本人の意志と自己責任が徹底されたデンマークはどういう社会か?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年3月29日公開の「懲罰的な意味合いの強い日本と違う 幸福度世界第3位のデンマークの「自己責任」論」です(一部改変)。

Pcala/Shutterstock

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日本ではこのところずっと、「格差」と「自己責任」が議論になっている。社会学者・橋本健二氏は『新・日本の階級社会』(講談社現代新書) のなかで、SSM調査(1955年以来、10年に一度、全国規模で無作為抽出によって実施されている社会学者による日本最大規模の調査)を用いて自己責任論の広がりを指摘している。

2015年のSSM調査には「チャンスが平等に与えられているなら、競争で貧富の差がついてもしかたがない」という設問があり、その回答をみると、全体の52.9%が自己責任論に肯定的で、とくに男性では60.8%に達する。自己責任論に否定的なのは全体で17.2%、男性では15.6%にすぎず、女性でも18.6%しかいない。

特徴的なのは「格差の被害者」であるはずの貧困層でも44.1%が自己責任論に肯定的で、否定的なのは21.6%にとどまることだ。「貧困層のかなりの部分は、自己責任論を受け入れ、したがって自分の貧困状態を、自分の責任によるものとして受け入れているのである」と橋本氏は述べている。

同じSSM調査から、2005年と2015年で格差拡大を肯定・容認する比率を見ると、富裕層では高く(2015年では37.0%)貧困層では低い(同23.7%)のだが、この10年間で富裕層では1.2ポイント上昇したにすぎないが貧困層では6.3ポイントも上昇している。貧しいひとほど格差拡大を容認するようになったという奇妙な現象の背景にも「自己責任論」がありそうだ。

「日本的雇用を守れ」と叫ぶリバラルは「差別」に加担している

自己責任が「自由の原理」であることはいうまでもない。自分の行動に責任をとれない人間が自由の権利だけ主張できないのは当然のことだ。しかしその一方で、すべてを「自己責任」で片づけることもできない。

奴隷制社会において、奴隷が幸福になれないことを「自己責任だ」というひとはいないだろう。自分の人生を自由に選択できないのであれば、その結果を本人の責任に帰すことはできない。――これもすべてのひとが同意するだろう。

私はこの何年か、「日本は先進国の皮をかぶった前近代的身分制社会」だと述べてきた。日本社会では「正規/非正規」「親会社/子会社」「本社採用/現地採用」などあらゆるところで「身分」が顔を出す。日本人同士が出会うと、まず相手の所属=身分を確認しようとするが、こんな「風習」は欧米ではもはや存在しない。日本ではずっと、男は会社という「イエ」に滅私奉公し、女は家庭という「イエ」で子育てを「専業」にする生き方が正しいとされてきた。

「新卒一括採用」は世界では日本でしか行なわれていない“奇習”で年齢差別そのものだが(日本の労働法でも違法で、そのため厚労省が適用除外にしている)、そこで失敗すると「非正規」という下層身分に落ちて這い上がることは難しい。「(子どものいる)女性」や「外国人」も同様で、会社に滅私奉公する(男性)正社員とは異なる身分として扱われる。このような社会で「自己責任」を強く主張することは、「日本人・男性・中高年・正社員」という属性をもつ日本社会の主流派の既得権を守ることにしかならない。

だがその一方で「リベラル」を自称するひとたちは、自己責任論を批判して「日本的雇用を守れ」と主張することで、結果として「差別」を容認している。いま必要なのは、すべての労働者が身分や性別、国籍に関係なく「個人」として平等に扱われるグローバルスタンダードのリベラルな労働制度に変えていくことだ。――これが私の立場だが、ここではこれ以上「自己責任論」を開陳するつもりはない。

私の興味は、次のようなことだ。

「すべてのひとが自分の人生を自由に選択できない社会では、自己責任を問うことはできない」。この原則に合意するのなら、それを逆にして、「人生を自由に選択できる社会では自己責任を問われることになる」はずだ。

