『言ってはいけない 残酷すぎる真実』あとがき

新刊『言ってはいけない 残酷すぎる真実』の「あとがき」を、出版社の許可を得てアップします。

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まずは悪い話から。

脳は左右対称の臓器で、右半球と左半球があり、それを脳梁がつないでいる。右脳は感情を、左脳は言語や論理を主に司る。

きわめて特殊なケースだが、重度のてんかんの治療のため、外科手術でこの脳梁を切断することがある。これが分離脳で、右脳と左脳がそれぞれ独立に活動する。

分離脳患者は、左半分の視野で見たものがわからない。言語中枢は左脳にしかないが、左視野の情報は右脳に送られるだけで(視神経は左右で交差している)、それを脳梁を経由して左脳に転送できないのだ。両手からの入力も同じで、右手で触れたものはそれがなにかわかるが、左手で触れたものの名前をいうことができない。右脳に入力された情報はどこかに消えてしまうのだ。

だが、脳の驚くべき能力はここからだ。

分離脳患者を目隠しした状態で、テーブルの上に並べられたスプーン、鉛筆、カギなどを左手で触わらせると、感触はあるものの、その情報は左脳には届かないのだから、それがなにかはわからない。次に左の視野に「スプーン」「鉛筆」「カギ」などの単語を見せると、これも同様に、患者は自分がなにを見ているか気づかない。

ところがこのふたつを同時に行ない、正しいと思う組み合わせを訊くと、手探りで正解を選ぶことができた。右脳は見えていない単語と名前のわからない感触を正確に一致させ、そのうえ患者は自分がなにをしたのかまったく意識していなかったのだ。

次の実験では、分離脳患者の左視野に「笑え」と書いたボードを置いてみた。

質問の意味を理解し、言葉によって回答するのは左脳の役割だ。脳梁が切断されている患者は、右脳に入力された「笑え」という指示を意識することができない。ところが、ボードの指示を見た患者は笑い出した。そこでなぜ笑ったのか訊いてみると、患者は「先生の顔が面白かったから」とこたえた。

分離脳患者は、右脳と左脳でふたつの「人格」を持っている。そして左脳は、脳のなかの見知らぬ他人(右脳)がやっていることを意識できない。

矛盾する認知に直面した状態を「認知的不協和」という。このケースでは、「笑った」という認知と、「笑う理由はない」という認知が矛盾している。これはきわめて気味の悪い出来事なので、意識は(脳のなかにふたつの人格があるという)不愉快な真実を嫌って、「先生が面白い顔をした」という快適なウソをつくりあげたのだ。

このことから左脳の役割がわかる。それは自己正当化、すなわち自分に都合のいいウソをでっちあげることだ、無意識が捏造した気分のいいウソは、「意識」というスクリーンに映し出される。――意識は無意識が生み出す幻想なのだ。

もっとも効果的に相手をダマす方法は、自分もそのウソを信じることだ。カルト宗教の教祖が信者を惹きつけるのは、自らが真っ先に「洗脳」されているからだ。社会的な動物であるヒトは上手にウソをつくために知性を極端に発達させ、ついには高度な自己欺瞞の能力を身につけた。

これが「現代の進化論」の標準的な説明だが、もしこれが正しいとしたら、暴力や戦争をなくすために理性や啓蒙に頼ったところでなんの意味もない。自己欺瞞は無意識のはたらきだから意識によって矯正することはできず、他人が欺瞞を指摘すればするほどかたくなになっていく。これが、教育によってIS(イスラム国)のテロリストを更生できない理由だろう。

自己欺瞞がやっかいなのは、知性の高いひとほどこの罠から逃れられなくなることだ。なぜなら、その恵まれた能力を駆使して、現実を否定し自分をダマすより巧妙なウソを(無意識のうちに)つくりあげるから。ヒトラーやスターリン、レーニンや毛沢東など、現代史にとてつもない災厄をもらたしたのはみなきわめて「賢い」ひとたちだった。

では次によい話を。

治安の悪化が問題になっているが、刑法犯の件数が戦後最少になった(2015年)ことからもわかるように、日本社会はどんどん安全になっている。多くのひとが懐かしむ「三丁目の夕日」の昭和30年代は人口あたりの殺人件数は現在の2~3倍で、残虐な少年犯罪も多かった。「常識」とは逆に、近年は若者の犯罪の減少が顕著で、世代別でもっとも犯罪者が増えているのは高齢者だ。

じつはこれは世界的な傾向で、治安の悪化が叫ばれる先進国はどこも犯罪が大きく減っている。ISによるテロが大問題になるのは、その残虐さももちろんだが、それ以外の危険がなくなったからでもある。

現代史を振り返れば、2度の世界大戦やロシア革命、文化大革命、ポルポトの大虐殺、旧ユーゴスラヴィア内戦などの凄惨な出来事がつづいた20世紀に比べて、冷戦終焉後は国家による大量殺人が大幅に減ったことは明らかだ。アフリカや中東に問題が集中するのは、それ以外の場所(アジアや中南米)で戦争や革命、暴力的クーデターが起きなくなったからでもある。

このことは、理性がまったく役に立たないわけでないことを示している。意識の本質が自己欺瞞だとしても、人類は幾多の悲惨な経験を通して、それを平和と繁栄になんとか役立ててきたのだ。

だとしたら、未来をいたずらに悲観することはない。共産主義者が夢見たようなユートピアは実現しないだろうが、そこそこゆたかでそこそこ暮らしやすい世の中ならじゅうぶん期待できるのだ。

そのためにも、私たちの認知=知性が進化のちからによってどのように偏向しているのかをちゃんと知っておく必要がある。現代の進化論が突きつける不愉快な真実は、歪んだ理性を暴走させないための安全装置なのだ。

2015年1月7日、フランスの風刺雑誌シャルリー・エブドの編集部がイスラーム過激派の武装集団に襲撃され、編集スタッフや警官など12名が犠牲になった。この事件を受けて、日本を代表するリベラルな新聞社は、「テロは言語道断だが下品な風刺画を載せた方も問題だ」として、「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と宣言した。

本書の企画を思いついたのは、この驚くべき主張を目にしたからだ。誰も不快にしない表現の自由なら北朝鮮にだってあるだろう。憲法に表現の自由が定められているのは、ひとが嫌がる言論を弾圧しようとした過去の反省によるものだと思っていたのだが、“リベラル”を自称するひとたちの考えはちがうらしい。

ちなみに私は、不愉快なものにこそ語るべき価値があると考えている。きれいごとをいうひとは、いくらでもいるのだから。

2016年3月 橘 玲