「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる

「いその」の表札がかかる古い日本家屋の前に真っ赤なランボルギーニ。法事に呼ばれた和尚が引き戸を開けると、34歳になったワカメが「二人ともすごいひさしぶりじゃない」と笑顔でお茶を運んでくる。「オトナグリコ」のテレビCMでは、25年後の磯野家が描かれている。

イクラちゃんはIT企業のCEOになり、タラちゃんはたこ焼きの屋台を引いている。カツオがなにをしているかはわからないが、野球バットを担いで法事に現れるのだから定職に就いているようには見えない。四半世紀を経て、磯野家にはサラリーマンはいなくなってしまった(ついでにいえば、30代になったカツオもワカメも独身のまま実家に暮らしている)。

『貧乏はお金持ち』(講談社)では一念発起したマスオさんがサラリーマン法人として独立する姿をシミュレーションしたが、やはり、この設定にはちょっと無理がある。サザエさん一家は、ずっとあのなつかしい家で暮らすのが似合っている。会社勤めをつづけていればマスオさんもそろそろ60歳で、リタイア後の年金生活が間近に迫っているはずだ。波平は、元気なら80歳の傘寿を迎えているだろう。フリーターやニートが高齢者とひとつ屋根の下に暮らす風景は、いまの時代を上手にとらえている。

日本国の税制や社会保障制度は会社に強く依存しており、国家はその莫大な財政赤字をサラリーマンにたかることによって埋め合わせている。財務省などが主張するように日本の所得税率は諸外国と比べて高いとはいえないが、その一方で年金や健康保険の保険料は際限なく上がっている。制度の破綻を免れようとすれば、取りやすいところから取るしかない。

この閉塞状況を打開する方法として公認会計士の安部忠が1995年に提唱したのがサラリーマン法人化(『税金ウソのような本当の話』〈講談社〉)で、ごくふつうのサラリーマンが制度のくびきから逃れる手段として注目を集めた。だがそれから10年以上たっても、外資系のコンサルティング会社などで社員の法人化を認める例があるだけで、全国に500万社のサラリーマン法人が誕生する気配はない。マスオさんのサラリーマン法人化は話としては面白いが、それはただの絵空事である。

何年か前の話だが、ある2代目社長の話を聞く機会を得た。オーナー経営の地方の建設会社で、彼は従業員の福利厚生のためにサラリーマン法人化の導入を試みていた。希望する社員は雇用契約から業務委託契約に変更できるが、仕事内容も含めそれ以外の条件はこれまでと変わらず、法人化のメリットだけを享受できるという有利な提案だったが、なんど説明しても1人の応募者もなかったという。

サラリーマンが独立を躊躇する最大の理由は、雇用の安定が失われるのを恐れるからだ。だが、家族経営の中小企業ではオーナーの意向がすべてで、労働基準法の条文が生活を守ってくれるわけではない。オーナーが待遇は変えないと約束し、隠れた人件費の顕在化と税・社会保障費の削減で収入が20パーセントちかく増えるなら悪い話ではないと思うのだが、それでもひとはまだ会社に所属することを選ぶのだ。

ひとは群れの中でしか生きられない動物だから、「どこにも所属していない」というのは根源的な不安である。心理学者のエーリッヒ・フロムは、これを「自由からの逃走」と呼んだ。中世の封建的束縛から解放された近代人は自己責任で行動する自由な個人を生み出したが、私たちはそれがもたらす孤独や無力感に耐えられず自由から逃げ出し、国家や民族といった権威に依存して自己同一性を確認しようとする。フロムはこれによってナチズムを説明したが、依存の対象が会社であっても同じことだ。

近代社会は、「自由」に至高の価値を見出すことによって成立した。だが私たちは、じつは心の底で自由を憎んでいる。社畜礼賛の風潮を見れば明らかなように、ひとはもともと自由になど生きたくないのである。

ひとびとはいま、自由な人生に背を向け、安定を求めて会社に束縛されることを求めている。自由の価値がこれほどまでに貶められた時代はない。

だがその一方で、会社はもはや社員の生活を保証することができなくなっている。”サラリーマン”は絶滅しつつある生き方であり、彼らの楽園は、いずれこの世から消えていくことになるだろう。

私はずっと、自由とは自らの手でつかみとるものだと考えていた。だがようやく、それが間違っていたことに気がついた。自由は、望んでもいないあなたのところに扉を押し破って強引にやってきて、外の世界へと連れ去るのである。

『貧乏はお金持ち』(講談社)2009年6月「あとがき」より