「人種」と「ヒト集団」をめぐるやっかいな問題について

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年7月16日公開の「アメリカでリベラルと「レフト」が衝突する「人種主義Racism」。「人種」概念の否定と遺伝的な「ヒト集団」が混乱を起こしている」です(一部改変)。

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著名な進化心理学者であるスティーブン・ピンカーに対して、アメリカの大学を中心に542人の研究者が、これまでの「人種主義的」発言を理由に、アメリカ言語学会のフェローから除名するよう求める請願書を公開した。それに対して、ノーム・チョムスキー、フランシス・フクヤマ、J・K・ローリング、マルコム・グラッドウェルなどを含む有識者が“A Letter on Justice and Open Debate(正義と開かれた討論についての手紙)”で、過剰なポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)が思想信条や表現の自由の脅威になっているとの懸念を示した。

「この息の詰まるような(ポリコレの)空気は、最終的に、私たちの時代の死活的に重要な大義を毀損するにちがいない。(開かれた)討論への制約は、抑圧的な政府によるものであれ、不寛容な社会によるものであれ、ちからのないひとびとを不可避的に傷つけ、民主的な参加への道を閉ざすことになる」との一文が、アメリカのアカデミズムをとりまく状況をよく表わしている。

この象徴的な事件は今後、日本でも多くの識者が論じることになるだろうが、ここではなぜピンカーが「レフト」の標的になるのか、私見を述べてみたい。それは結果的に、「人種主義(Racism)」がアメリカ社会においてどれほどやっかいな問題かを示すことになるだろう。

リベラルの「楽観主義」こそが、レフトにとっては殲滅すべき最悪の敵

アメリカでは、過激な主張をする左派を「レフト」とか「ラディカル・レフト」と呼んで、「リベラル」と区別するようになった。彼らが、民主党の大統領予備選などを通じて、トランプ=共和党の保守派だけでなく、リベラルとされる候補者や知識人をもはげしく攻撃したからだ。ピンカーは「リベラルを騙る人種主義者」の代表として、これまでもずっと標的にされてきた。

2004年に『タイム誌』の「世界でもっとも影響力のある100人」に選ばれたスティーブン・ピンカーは、『暴力の人類史』(青土社)や『21世紀の啓蒙』(草思社)などで、「18世紀の“啓蒙の時代”以降、世界はますますゆたかで平和になり、人類は幸福になった」と繰り返し述べている。

こうした「事実(ファクト)に基づいた楽観主義」は、日本でもベストセラーになったハンス・ロスリングの『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』(日経BP)にも共通しており、いったいどこが「人種差別」なのか戸惑うひとも多いだろう。だがこれは、次のように考えればわかるのではないだろうか。

ピンカーは著書のなかで「世界はますますリベラル化している」として、同性愛者差別、女性への暴力、子どもの虐待・体罰などあらゆる指標において、「今日の保守層の価値観はかつてのリベラルよりずっと“リベラル”になった」と膨大なデータを挙げて示した。問題は、この「リベラル化」に人種差別も加えられていることだ。

人種分離を求めるKKK(クー・クラックス・クラン)の最盛期は1920年代で、第二次世界大戦後に白人の「戦友」と共に戦った黒人帰還兵たちが反人種差別の声を上げると、全米に共感の輪が広がって公民権運動につながった。1964年にミシシッピ州で公民権運動家3人を謀殺した事件でKKKの凋落は決定的になり、現在は「カルト組織」として細々と命脈を保っているだけだ。

処刑した黒人を木に吊るす「奇妙な果実」のようなことはいまでは想像すらできず、ほとんどの白人はマイノリティへの差別を嫌悪している。ピンカーにいわせれば、Black Lives Matter(BLM)の運動もアメリカ社会の「リベラル化」の証拠なのだ。

だとしたら警察による「黒人差別」はどうなのだろうか? これについてピンカーは2015年に、ニューヨークタイズムの記事(Police Killings of Blacks: Here Is What the Data Say By Sendhil Mullainathan /Oct. 16, 2015)を引いて、「データ:警官は黒人を不釣り合いに銃撃してはいない。問題:人種ではなく、あまりにも多くの警官による銃撃」とTweetした。

この記事では、黒人はたしかに警官によって銃撃される割合が高いが、これは人種別の貧困率から説明できるとされている。貧困地区では犯罪が多発し、そこに警察官が出動すれば銃撃事件が起きる可能性も高まる。真の問題は黒人の貧困率が高いことで、それを統制すると「警官が人種的偏見を持っている」とは統計的にいえなくなるという。