「自由(自己決定権)」と「自己責任」は実際にこのような関係になっているのだろうか。そこでここでは、鈴木優美氏の『デンマークの光と影 福祉社会とネオリベラリズム』(壱生舎)にもとづいて、自己決定権が最大化された北欧の国で自己責任がどのように扱われているのかを見てみたい。鈴木氏がデンマークの大学の博士課程(心理学・教育学研究科)在学中に執筆したもので、2010年の刊行だがいま読んでもとても刺激的な本だ。

デンマークでは「本人の意思」がすべて

デンマーク社会の「自己責任」について、鈴木氏は自身の体験から以下の3つの例を挙げている。いずれも日本では考えにくいケースだろう。

(1) ひどく乱雑な部屋で一人暮らしを続ける高齢の女性。彼女の生活が、大きな写真とともにある日の新聞の一面記事で扱われた。彼女はホームヘルプを受けながら暮らしているが、目がよく見えないため掃除も行き届かず。部屋は目を覆わんばかりの状態だ。自治体から派遣されるホームヘルパーは、やるべき仕事だけを済ませるとさっさと帰っていく。コンロに焦げついた鍋があっても、床に何かがこぼれていても、それらに手をつけるのは責任範囲ではなく、ヘルパーたちには余分なことをする時間的な余裕もない。こんな状態であっても、本人が一人暮らしを望みつづけるあいだは「もう自立生活は難しいから、老人ホームに入るべきだ」と干渉することはない。

(2) 交通事故で脳挫傷になり、重篤な状態で入院した(鈴木氏の)友人の男性。開頭手術をくりかえし受けつつ、リハビリを続けていた。しかし、退屈な病院での生活に嫌気がさし、ある日、自主退院を決めて「脱走」。まだ退院が許されたわけではなかったが、本人の意思である以上、強制的に再入院はさせられない。病院からの措置はとられず。その後も彼は予定された手術をすっぽかし、アパートで飲酒・喫煙をする生活を続けた。結局、数か月後にアパートで息を引き取っているのが見つかった。家族もないため、アパートは競売にかけられ、本人は無縁墓地で眠っている。

(3) 軽度の認知症をもち、筆者(鈴木氏)の勤務する老人ホームに入っているある女性。うつの傾向があり、過剰に飲酒をする。ほとんど介護も要らず、足腰も丈夫なため、カートを引いて重い「瓶」をたくさん買ってくる。ホームの職員はそれを承知のうえで、「いってらっしゃい」と送り出すしかない。そして食事をほとんど摂らないままに、朝からビール、昼間からワインという生活を数年間続けている。自分で身のまわりのことができるため、職員がするのはあまり手のつけられることのない食事を運び、抗うつ剤を投与するくらいだ。他の入居者との交流も好まないため、そのあいだもひとり部屋にこもって数知れない空き瓶を生み出していく。本人のお金で、自室で飲んでいるのだから、当人の自由という理解だ。

デンマークでは「本人の意思」がなによりも尊重される。子どもが幼稚園や学校に入る年齢は発達段階に応じて親が自ら決定できるし、学力達成度に不安があれば留年もでき、学区などに関係なく学校は自由に選べ、自分に合わなければ変えられる。子どもを学校に通わせずに個人指導で学習させることも可能だ。

学校にはジュースや果物を間食として持ってきて、授業中でも食べることができる。自由な学習形態を売りにしている学校では、生徒の学び方に合わせて、廊下や床に寝そべって勉強したり、音楽をイヤホンで聴きながら課題に取り組むことも許されるという。

高齢者に対しても同様に本人の意思が最大限に尊重され、ホームヘルプ制度などを利用して自治体は高齢者の自立した生活を支援し、老人ホームに入るのは本人が同意してからだ。その老人ホームでも飲酒や喫煙ができ、訪問者の差し入れや訪問時間が管理されることもない。

「その人なりの生き方を許容するのがデンマーク社会であり、人に価値を押しつけたり、型にはめるために矯正することはない」と鈴木氏はいう。この国では、どんなひとであっても、「あなたはあなたのままでいていい」のだ。

