例によって、橋下大阪市長の「教育改革」構想について議論百出している。私は地雷原には近づかないことにしているし、それ以前に、小学生を留年させるとか、卒業式で起立させるとかの論争が、(どうでもいいとはいわないけれど)「教育問題」の本質だとはとうてい思えない。
そこで私見として、日本の公教育に関する雑感をつづってみる。
学校制度というのは、いうまでもなく、軍隊(常備軍)や監獄などとともに近代の発明だ。その目的は、子どものときから規律を植えつけることで、これまで好き勝手に暮らしていたひとびとを正しい工場労働者(や兵隊)に訓育することにある。
日本を含む先進諸国で教育の崩壊が起こるのは、ポスト産業社会では、子どもたちが工場労働者向けの教育システムに意味を見出せないからだ。
私たちの社会は、子どもたちに対して、「自分の思うように自由に生きるのが正しい」「権威におもねることなく自らの意思を貫け」という強いメッセージを送っている。それと同時に、「教師のいうことを聞け」とか、「校則に従え」とかいうのだから、これでは典型的なダブルバインドで、子どもたちは混乱するばかりだ。
こうした前提に立てば、教育の崩壊は時代の必然で、なにをしてもムダ、ということになる。私は半ばこの見解が正しいのではないかと思っているが、それではあまりに身も蓋もないので、もうすこし考えてみよう。
「中学受験」は、親、子ども、教師の三者にきわめて重い負担をかけている。
親の負担は、いうまでもなく塾のコストだ。個人指導の塾だと、年間に100万円以上かかるという。これはふつうのサラリーマン家庭にとってはきわめて重い経済的負担で、だから「二人目の子どもをあきらめる」という話にもなる。
子どもの負担は、受験のための勉強時間が放課後と休日に限られていることだ。学校が終わってから塾に行き、夜8時過ぎに帰宅して、あわただしく夕食を済ませたら深夜まで自習する、というのが典型的な受験小学生の生活だ。これを(最低でも)小学校5年生から2年間もやらなければならないのだから、そのストレスは相当なものだろう。
教師の負担は、クラスのなかで中学受験をする生徒が一定数を超えると、授業が成立しなくなることだ。中学受験を目指す子どもたちは、公立小学校のカリキュラムはとうのむかしに終えている。彼らにとって学校での授業は、無意味な時間をひたすら耐えることでしかない。クラスの子どもたちの半分ちかくが授業内容にまったく興味を示さないとすれば、どれほど練達の教師でもクラスを維持することは困難だろう。
これらの問題に対して、これまで世の教育評論家たちは「受験が悪い」と批判してきた。たしかに中学受験がなければこうした問題は起こらないかもしれないが、都合の悪い現実から目を背けたからといってなんの解決にもならないのも確かだ。
中学受験という現実を前提とするならば、もっともシンプルで効果的な方法が、学校と塾を一体化させることなのは明らかだ。
公立学校に塾が組み込まれれば、親は高い塾代を払う必要はなくなる(あるいは経済的負担が大幅に軽減される)。教育機会による経済格差の固定化が問題になっているが、公立小学校が進学塾を兼ねれば、賢いけれども貧しい家の子どもが偏差値の高い学校への受験機会を失うこともなくなるだろう。
さらには、子どもが学校で受験勉強をするようになれば、放課後や休日には家族や友達と過ごすことができる。教師にとっても、公立中学へ進む子どもと受験する子どもを分けてしまえば、授業ははるかにやりやすくなるにちがいない。
私は、これが理想の教育だと主張するつもりはない。だが現在の「教育崩壊」と比べれば、公立小学校と塾の一体化によって、親、子ども、教師の厚生が大きく改善されることは間違いないだろう。
次に、小学生の子どものいる親がなぜ中学受験を選択せざるを得ないのかを考えてみよう。
ほとんどのひとが、「よい大学に入るために子どものときから受験勉強をさせている」と思っているようだが、実際にはこうした親はごく一部だ。大半の親(とりわけ女の子の親)は、公立中学校の「治安」が不安だから、子どもを私立に入れざるを得ないと考えている。
これは何度か書いたけれど、私が十数年前に子どもの中学受験を体験したときは、学習塾の指導員は、「最底辺の私立中学でも公立中学よりはるかにマシです」と説明していた。そのときに知り合った親はみんなサラリーマンで、子どもを公立中学に進ませるつもりだったが、学級崩壊の噂を聞くにつれて「私立に入れるしかない」と“転向”したひとたちばかりだった。