参考:BLM(ブラック・ライヴズ・マター)に対する保守派の論理とは

ピンカーがいうように、アメリカ社会が「リベラル化」しており、人種差別や黒人への偏見が(かつてと比べて)解消されつつあるとしよう。しかしそれにもかかわらず、人種別世帯収入の公的調査では黒人の苦境が際立っている。2017年の黒人の世帯収入は4万1361ドル(約440万円)で白人(7万642ドル≒760万円)より4割低く、もっともゆたかなアジア系(8万7194ドル≒930万円)と比べると半分以下で、この経済格差は1960年代と比べて縮小していないばかりか「拡大」しているのだ。

そうなると、「人種差別がなくなったのに、なぜ黒人は貧しいままなのか?」「同じ人種マイノリティでも、アジア系は白人よりゆたかになったのに、なぜ黒人は貧しいままなのか?」との疑問が出てくるのは避けられない。

ここから、「アメリカは人種問題においてもリベラルになっている」との主張をレフトが拒絶する理由がわかるだろう。ピンカーは人種についての言及を慎重に避けているが、「人種差別がなくなれば黒人と白人の経済格差はなくなるはずだ(そうでなければならない)」とのイデオロギーを信奉する者にとっては、経済格差が拡大しているにもかかわらず”リベラル化”を説くピンカーの啓蒙主義は「人種主義(Racism)」以外のなにものでもないのだ。

世界的ベストセラー『サピエンス全史』で知られるイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは「リベラルな知識人」の代表とされているが、AI(人工知能)によって人類(サピエンス)は「エリート層」と「無用者階級」に分断されると予言する。これはピンカーの「啓蒙的楽観主義」と比べて、はるかに優生思想に近い。

それでもハラリが批判されないのは、未来をディストピアとして描いているからだろう。レフトにとっては、「現在は過去より悪く、将来はさらに悪くなっていく」のでなくては自分たちの存在意義がない。ピンカーやロスリングのいうように「現在は過去よりよくなっていて、将来はさらによくなる」のなら、必要なのは逐次的な改善の積み重ねで、「体制変革」「革命」「暴動(暴力的抗議行動)」の正当性はなくなってしまう。

レフトにとって殲滅すべき最悪の敵は、トランプの「ファシズム」ではなく、リベラルの「楽観主義」なのだ。

人種現実主義と科学的人種主義

トランプはSNSなどで、抗議デモを隠れ蓑に略奪を繰り返したり、奴隷制の歴史を正当化する(とされる)記念碑や彫像を破壊する過激な一派を「アンチファ(反ファシズム)」「キャンセルカルチャー」と執拗に攻撃している。これによって、表現の自由を守るために過剰な「ポリコレ」を批判するリベラルも、レフトにとっては「トランプ支持者」の同類になってしまった。アメリカの言論状況は複雑骨折のような状況になっているのだ。

そこでここでは、錯綜する議論を整理するために、「人種(Race)」について基本的なことを述べておきたい。近年、アカデミズムの世界で「人種」概念は大きく変容しているからだ。

結論を先にいうと、いまでは遺伝学的な意味での「人種」は否定され、社会学などを除けば学術論文のなかで“Race”や“Ethnicity”が使われることはほぼなくなった。フランスの分子生物学者ベルトラン・ジョルダンの『人種は存在しない 人種問題と遺伝学』(山本敏充、林昌宏訳、中央公論新社)の書名がその変化を表わしている。

人種を「社会的構築物」とする主流派の立場に反対するのが「白人至上主義者」の「人種現実主義(Race realism)」で、そこでは大きく2つのことが主張されている。

ひとつは、人間の本性として、白人は白人同士で、黒人は黒人同士で集住した方が安心できるという「現実」があること。これを「多元主義」の美名の下に国家権力が矯正=強制しようとしてもいたずらに混乱が広がるだけだとする(その意味でこの立場は「黒人を差別しているわけではない」とされる)。

その主導者がジャレド・テイラーで、渡辺靖氏の近著『白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」』(中公新書)に詳しいが、日本で宣教師の両親のあいだに生まれ、16歳まで香川県や兵庫県で過ごしたことで日本語を流暢に話し、イェール大学卒業後にパリ政治学院で修士号を取得した知識人で、日米間の翻訳・通訳業で成功を収めたのちに「人種現実主義者」になったとされる。

もうひとつは、遺伝学的に、人種間には肌の色のような外見のちがいだけでなく、認知的・心理的な側面を含むさまざまな差異があるとする主張で、「科学的人種主義(Scientific racism)」と呼ばれる。こちらはイギリスの科学ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーの『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』( 東郷 えりか 訳、作品社)にアカデミズムの(そして著者自身の)混乱がよく描かれている。

「科学の人種主義」としてサイニーが批判するのが行動遺伝学と遺伝人類学だが、いずれも現在は“Race”を使っていない。だったらどこが「人種主義」かというと、“Population”という新奇な用語が(主に遺伝人類学で)登場したからだ。――これには「人類集団」の訳もあるが、日本の遺伝人類学では「人類(ネアンデルタール人などを含むすべてのホモ属)」と「ヒト(現生人類/ホモ・サピエンス)」を区別しているので「ヒト集団」とする。