ドラッグ濫用もホームレスになるのも自己責任

個人の意思をなによりも尊重する社会では、食べ過ぎで太るのも、アルコールやドラッグを濫用するのも、ドロップアウトしてホームレスになるのも本人の自由=自己責任ということになる。

デンマークでは「1日に6つの野菜・果物を600グラム食べよう」「魚を週2回食べよう」などの健康キャンペーンがさかんに行なわれているが、過体重や肥満を患う国民は激増している。2001年の調査ではデンマーク人の男性の42%、女性の37%がBMI25から29.9の「過体重」で、成人全体の15%がBMI30を超える「肥満」だった。

子どもの肥満も深刻で、14歳から16歳の過体重は30年前に比べて3倍に増加した。専門家によれば、いまや14%の子どもが過体重にあたり、低年齢の7歳から10歳までの女児では5人に1人以上が過体重だという。

子どもの肥満はいじめを受ける最大の原因で、自信喪失や学業の妨げになっている。そのため一部の学校では完全無料の給食制度で肥満を防ぐ試みが始まっており、自治体では栄養学、教育学、心理学など分野を超えた専門家が集まって過体重児の治療をしている。ただしここでも「個人の意思尊重」の原則は貫徹されており、「いかなる援助も子どもに強制するものであってはならず、当人が助けを求めてはじめて発効する」とされている。

デンマークの法律は「16歳未満の若者に対してアルコール飲料を販売してはならない」「レストランやバーなどは18歳未満の若者にアルコール飲料(ライトビールなら可)を提供してはならない」としているだけで、親が買ってきたアルコール飲料を自宅で飲むことにはなんの規制もない。

その結果、14歳以上のデンマーク人は平均して1人あたり年間11.6リットルの純アルコールを消費している。これは毎週フルボトルのワインを2本以上飲んでいる計算で、アルコ―ル関連の疾患は全死因の6%にものぼる。

度を超した飲酒行動に加え、青少年のあいだではエクスタシー、コカイン、アンフェタミンなどの薬物が広がっている。デンマークは薬物濫用による死者の割合がヨーロッパでもっとも高い国のひとつで、人口100万人あたりの薬物関連の死者数は50人を超える。それに対してスウェーデンは20人ほど、大麻など一部のドラッグが合法化されているオランダは10人ほどだ。

薬物中毒の治療にはメタドンという鎮痛剤が使われるが、このメタドン自体も依存性が高く、ヘロインから抜け出すより難しいといわれる。そのためメタドンからより危険性の少ないブプレノフィンに変えることが勧告されているが、最初はあまり効かず、他の薬剤と混合して服用すると気分が悪くなることから患者にはあまり好まれない。

ここでも「患者本人の意思の尊重」は徹底しており。薬物中毒者の約3分の1を抱えるコペンハーゲン市では、「薬物濫用者に治療を受けさせ、治療を継続することが優先事項であるため、患者がメタドンが欲しいといえば与え、ブプレノフィンは嫌だといわれれば強制はしない」方針だという。

「有能な子ども」しか認められない社会

デンマークでは「自立Self-governance」「自由Freedom」「能力Competency」を重視する教育が1960年代にはじまり、90年代には「(自律して自制心をもった)有能な子どもThe competent child」という概念が成立した。「有能な子ども」は自らの行動に責任をもち、自らの望みや利益・関心、気分について筋の通った説明ができる。また社会の要請を敏感に察し、自己洞察を身につけ、周囲から期待されているものを内在化する。

それとともに、これまで親の責任とされてきた「子育て」が、行政と子ども自身で責任を分け合うものへと変貌した。移民のなかには子どもを保育所に入れたがらない親もいるが、「公共保育を通じて言語能力や社会性が培われる」との理由から「親の無責任」は許されず、90年代にはほぼ100%の子どもが保育所に通うようになった。子どもの権利条約が採択されると、「子どもの成長に責任の一端を握るのは子ども自身」という教育論が確立した。

このようにして育てられた「有能な子ども」たちが「自立した市民」になっていくのだが、誰もが社会の要請を理解し、期待に応えていくほど強くいられるわけではない。「国家が規範として求める自立・自律のスタンダード」を満たすことができず、孤独やストレスからアルコール、薬物、過食・偏食などにつかの間の安らぎを見出す者も出てくるのは、ある意味自然なことだ。