それではなぜ、公立中学の治安はかんたんに崩壊してしまうのだろうか。
これは、公立中学に“暴力装置”がないからだ。誰だって警察のない社会を想像できないだろうが、公立中学はまさに(警察という)暴力装置のない無法地帯そのものだ。
もちろん私は、「公立中学に警察官を常駐させろ」というような主張をしたいのではない。
私立学校で暴行事件やいじめによる自殺が起こらないのは、教師から事務員に至るまで、職員全員が「評判を守る」という強いインセンティブを持っているからだ。校内暴力が頻発したり、つぎつぎと生徒が自殺してしまうような学校に、子どもを入学させる親はいない。「評判」を失ってしまうと、私立学校は倒産してみんなが職を失ってしまうのだ。
学校の治安を維持するには、問題のある生徒を排除するのがもっとも効果的だ。そのための“暴力装置”が退学だ。
名門とされる女子校では、1回の喫煙でも退学処分が下されるという。中学生になれば人生の損得は計算できるから、生徒たちは退学という“暴力”を避けるために自制するようになる。こうした威嚇効果によって、私立学校の治安は保たれている。
ところが公立中学では、そもそも退学という処分は存在しないことになっている。そうなれば生徒たちは、警察沙汰になるようなことでもないかぎり、なにをやっても自由だと考えるだろう。これで学校の治安が保たれているのなら、そのほうが奇跡だ。
最近では公立中学でも問題生徒を警察に引き渡すようだが、そんな深刻な事態になる前に、公立中学にも退学処分権を認めることで、いじめ自殺のような悲惨な事件を大きく減らすことができるだろう。
退学になった生徒は、通信教育で義務教育を終えるか、特殊な私立学校(戸塚ヨットスクールのようなところ)に転校する。これなら、問題行動を起こしたときの損失の大きさが生徒本人にも親にもはっきりと認識されるから、公立中学の治安は大きく改善するにちがいない。
この国の教育に関する議論は、すべて「子どもは善だ」というドグマから出発する。「大人も子どもも同じ人間だ」と考えれば、大人の社会を維持している仕組みが学校にも必要だという、当たり前のことに気がつくだろう。


橘氏の教育論への提言内容に感激しています!よくぞ公言して下さいました。
さらなる議論の展開(コメント)に期待しています。
ああ~、久しぶりに橘さんの新刊が読みたいです。
この前、「世界一幸福な国デンマークの暮らし方」という本を公立図書館で借りて読みました。
リバタリアニズムとしては、とてもじゃないけど相容れない考え方が多数書かれていましたが、教育の在り方については「なるほどな」と思える部分がありました。
私自身は最高学歴を取得してしまいましたが、
個人的には「高校の履修課程には、世の中生きていくうえで必要なものは殆どない(クイズ番組に勝ち残りたかったら、漢字の読み書きと歴史の勉強は必要だけど)」と考えているので、
●「世の中生きていくうえでさほど困らない知識さえ得られれば、あとは専門的知識や技術をみにつけまーす」派
●「得意な分野ややりたいことがないので、とりあえず学力つけていきまーす」派
に分かれていけば、世の中ムダがないのになぁ……
と思います。
ただ、こういうことは統一見解が得られにくいので、「権力者が無理やりにでも」ゴリゴリ押し進めないと、達成できないでしょうね。
特に、日本人は「みんなと同じ」を好む傾向があるように思えるので、「高校中退」を不必要に蔑む国民性では、難しい気がします……。
>さらなる議論の展開(コメント)に期待しています。
でもさ、オレなんか
『教育の崩壊は時代の必然で、なにをしてもムダ』
圧倒的にこの部分に美しさを感じてしまうわ。
あとさ、twitterで「裁判所なう」って書いてて面白かったわ。
「なう」って使うんだなぁと思って。
橘さんがtwitterを始めたことで、すこしだけプライベートなことにも触れられており、ファンにとってはうれしい限りですが、新刊の方も期待しているので、宜しくお願いします。
通信教育で義務教育を終えることが可能なら、そもそも学校そのものが要らなくなるのではないでしょうか?
