ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2012年11月公開の記事です。(一部改変)

******************************************************************************************
シンガポールをはじめて訪れたとき、なぜチャイナタウンがあるのか不思議だった。
その頃は、香港とシンガポールは同じようなところだと思っていた。香港に住んでいるのはほとんどが広東人で、彼らはみんな“中国人”だからチャイナタウンなどない。
シンガポールの中心部は、シンガポール川が海に注ぐボート・キーやクラーク・キーと呼ばれる一帯だ。“Quay”というのは埠頭のことで、19世紀のイギリス植民地時代はここに沖仲仕が集まり、インドや中国からやってくる貨物船の積荷を捌いた。
シンガポール川の左岸は国会議事堂や最高裁判所などの行政施設が並び、右岸は高層ビルが立ち並ぶ金融街だ。金融街のちょうど裏手に地下鉄のチャイナタウン駅がある。階段を上って通りに出ると、たしかに漢方薬や茶・乾物、中国菓子などの店が並んでいるが、シンガポール市内ならどこでも見かけるからとくに珍しいわけではない。
中華街の突きあたりまでくると、突然、極彩色の建物が現われる。シンガポール最古のヒンドゥー寺院スリ・マリアンで、強い香がたかれるなか信者たちが祈りをささげている。
なぜ、チャイナタウンにヒンドゥー寺院があるのだろう? これもシンガポールの不思議のひとつだ。
江戸時代にはイギリスは植民地主義に興味を失っていた
東南アジア地域研究の第一人者である白石隆は、『海の帝国 アジアをどう考えるか』(中公新書)でシンガポールの「建設者」トーマス・スタンフォード・ラッフルズについて書いている。
1781年、西インド諸島の大英帝国植民地ジャマイカに生まれたラッフルズは、14歳で東インド会社職員に採用され、24歳の時にマレー半島のペナンを訪れた。語学に秀でたラッフルズは、ロンドンからペナンに向かう船中でマレー語を習得し、現地の「マレーの王たち」の工作責任者に任命された。日本は江戸時代で、松平定信の改革が失敗し、将軍家斉の放漫財政とロシアからの度重なる通商要求で江戸幕府が内憂外患に陥った頃だ。
ヨーロッパではナポレオンが大陸を支配下においたものの、絶頂期はすでに過ぎて、破滅の待つロシア遠征を決行する直前にあたる。このとき東南アジアで最大の懸案は、オランダが支配していたジャワの権益だった。
ラッフルズは当初、ナポレオン軍に敗北して力を失ったオランダからジャワを奪い、バタビア(現在のジャカルタ)を中心に、インドからマラッカ海峡(マレー半島とスマトラ島の間)を抜けてジャワに至り、そこから蘭領東インド(インドネシア)の島々を伝ってニュー・ホランド(オーストラリア)に達する広大な海域を支配下に置くことを構想した。このときラッフルズは、セレベス(スラウェシ)島に住む海洋民族ブギス人を中心とする「新帝国」を思い描いていたという。
だがナポレオン戦争が終わると、ラッフルズの夢はたちまちかき消えてしまう。フランスと対仏大同盟のあいだにパリ条約が締結され、ジャワがオランダに返還されてしまったのだ。
だがちょうどこの頃、インド産の阿片を中国に輸出する阿片貿易が大きく成長していた。大英帝国のアジア政策は、マレー半島の先端に対中国貿易の拠点をつくり、大量の阿片を香港や上海に運び込んで、茶や陶磁器、絹などと交換することに変わった。こうして建設されたのが、シンガポールだ。
このとき大英帝国は、すでに200年に及ぶ植民地経営の歴史を経ていた。アメリカに独立され、インドでの反乱に手を焼いていた彼らは、軍隊を派遣して土地を奪い取る「植民地」の拡大には興味を失っていた。
“後期帝国主義”において大英帝国の戦略は、海のアジアに物流拠点を確保し、自由貿易によってヨーロッパとインド・中国を結び、市場を拡大していく「グローバリズム」だった。そのために建設されたのが、香港・上海(租界)であり、ペナン・マラッカであり、シンガポールだった。
1839年の阿片戦争は、清朝の阿片禁輸政策からこの自由貿易を守るためのもので、もとより大英帝国に中国を植民地化する意図はなかった。日本が明治維新により近代国家への道を歩みはじめたのはそれから28年後の1867年だが、当時の日本人に後期帝国主義の自由貿易戦略が理解できるはずもなく、朝鮮半島と満州を植民地化する“古い”ゲームに固執して破滅への道を突き進んだことは歴史の示すとおりだ。 続きを読む →