ジョルダンは「人種は社会的構築物で科学的には否定された」との立場をとるリベラルだが、その著書『人種は存在しない』の内容は、「人種は存在しないがヒト集団は存在する」と要約できる。なぜなら遺伝人類学そのものが、ヒトを遺伝的にさまざまな「集団」にグループ分けし、その来歴や歴史を探る学問だからだ。

「人種」ではなく遺伝学的な「ヒト集団」でグループ分けができる

遺伝人類学については「古代DNA革命」を牽引するデイヴィッド・ライクの『交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(日向 やよい 訳、NHK出版)を以前紹介した。

参考:遺伝人類学が解き明かす「人類誕生」と「人種」の謎

そこでここではより身近に、太田博樹氏による『遺伝人類学入門』(ちくま新書)から「下戸遺伝子(これは私の命名)」を例にあげよう。

一卵性双生児を除けば、同じDNAをもつひとはこの世にいない。この分子レベルのバリエーションを「遺伝的多型」といい、それを知るのにもっともよく使われるのが一塩基多型(SNPs/スニップス)だ。

日本では、まったくお酒を飲めないひとを「下戸」と呼ぶ。かつては「無理に飲ませればそのうち慣れる」といわれたが、これはきわめて危険な間違いで、アルコール(エタノール)から生じるアセトアルデヒドを遺伝的に酢酸に分解できないのが理由だ。酢酸は無害だが、アセトアルデヒドは強い毒性があり、血中に溜まると頭痛が起こり、顔が紅くなり、気分が悪くなる。

アルコールを無害化するには肝臓ではたらくアルコール脱水酵素が必要で、ヒト12番染色体にあるALDH2という遺伝子がコードしている。ALDH2は13個のエキソン(DNAの遺伝子部分)で構成されており、そのうちの12番目の配列は野生型ではGAAとなっているが、このGがAに変わってAAAの変異型になることがある。

「野生型」はかつては「正常型」と呼ばれたが、変異型=異常を連想させるとしてこの名称に変わった。遺伝子頻度の多い方(マジョリティ)が野生型とされるが、進化論的には主に、狩猟採集の旧石器時代に形成されたのが野生型、農耕・牧畜開始以降の環境の変化によって獲得されたのが変異型ということになる。

野生型(GAA)から変異型(AAA)への変化は塩基1つのちがいだが、これによってアミノ酸がグルタミン酸からリシンに変化し、アルコール脱水酵素が機能しなくなる。染色体は2本あるから、GAA+GAA(野生型+野生型)、AAA+AAA(変異型+変異型)、GAA+AAA(野生型+変異型)の3つのパターンが考えられる。――このうち、同じ配列の組み合わせを「ホモ接合」、異なる配列の組み合わせを「ヘテロ接合」という。

SNPsが両方とも変異型のホモ接合(AAA+AAA)だと、アルコール(エタノール)から生じるアセトアルデヒドを酢酸に分解することができずに下戸になる。GAA+AAAのヘテロ接合では脱水酵素がじゅうぶんに機能せずに酒に弱くなる。ちょっと飲むとすぐに顔に出るのはこのタイプだ。

興味深いのは、このSNPsに顕著な地域差があることだ。日本ではGAA+GAA(酒に強い)が55%、GAA+AAA(酒に弱い)が40%、AAA+AAA(下戸)が5%程度だが、じつはAAAの変異は中国南部(長江周辺)を起源として東アジアにしか存在しない。下戸遺伝子のSNPsを調べるだけで大陸のどこの出身かを判断できるのだ。

こうしたわかりやすいSNPsは、ほかにいくつも見つかっている。乳糖不耐症は牛乳などに含まれる乳糖(ラクトース)の消化酵素ラクターゼを分解できないことで、消化不良や下痢などの症状が出る。だが下戸遺伝子とはちがって、病気(乳糖不耐症)の方が野生型で、人類が家畜を飼うようになったことで、その乳を栄養分として摂取できることが生存に有利になり、成長してもラクターゼを分解可能な変異型の遺伝子が広まった。このSNPsで、先祖が牧畜文化で暮らしていたかどうかがわかる(稲作の東アジアには牛乳を飲むとおなかをこわすひとが多い)。

鎌形赤血球症は遺伝性の貧血病で、変異型の遺伝子を2つもっているホモ接合だと重篤な溶血性貧血症状が起き、黄疸、骨壊死、下腿潰瘍などで死に至ることもある。なぜこのような生存に不利な遺伝的変異が存在するのか不明だったが、やがてヘテロ接合(野生型+変異型)の場合、マラリア原虫に抵抗力があることがわかった。幼児期のマラリアはきわめて死亡率が高いが、変異型を1つもっていると生き延びることができる。こうしてアフリカやインドなど、マラリア原虫を媒介するハマダラカの生息する地域でこのSNIPsが広がったのだ。

