京アニ事件でこそ死刑廃止を議論すべき理由 週刊プレイボーイ連載(592)

36人が死亡した京都アニメーション放火事件の被告に地裁で死刑判決が下されました(その後、被告側が控訴)。裁判では被告が孤立していく過程が明らかになり、「誰もが自己実現を目指さなければならない」というリベラル化する社会の矛盾が浮き彫りにされましたが、この問題についてはすでに別のところ(『無理ゲー社会』)で書いたので、今回は死刑制度について考えてみたいと思います。

広く知られているように世界の大半は死刑を廃止し、OECD38カ国のなかで死刑制度存置国はアメリカ、日本、韓国のみとなりました。死刑執行が圧倒的に多いのは中国、イラン、サウジアラビアの3カ国で、それ以外の国は徐々に執行数が減っており、この流れは今後も変わらないでしょう。

日本で死刑制度の議論がこじれるのは、リベラルが「いのちは大切だ」と唱えて廃止運動を行なってきたからです。そうなると当然、「理不尽にいのちを奪われた被害者はどうなるのか」という話になり、収拾がつかなくなってしまいます。

ここで指摘したいのは、死刑廃止を推進するのはアムネスティのような人権団体だとしても、死刑を廃止した国がみな「リベラル」というわけではないことです。移民問題で混迷する欧州では近年、排外主義の右翼政党が勢力を伸ばしていますが、だからといって「死刑制度を復活させろ」とは誰も主張しません。

ここからわかるのは、制度の廃止までははげしい対立があったとしても、いったん廃止すると、保守派も含めて誰も元に戻そうとは思わないことです。檻に閉じ込められた動物は、じゅうぶんな食事を与えられていても弱って死んでしまいます。だとしたら、死刑よりも生涯にわたって収監するほうが重い罰かもしれません。

日本では死刑が「極刑」とされているため、死刑に反対すると「加害者を許すのか」と反発されます。ところが2008年、仮釈放のない終身刑を導入するとともに、死刑の執行を一定期間停止するという議論を超党派の国会議員が始めたとき、死刑存置派の元法務大臣は「人を一生牢獄につなぐ刑は最も残酷ではないか」として反対しました。ここでは、死は苦しみから逃れるための「恩寵」とされています。

死刑が犯罪の抑止になるという主張は、死刑廃止国で殺人などの重罪が増えていないことから、いまでは否定されています。そればかりか日本では、「自殺する勇気がない」という理由で死刑を目的とする凶行が相次いでます。被害者の処罰感情が理由にあげられますが、死刑に処してしまえば「なぜあんなことをしたのか」と問うこともできません。

平成から令和の変わり目でオウム真理教事件の死刑囚7名の刑が執行されたように、日本では死刑は「けじめ」であり、被害者遺族に対して「加害者は死んだんだから、不愉快なことをこれ以上蒸し返すな」という社会的圧力に利用されています。

京アニ事件の被告は、裁判での供述をみるかぎり、自分がなにをしたか理解できているようです。だとしたら死刑によって罪から「解放」するのではなく、生涯にわたって自らの罪と向き合わせるという“懲罰”もあり得るでしょう。

これまでの死刑廃止運動は、冤罪事件や、そうでなければ死刑囚が自らの過去を悔い、文学作品を発表するような特殊な例を好んで取り上げていました。しかしこれでは、死刑に対する社会の価値観を変えることはできないでしょう。

京アニ事件のような「誰一人擁護できない犯罪」でこそ、死刑について真剣に議論すべきなのです。

参考:「「終身刑」の創設」加速」朝日新聞2008年6月5日

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