誰もが好きで学校に通う訳ではありませんし、通ったところで教師に質問なんてしていません。
ただ授業を聞いて、テストに臨むだけです。
であるならば、学校に通う意味とは何なのでしょう?
毎日学校に通って、尊敬に値しないような人間から偉そうな授業を受ける意義は?
今はインターネットがあるのですから、通信教育という選択肢は、全ての子供に与えられるべき権利であると私は考えます。
なんでも遺伝子で決まっちゃうなんて言ってる人が何故教育について語りだすのか?というツッコミで煽ってみるテスト
>であるならば、学校に通う意味とは何なのでしょう?
>毎日学校に通って、尊敬に値しないような人間から偉そうな授業を受ける意義は?
学校の社会的意義は橘さんの言っているとおり「社会の歯車」の養成です。
”子どものときから規律を植えつけることで、これまで好き勝手に暮らしていたひとびとを正しい工場労働者(や兵隊)に訓育することにある。”
大検でいくらよい点を取ったからといって、高校中退者が採用面接にきたとして高卒者とおなじ扱いをされると思いですか?社会性に問題ありと思われるだけです。
橘さんの言うように、学校も社会の縮図である以上、表もあれば裏もあります。
ただし、ネガティブな面を避ける目的で私立学校に避難するというのは、社会に
出たときにネガティブな面に出くわしたときに、はたしてうまくやっていけるのでしょうか。
お考えに賛成です。いいお話いつもありがとうございます。
どの立場によるかですね!
親御さんの方は真剣ですよね。地方ならまだ「公立」崩壊していませんよ。
お金と愛情が必須です。価値観もしっかりと教育しないといけません。
「親の背中」では育ちません。創造的な教育観が必要です。
見返りを求めることも禁物ですね。現場の実態、教育論議は尽きません。
「ゆとり教育」も失敗したし、「敗戦」後の日本教育はめちゃくちゃになりました。
成熟社会には対応していません。
自分は落ちこぼれでした。
それでも、遅い子に合わせる“護送船団方式”に救われていたんだなと感じます。
優秀な子には無駄な時間を過ごしてほしくないです。
統一規格の兵士で終わって欲しくない、
どこかに所属することが目標で終わって欲しくない。
橋本氏の教育改革については、誰も正しいとも誤ってるとも言えないんじゃないでしょうか。
都道府県で方針を大きく打ち出し、競争することは良いことだと思います。
正解なんてものは、グローバルな超競争社会になる中で劇的に変化していくはずです。
それに柔軟に適応していくには競争しかないのでは
「ハシズム」は危険がいっぱい。何も変わらないと思いますが。
競争して「ゆとり教育」が生まれ、また変わる。
「教育は百年の計」という意味がよくわかるようになりました。
現場はヒラメ人間もいれば、熱心な人もいれば・・・そうでない人も。
モンペアのもとでは、子供は世の中を否定的に見るようになります。
東大に入るためには塾(お金)は不可欠なのが現実です。
ただし、学歴=収入につながらない成熟社会も現実です。
子供がいる方はともに価値観を共有することが大切です。
親としては子供の成長を阻害されるばかりか、いじめで痛めつけられる危険もある学校教育に子供を委ねることなどできないと考えてももっともです。
しかしこのような問題には非常に有効な対策があるのです。
それは教育バウチャーです。塾やスポーツクラブにも使える教育バウチャーを発行し、子供を塾やスポーツクラブに行かせるか学校教育を受けさせるかを選べるようにすればよいのです。選択できることによって能力の高い子供はさらにその能力を高めることができる環境で学習することができますし、いじめの発生する環境から逃げることもできるようになります。
日本は寺子屋の伝統に始まり、学習塾など民間の教育機関は外国と比べて非常に発達しています。教育バウチャーは今すぐにでも実施するべきなのです。
塾と学校を統合する。口で言うのは簡単ですが、出来るとは思えません。
塾と学校は全然性質が違うものだからです。
塾に勤めている知り合いと話していて感じるのは、
塾はあくまで営利機関でしかない、ということです。
大多数の塾生は、お金をむしりとるためのお客様です。
教育をするのは、単に、効率よく受験させるためです。実績をあげないと人が来ないから。
だから、見込みのある生徒が集まっている上位のクラスにはいい先生をつけます。
塾産業が発展してきたのは儲かるからです。
塾が学校より効率がいいのは当たり前で、
学校に備わっている機能、しかも手間がかかり数字にあらわれにくい類の機能を
全て担っていないからです。
学校と一体化させたら、どうやって塾を儲けさせるのでしょうか?
