないっていってるだろ」とだんだん声が大きくなってきます。

店内はスタッフが足りず、配膳できないテーブルが増えて時間を気にするひともいますが、男性はそうした状況に気づかないらしく、えんえんと文句をいっています。10分以上押し問答をつづけたあげく、荷物をまとめて立ち上がったのでようやく終わったと思ったら、今度はレジの前で仁王立ちになって「責任者を呼べといってるだろ」と大声をあげはじめました。

厨房から出てきたのは30代くらいの女性で、「あんたがこの店の責任者なのか」と確認すると、男性は先ほどと同じ苦情をいいはじめました。どうやらこの店の常連で、以前の店長と顔見知りだったらしく、女性店長が、「本部に聞いてみないと私からはお答えできません」と説明をしてもまったく納得しません。「そんな時間はないんだよ。どうするんだって訊いてるだろ。いますぐ答えろよ」と怒鳴り声をあげます。

大の男が女性を怒鳴りつけるのは見ていられないものがありますが、こういうときに第三者が間に入るとさらに激昂する可能性があるので、手をあげるようなことならともかく、傍観するしかありません。

そのあと、男性のいったひと言で店じゅうが凍りつきました。

「このいい加減なメニューのせいで、5円余分に払うことになったんだ。それをどうするんだって、訊いてるんだよ!」

この男性は、わずか5円のことで怒り狂っていたのです。

けっきょく店長がレシートの金額から5円を差し引くことにしたらしく、ようやく男性は会計を終えて出ていきました。

そのあと、私が会計を済ませて店を出ると、例の男性がまだエレベーターホールにいて、一緒に乗り込むことになりました。男性はずっとスマホを見ていたのですが、ひと言「ちくしょう」と呟きました。

この男性はどこから見てもモンスタークレーマーで「加害者」ですが、本人としては、自分こそが理不尽なことをされた「被害者」だったのです。日本には1億人の、世界には80億人「被害者」がいるのだとすれば、こうした問題の解決がなぜ難しいのか思い知らされます。

『週刊プレイボーイ』2022年2月28日発売号 禁・無断転載

第101回 複雑すぎる年金繰り下げ申請(橘玲の世界は損得勘定)

いつの間にか齢を重ね、私も年金受給について考えなくてはならない年になった。とはいえ、いまもふつうに仕事をしており、70歳以降に受給を繰り下げるつもりなので、放っておけばいいのかと思っていた。行政サービスは本人申告が原則で、制度上、請求しなければ年金は自動的に繰り下げられていくはずだ。

しかしいろいろ調べてみると、いくつかやらなくてはならないことがあるとわかった。

まず、国民年金の任意加入手続き。これはあまり知られていないが、納付月数が480カ月(40年)に満たない場合、国民年金の加入を65歳まで任意で延長できる。「自分はちゃんと年金を納めてきた」というひとも、多くの場合、20歳から大学卒業までは納付猶予にしていたはずだ。すると60歳時点で(最低)2年分は納付月数が足りないので、その分を追加で納めることができる。

「その程度なら大したことない」と思うかもしれないが、働いているなら、年金保険料を所得から控除できる。さらに大きいのは、納付期間中は国民年金基金に加入できることで、この場合は、掛け金上限の月6万8000円(年81万6000円)まで所得控除の対象になる(今年5月以降、iDeCoも65歳まで加入できるようになる)。

この仕組みは知っていたものの、手続きには区の社会保険事務所か区役所の本庁舎まで行かなくてはならない。コロナ禍で不要不急の外出を控えるよういわれ、ぐずぐずしているうちに、65歳までに満額を納めることができなくなってしまった。条件に該当するひとは、60歳を過ぎたらさっさと手続きした方がいいだろう。

ややこしいのは、私の場合、制度の移行期間で、厚生年金と厚生年金基金の受給開始が63歳になっていることだ。書類が送られてきたので確認してみたら、「繰り下げは65歳にならないとできないので、63歳になったら厚生年金・厚生年金基金の受給請求をし、65歳の誕生日が近づいた頃に、最初に厚生年金、次いで基金の順で繰下げの申請をしてほしい」といわれた(基金のみを繰り下げることはできない)。