こうした反省から、政府は「過剰な個人の自由」を再定義し、新保守主義的な道徳観への転換を試みているという。これがデンマークにおける「ネオリベ化」だ。

「有能な子ども」から「自立した市民」に成長するのは国民の義務なのだから、「デンマーク人以外の民族的背景をもつ」国民、すなわち移民2世・3世にも適用される(ちなみにこれは、デンマークにおける「移民」の政治的に正しい表現だ)。この国では、「自己責任のとれる自律した個人」でなければ居場所はないのだ。

その結果、移民の若者が中等教育をドロップアウトすることが社会問題になると、教育大臣は「子どもに無断欠席を許すのは親の管理が行き届いていないからだ」として、親に罰金を科すことを提案した。18歳未満の子どもをもつ親には「子ども小切手」が支給されるが、子どもが長期欠席している場合はこれを減額あるいは停止するというのだ。「極右」のデンマーク国民党からは、1週間の不当欠席で2000クローナ(約3万2000円)の罰金という提案も出された。「態度が悪かったり、物を壊したり、学校に通わなかったりする生徒やその親に対しては、さらなる措置を検討したい」との教育大臣の発言もあった。

こうしてみると、北欧の国では「自己責任」が移民排斥の正当化に使われていることがわかる。デンマーク社会が寛容なのは、移民の子どもたちが自らの意思で「有能な子ども」になろうとする場合だけなのだ。

自己責任の社会は居心地がいい?

ここで強調しておかなくてはならないのは、デンマークが「個人の自由と自己責任」を過剰に強要する社会だからといって、それが国民を不幸にしているわけではないことだ。

デンマークはOECDで3番目に抗うつ剤の消費量が多い国(1番はアイスランド)で、自殺率も高い。ただしこれは冬の日照時間が短い影響が大きく、自殺件数は1980年頃のピークから4割程度まで下がった。

それにもかかわらず、2006年に発表されたイギリス・レスター大学の心理学研究者エイドリアン・ホワイトの「世界の幸福度調査」でデンマークは1位になり、2008年にミシガン大学のロナルド・イングルハードらの世界幸福度調査でも「1981年から2007年でもっとも幸福な国」に選ばれたことで一躍注目を集めた。最新の国連「世界幸福度ランキング」(2018年3月14日発表)でも、デンマークはフィンランド、ノルウェーに次いで第3位になっている(日本は54位)。

これは、自己責任の社会でも自由な選択が認められているのなら、ひとびとの幸福度は高いということなのだろう。ネオリベ適性の高いひとにとっては、「福祉が充実した自己責任の社会」は居心地がいいのだ。

デンマークで暮らす鈴木優美氏は、日本語の「自己責任」には「自業自得」「因果応報」というニュアンスが込められているが、デンマーク語では「他人/公への必要以上に拡大した依存心を減らして、自分でできることは自らの力でかなえるべき」という「強い者の(援助なしでの)自立」を謳っているように感じられるという。

「大きな政府がなんでも面倒を見てくれるために、自分で何ができるかを考えてみることもせずに、公にサポートを要求するような無責任な国民を生み出している」という自己責任論の高まりを受けて、デンマーク政府は“ネオリベ”的な小さな政府を目指し、2008年に「私の責任」という会議を開催した。

ここで興味深いのは、「高齢者を大切にして、家族の温かさを取り戻そう」という政府の「道徳キャンペーン」に対してアンケートに答えた75%の国民が、「家族が高齢者の面倒を見ることを法律で義務付けるのは反対」とこたえていることだ。デンマークの息子や娘たちは、親の面倒を見ることで自分たちの「自由」が侵害されることを理不尽だとして、高齢者の面倒はこれまでどおり国・自治体がみるべきだと考えているようだ。

ただしその際には、あくまでも高齢者の意思を尊重して、本人が望まない過剰な世話を焼く必要はいっさいない。このようにして、福祉社会と自己責任は折り合いがつくのだろう。

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