「信仰」だけがなぜ特別扱いされるのか? 週刊プレイボーイ連載(181)

イスラームの創始者ムハンマドの風刺画をめぐって論争がつづいています。日本のメディアのあいだでも、「私はシャルリー」のカードを掲げて涙を流すムハンマドを描いた雑誌の表紙を掲載するかどうかで判断が分かれました。

掲載を控えたメディアは、「表現の自由は重要だが、紙面に載ればイスラーム信者が深く傷つく」などと説明しています。「他人の嫌がることはやらない方がいい」というのは一見わかりやすい理屈ですが、はたしてそれでいいのでしょうか。

日本には従軍慰安婦や南京大虐殺、靖国問題の報道で深く傷つき、激昂するひとがたくさんいます。それなら同じように、彼らの意に反する表現もすべて控えるべきだ――こんなことをいえば間違いなく袋叩きにあうでしょう。ジャーナリズムとは、権力や大衆の神経を逆なでしてもなお真実に迫る営為だとされているからです。

ではなぜ、ムスリムの気持ちには配慮し、愛国的な日本人の感情は踏みにじってもいいのでしょうか。

リベラルなひとたちは、彼らが歴史的事実を誤って解釈し、自分に都合のいい歴史観を振りかざしているからだというでしょう。その当否は別として、ここでいいたいのは、この論理には「(歴史認識とはちがい)神を信じるのは崇高な行為である」という暗黙の前提が隠されていることです。

しかし現実には、テロ行為を行なっているのはイスラームを名乗るグループで、彼らは自分たちこそがムハンマドの正統な後継者・カリフであると宣言しています。メディアには「テロリストとイスラームの教義にはなんの関係もない」との講釈があふれ、テロの原因は宗教ではなく「差別」と「貧困」だとされますが、恵まれない境遇にある多くのひとたちのなかで、なぜクルアーンのジハードに惹かれた若者だけがテロ組織に身を投じ、罪もないひとたちを殺戮するのか、納得のできる説明は聞いたことがありません。

誤解のないようにいっておくと、これは「イスラームが危険な宗教だ」ということではありません。旧約聖書では、神はユダヤの地に住む異教徒を殺しつくすよう命じています。中世の十字軍や魔女裁判からホロコーストに至るまで、キリスト教の歴史は血塗られています。

ひとが自らの行為を正当化するのは、正義が自分にあると信じるからです。絶対的な正義を与える神だけが、想像を絶するおぞましい行為を現実のものにすることができます。すなわち、すべての宗教が危険なのです。

日本でも、ムハンマドの風刺画を掲載した新聞社に対し、ムスリムの抗議行動が行なわれました。今回の事件は宗教というイデオロギーに対する風刺に端を発しているのですから、それを肯定するにせよ批判するにせよ、現物の風刺画を見なければ読者は判断のしようがありません。その意味で、「問題の判断材料を読者に提供する」との新聞社の判断は筋が通っています。

宗教だけが特権的に優遇されるのはその教えが「よきもの」だからではなく、信じているひとがものすごく多いからです。風刺画の掲載を自主規制したメディアは、要するに、面倒に巻き込まれるのがイヤだっただけです。

宗教の悪から目を背け、“善男善女”を傷つけることのない「よいこ新聞」のようなジャーナリズムでは、いま世界で起きていることを正しく伝えることはできないでしょう。

参考文献:リチャード・ドーキンス『神は妄想である』

『週刊プレイボーイ』2015年2月2日発売号
禁・無断転載

PS その後、風刺画を掲載し抗議を受けた新聞社が「イスラム教徒の方々を傷つけました。率直におわびいたします」との謝罪文を掲載しました。日本のマスメディアは、「私は傷つけられた」と文句をいうと表現の自由をあっさり放棄してくれるようです。