文庫版『バカが多いのには理由がある』発売のお知らせ

『バカが多いのには理由がある』が文庫になりました。出版社の許可を得て、「文庫版あとがき」をアップします。最近の「日本的雇用を変えよう」という大合唱について書いています。

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文庫化にあたって久しぶりにむかしの原稿を読み返してみて、「日本は変わってないなあ」というのが正直な感想です。

たとえば日本人の働き方。この原稿を書いている時点で、大手広告代理店に入社してわずか8カ月の女性社員がクリスマスの晩に投身自殺したことが大きな社会問題になり、長時間労働やサービス残業などの悪習が批判され、安倍首相は「「同一労働同一賃金を実現し、非正規という言葉をこの国から一掃する」と宣言しました。

でもこんなことは、すべてこの本に書いてあります。これは私に先見の明があると自慢しているわけではありません。日本的雇用がグローバルスタンダードからかけ離れた歪(いびつ)な制度で、それが日本の「風土病」ともいわれるうつ病や自殺の原因になっていることは1990年代から指摘されていました。日本社会は20年間も、バカのひとつ覚えのように同じことをつづけてきたのです。この国のエスタブリッシュメント(支配階級)である“超一流企業”が、未来のある優秀な若者を自殺するまで追い詰めるというグロテスクな悲劇は、ある意味必然だったのです。

しかしそれでも、希望がないわけではありません。

私はずっと「正社員/非正規社員は身分差別だ」といいつづけてきましたが、“良心的な”知識人から当然のごとく無視されてきました。保守派であるか、リベラル派であるかを問わず、彼らは「日本的雇用を守れ」と大合唱していたからです。

このひとたちによると、終身雇用・年功序列の雇用制度こそが日本人を幸福にしているのであり、雇用改革は日本社会を破壊する「ネオリベ(新自由主義者)」「グローバリスト」「アメリカ」「ウォール街」「ユダヤ人」の陰謀なのです。――そして不思議なことに、すでに1980年代から日本の会社で異常な数の過労死が起きていることには見向きもしませんでした。

しかし、「サラリーマンは会社に忠誠を誓って幸福に暮らしている」というのがたんなる神話であることは、いまでは明らかです。最近でも、従業員の会社への忠誠心を示す「従業員エンゲイジメント」指数が日本は先進国中もっとも低く、サラリーマンの3人に1人が「会社に反感を持っている」とか、日本人は「世界でもっとも自分の働く会社を信用していない」などの調査結果が続々と出てきています。

日本とアメリカの労働者を比較した大規模な意識調査では、90年代前半ですら、「いまの仕事は、入社時の希望と比較して合格点をつけますか」の質問に対して、合格点は米33.6%に対し日本はわずか5.2%にすぎません。否定にいたっては米の14.0%に対し、日本は62.5%にものぼります。常識に反して、サラリーマンはむかしから会社が大嫌いだったのです(小池和男『日本の産業社会の「神話」』日本経済新聞社)。

なぜこんなことになるかというと、日本的雇用では労働市場の流動性が極端に低いため、新卒で入った会社で40年以上も働きつづけることが“強制”されるからです(これにもっとも近い状況は長期の懲役刑でしょう)。自分の職業適性を正しく把握している大学生などほとんどいませんから、たまたま入った会社が「適職」である確率は宝くじに当たるようなものです。そう考えれば、会社に満足しているサラリーマンがいることの方が不思議です。

さらに困惑するのは、格差社会を「ネオリベの陰謀」だとして、非正規社員やニートの権利を守るために運動しているひとたちが、大企業の労働組合(もちろん正社員の既得権を守るための組織です)といっしょになって「日本的雇用は素晴らしい」と合唱していたことです。これでは奴隷制時代の黒人が、自分たちを差別する白人の農場主といっしょになって、「奴隷制度を守れ」と運動するようなものです。私にはこのひとたちの頭のなかがどうなっているのか想像もつきませんが、それはきっと私が“バカ”だからなのでしょう。

ところがこの数年で、ブラック企業が蔓延し、一流企業が「追い出し部屋」で中高年の社員をリストラしている実態が暴かれ、ILO(国際労働機関)など国際社会が日本的雇用を差別制度だと疑っていることがわかって、ようやくこのひとたちが黙りはじめました。そればかりか、いまでは「日本企業はけしからん」と叫んだりしています。まあ、“希望”といってもこの程度のものですが。

「日本的雇用は素晴らしい」と力説していたひとたちだけが間違っていたわけではありません。安倍政権の登場までは、「中央銀行がお金を供給すればインフレになって景気も回復する」として、日銀をデフレの元凶として批判し、リフレ政策に懐疑的な学者に罵詈雑言を浴びせるひとたちが跋扈(ばっこ)していました。しかし実際に彼らの主張のとおり日銀がやってみても、何年たってもまったく物価は上がりません。壮大な社会実験によって誰が正しいかははっきしましたが、“リフレ派”のひとたちが過ちを認めて謝罪した、などという話は聞いたことがありません。

しかしこれは、ぜんぜん不思議なことではありません。進化心理学の知見によれば、意識の役割は自己欺瞞と自己正当化だからです。それによると、そもそもひとは自分の過ちを認めないばかりか、自分が間違っていることすら気づかないように「(進化によって)設計」されています。そして話をよりややこしくするのは、知能が高いひとほど巧妙に自分を騙す能力を持っていることです。間違いを指摘されると、それを逆恨みし、なにかの陰謀のせいだと奇怪な理屈をひねりだすのはこれが理由です。

このことから、なぜ“バカ”が無限に増殖しているように見えるかがわかります。バカ=ファスト思考は人間の本性で、論理的・合理的なスロー思考にはもともと大きな制約が課せられています。そして日ごろ立派なことをいっているひとほど、自己欺瞞の罠から逃れられなくなってしまうのです。

しかしそれでも、絶望する必要はありません。私を含め、ひとはみんな“バカ”ですが、それでも日本社会はそこそこうまくやっているからです。シリアやイラクの惨状を見ればわかるように下を見れば切りがありませんが、稀代のポピュリストであるドナルド・トランプを大統領にしたアメリカや、移民排斥の右翼政党が政治の主導権を握りつつあるヨーロッパを例に挙げるまでもなく、見上げればすぐそこに天井があります。世界を見回せば、「日本人でよかった」というのが正直な感想ではないでしょうか。

その日本は、過労死するほど長時間労働しているのに労働生産性は先進国で最低で、ゆたかさの指標である1人あたりGDPではアジアのなかでもシンガポール、香港、マカオの後塵を拝し、いまや隣国の韓国にも抜かれそうです。男女平等ランキングは世界111位と「共産党独裁」の中国よりも下で、国連の「世界幸福度報告書」でも157カ国中53位と低迷しています。

しかしそれも、「日本的雇用」「日本的家庭」「日本的人生」の前近代的な価値観を変えようという努力によって、すこしずつ改善していくでしょう。――すくなくとも20年たって、ようやく問題の所在に気づいたのですから。

2016年12月 橘 玲

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