下戸遺伝子や乳糖不耐症、鎌形赤血球症の遺伝子はどのヒト集団にも存在するが、その分布には明らかな地域差がある。たとえば東アジアでは、下戸遺伝子と乳糖不耐症の割合が高く、鎌形赤血球症の割合は低い。これはヒト集団によって「遺伝子頻度(アレル頻度)」が異なるからで、遺伝子頻度は集団内で特定の遺伝的多型がどの程度見られるかの指標になる。

異なるヒト集団で遺伝子の分布(ハプロタイプ)に差があるのなら、それに基づいてグループ分けができるし、グループ間の距離も計測できる。これが遺伝人類学の基本的な考え方だ。

科学と政治イデオロギーのあいだの埋めがたい溝 

遺伝人類学によれば、「日本人」は遺伝的には、中国人、韓国・朝鮮人、台湾人、モンゴル人、チベット人などとともに「東アジア系」という主要なヒト集団に属している。また「日本」という国は単一民族ではなく、大きくヤマト人、アイヌ人、オキナワ人に分かれる(斎藤成也『核DNA解析でたどる日本人の源流』河出書房新社)。このようにヒトをさまざまなレベルの「遺伝集団」にグループ分けすることは、「日本」や「日本人」というナショナリズムを相対化する有力な方法になる(「日本人の遺伝子」などというものはない)。

だがこれと同じ考え方を、白人/黒人という人種問題に適用したらどうなるだろうか。

アメリカのような多民族社会で、ランダムに選んだひとのDNAを調べると、遺伝子頻度のちがいで5つから6つの大きなグループ分けができる。そしてこの分類は、一般に知られている黒人、白人、アジア系などの「人種」とほぼ一致する。これは祖先がどこで暮らしていたかを示しているので、「大陸系統(Continental Ancestry)」と呼ばれる。

なぜ人種と大陸系統が一致するかというと、ホモ・サピエンスが7万~5万年ほど前にアフリカを出てユーラシア大陸やアメリカ大陸、オセアニアなどに広がってから、それぞれの大陸で(相対的に)独自の進化を遂げてきたからだ。その結果、肌や髪、目の色などの表現型のちがいが現われた。これは遺伝的なものだから、DNAを解析すれば大陸系統によってグループ分けされるのは当然なのだ。

もちろん、ヒトはずっと「大陸」を越えて交わってきた。これは国際結婚のような牧歌的なものだけではなく、人類史の大半を通して、戦争や略奪、奴隷制、性暴力などにともなって大陸系統間の交わりが起こるのが大半だった。

その典型がアフリカ系アメリカ人(アメリカの黒人)で、祖先情報マーカー(SNPsを利用した大陸系統の分類)は西アフリカ系からヨーロッパ系に向けて広く分布している。これは白人と黒人の「混血」が多いからだが、DNA解析ではそれが父系か母系かまで判別できる。父系が白人、母系が黒人であれば、奴隷制時代のプランテーションの主人と奴隷の関係であることを示唆する(ジョルダン『人種は存在しない』)。

このように、科学的に「人種」概念は否定されたものの、遺伝学的な「ヒト集団」の存在が明らかになり、詳細に解明されるようになった。これが「人種問題」に混乱を引き起こしたことはいうまでもないだろう。

サイニーは『科学の人種主義とたたかう』で、リベラルな遺伝人類学者であるデイヴィッド・ライクにインタビューしている。サイニーはライクから「われわれが築く社会的な構造と相関する集団間の系統の違いは実際にあります」と断言され、大きなショックを受ける。

ライクはアメリカの黒人と白人のあいだには、表面上の平均的な違い以上のものがあるかもしれないとほのめかす。それは認知的、心理的な違いにおよぶ可能性すらあり、アメリカにやってくるまで、それぞれの集団グループは7万年にわたって別個にそれぞれ異なる環境に適応してきたためなのだ。これだけの時間の尺度のあいだに、自然選択は双方に異なった形で作用し、一皮むいた以上に深いところの変化を生み出したかもしれないと彼は示唆する。ライクは思慮深く、これらの違いが大きなものだとは自分は考えず、1972年に生物学者のリチャード・ルウォンティンが推定したように、個人間の差異よりもわずかに大きい程度だろうと付け足す。それでも、こうした違いは存在しないとは考えていないのだ。

インタビューのなかでライクは、(ヒト集団のちがいを否定する)サイニーに「まったく悪気のない人びとが科学と矛盾することを言うのは少々辛いものがあります。悪気のない人には正しいことを言ってもらいたいからです」と語る。

この言葉に、科学と政治イデオロギーのあいだの埋めがたい溝が象徴されているのだろう。

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