だったら最初にそう設定しておけば楽だと思うのだが、年金の申請は直前に行なうのが原則で、「65歳になったら受給を止めて繰り下げる」と予約しておくことはできない。

もうひとつ国民年金基金にも加入していて、私の場合、65歳から受給が開始されるが、これは繰下げができない。

以上をまとめると、

①65歳までは任意加入の国民年金と国民年金基金の保険料を納める。
②63歳になったら厚生年金と厚生年金基金の受給請求をする。
③65歳になる直前に、厚生年金と厚生年金基金の繰り下げ申請し、受給を停止する(「追記」参照)。
④65歳になったら、国民年金基金の受給を申請する。

私には扶養家族がいるわけでもなくシンプルなケースだと思うが、それでもこれだけの手続きが必要になる。はたして覚えていられるだろうか。

追記:65歳の誕生日を過ぎると年金機構から年金請求書が送られてくるが、63歳から厚生年金(報酬比例部分)の特別支給を受けていても、基礎年金と厚生年金をともに繰り下げる場合は、この請求書を送付しなければ自動的に繰下げになる。受給額を分割し、基礎年金、あるいは厚生年金部分のみを繰り下げる場合は請求書の「繰下げ希望」欄にその旨を記載する。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.101『日経ヴェリタス』2022年2月19日号掲載
禁・無断転載

訪問看護・介護はいったい誰が担うのだろうか 週刊プレイボーイ連載(510)

すこし前のコラムで、人類史上未曾有の超高齢社会になった日本では、今後、社会から孤立した中高年による「下級国民のテロリズム」が散発的に発生するだろうと書きましたが、その直後に、埼玉県ふじみの市で、訪問医療の医師が猟銃で射殺されるという衝撃的な事件が起きました。

加害者は66歳の無職の男で、生活保護を受けながら自宅で90歳を超える母親を介護していました。「母親を先に診ろ」と病院の待合室で騒いだり、長文の抗議文を送りつけるなど、地元の医療関係者のあいだでは「モンスター介護者」として有名だったといいます。

トラブルの原因は、自宅で母親に胃ろうをつくる要求を医師から断わられたことで、弔問に訪れた医師らに、母親の遺体に蘇生措置を行なうよう強要したというのですから尋常ではありません。医師らも揉め事に備えて男7人で訪問しましたが、まさか銃を所持しているとは思わなかったのでしょう。

医療関係者のあいだでは、無理な延命を要求するのはたいてい親の年金で暮らしている家族だとされ、「年金大黒柱」と呼ばれています。親が死んでも届け出さずに年金を受給しつづけるのが「年金ミイラ」で、ときどき事件になります。この加害者は生活保護を受けていたため、母親が死んでもすぐに生活に困るわけではありませんが、精神的にも経済的にも母親に依存していたことは間違いないでしょう。

こうした「モンスター」に共通するのは極端な被害者意識で、自分はなにひとつ悪くなく、他人がすべて悪いという「他責性」です。認知的不協和理論でいうなら、自分の置かれた状況があまりに絶望的なので、もはやそれを合理的に説明できなくなり、個人的な「陰謀論」によって不協和を解消しようとするのです。女性の場合、絶望は内に向かい、うつ病や自殺未遂につながりますが、男性は怒りが特定の相手に向かいやすく、時には無差別殺人を引き起こすという性差も確実にあります。

「モンスター」の怒りの標的になると被害は甚大ですが、医師は「応召義務」が医師法で定められており、事実上、患者の診療を断ることができません。大阪北新地の心療内科クリニックの事件が典型ですが、精神医療の現場では医師と患者の関係がこじれることはよくあり、対応に苦慮しているようです。――その結果、患者の求めに応じて大量の向精神薬を処方するようなことが起きます。

より深刻なのは訪問看護・介護の現場で、女性の看護師・介護士が一人で自宅を訪れることも多く、約半数が利用者や家族から、身体的暴力をともなうハラスメントを受けたという調査もあります。とはいえ、警察を呼ぶような事態でなければ、医療機関や介護施設、行政の側からサービスの提供を断わるのは難しいでしょう。

本人が嫌がる業務を強要できないとして、病院や介護施設に大きな選択権を与えればいいという意見もありそうです。しかしそうなると、一部の富裕層や楽な患者・要介護者だけにサービスを提供することになりかねません。この問題には、安直な解決策がないのです。

ひとつだけ確かなのは、報酬が安いばかりか生命の危険まである仕事の担い手が、早晩、いなくなることでしょう。

『週刊プレイボーイ』2022年2月21日発売号 禁・無断転載