誰もが不道徳を知っているが、誰もそれを説明できない 週刊プレイボーイ連載(230)

人気バンドのボーカリストと女性タレントの不倫が話題になっていますが、見ず知らずの男女の浮気で被害を受けるひとなどどこにもいないのですから、なにがこれほどひとびとを興奮させるのか不思議です。ほめられたことではないとしても、もし知り合いが同じ状況なら「バレるようなことをしたのがマズかったね」と同情するか、「そこまでこじれたら元の鞘に戻るのは無理だから、弁護士に相談しなよ」とアドバイスする類の話でしょう。「既婚者の3割は浮気している」といわれるくらい、不倫はありふれた出来事なのです。

社会的な動物であるヒトは、噂を極度に気にするように進化してきました。いつもテレビで見ている芸能人を近しい存在のように錯覚するのも、自分を「被害者」と一体化して「加害者」に怒りをぶつけるのも人間の本性です。芸能人はこうした錯覚を利用して富と名声を得ているのだから、相応の代償を払うのは当然との意見もあるかもしれません。しかしそれでも、一般人の浮気には寛容で、芸能人が不倫すると社会的に抹殺するのではとうていフェアとはいえません。

「道徳」の特徴は、なにが不道徳かを知っていても、その理由を説明できないことです。ある心理学者が、「実の姉妹と避妊したうえでセックスすること」「捨てられていたアメリカ国旗でトイレ掃除をすること」「自動車事故で死んだ犬を飼い主が食べること」が道徳的かどうか訊いたところ、すべてのひとが「不道徳」と即答しました。しかしなぜそれをやってはいけないのか質問すると、説明できたひとは一人もいなかったのです。

こうした「不道徳な行為」に共通するのは、他人になんの迷惑もかけていないことです。しかしそれでも、ひとびとはそれが断罪されて当然だと考えます。だとしたらそこには、なんらかの人為的な基準があるはずです。

不道徳な行為に制裁を加えることはすべての社会に共通しますが、なにを不道徳とするかは文化によって異なります。宗教的な社会では、不倫は死によってあがなう大罪とされます。保守的な社会では、一夫一妻制を守るために不倫には民事上の罰を与えるべきだとするでしょう。しかし個人主義を徹底した社会は、誰を好きになるかは個人の自由で、トラブルは当事者間で解決すればいい(第三者には関係ない)と考えるかもしれません。道徳の基準が曖昧だからこそ、他者を断罪するのに自分以外の多くの人間の同調を必要とするのです。

一般に、道徳は宗教的なものから保守的(共同体的)な段階を経て個人主義的なものへと「進歩」していくとされます。だとしたら、「不倫は悪」という古い道徳に対抗するには、事実を素直に認めたうえで、「これは自分たちの問題だから自分たちで解決します」と個人主義の道徳でこたえればよかったのかもしれません。

とはいえ、退屈したひとたちが刺激を求めている社会では、これもどれほど効果があるかは疑問です。

他人を道徳的に攻撃すると、脳の快感を司る部位がはげしく活性化することがわかっています。道徳は最大の娯楽のひとつですが、それを認めるのは不都合なので、ひとびとは怒りによって自分の「不道徳」を正当化しようとするのです。

『週刊プレイボーイ』2016年2月15日発売号
禁・無断転載