塾に公的な費用を多量に注ぎ込むってことでしょうか?
でも、そうしたら塾同士の競争ってなくまりますよね。
だって、学校にくっついていれば自動的に儲かるんだから。
結局、塾の学校化にしかならないような気がするのですが。
今年の春から、教育業界に務めることになる者です。
『子供は善』というドグマから、今の教育体系があるという問題、分かりましたし、非常に納得できました。
ですので、さらに一歩踏み込んで答えていただけると嬉しいです。
橘さんの論議を展開すると、『悪を排除する仕組み』が公立学校には必要とのことですが、具体的にそれが推進できるのか、また推進できるなら、どうやって、などとスキームレベルまでおっしゃっていただけませんでしょうか?
また、最初の部分で仰っていた『塾と学校を一体化させるという案。』
その際に発生する費用などの問題については、どのようにお考えなのでしょうか?
高校と大学がゼロになれば、国民が受験にかけるコストが大幅に減ると思います。
教育民営化の話はいつも学校教育関係者から反発を受けます。
彼らの主張は学校教育は大変だからもっと公費を支出すべきというだけで、何の工夫もありません。
学校教育の塾とは違う機能ってなんでしょうか?空気を読ませる機能でしょうか?これからの時代にそんな教育はいらないのです。
くもん式の月謝なんて別に高くありません。教師をクビにして、その分を教育バウチャーに回せば費用など何ともありません。
>私は地雷原には近づかないことにしているし、
またまたご冗談を…
と感じましたが、橘様はどちらかというと読者の頭の中へ爆弾を放り込んでいくタイプだよなと思って納得してしまいました。
「子供は善だ」という幻想が公教育を歪な姿にしているというのは全く同感です。
それに加えて
「みんなやれば出来る子だ」
「取り柄の無い子なんていない」
「人間は生まれながらに平等だ」
「結果よりも過程が大事」
「話し合えばどんな人とも分かり合える」
などの「綺麗な嘘」を前提にして学校が運営されている(というように私は感じる)のも問題ですね。
親も子供も教員も、これらの嘘を信じ込むと最終的には幸せにはなれないですから。
学校とは人間が現代社会に適応するための準備運動をするところ、と考えれば、相手が幼かろうが世の中の成り立ちやルールを裏も表もきちんと教えてやるのが子供と社会のためだと私は考えています。
現実がどれほどグロテスクであろうと、「教育に悪いから」と隠し通すのはマイナスにしかならないと思いますね。
橋下さんの留年問題は話題になりましたが、
あれってもともとは「落ちこぼれを見捨てるのか?」という問いに対しての一つの答えだったと思うんですけど・・・
「そこまでしてでも面倒見ます」っていう意味であって、ほんとに留年をやろうとか思ってないと思いますよ。
私は社会人になってからいろんなことを学び、学校で教わってきたことがどれだけ間違っていたかに気付きました。いわゆる「ゆとり世代」と言われている人たちも同じような気持ちなのでは。
自分の息子に対しては一人でしっかりと生きていく知恵、知識、を身につけて欲しいモンだと考えます。そうすれば周りの人たちにもしっかりと幸せを分け与えていけるだろうし。でも人それぞれの価値観を育て上げるのが教育なのかもしれませんね。
私は、塾にいかずに中高一貫の私立、地方の旧帝国大学という
学歴で、学生時代は塾講師バイトで結構おいしい生活してました。
中堅レベルの中学受験なんて簡単です。
塾になんて行かなくても余裕ですよ。
子供に問題集やらせて、帰宅後に少し教えれば十分
それで安全買えます。
わざわざ塾に行くなんて、もう見込みないですよ。
幼児期の、どうして?に応えなかった報いです。
頭が悪いのに見栄を張りたがるお母さんのせいです。
だから、そんなの放置で結構。税金を浪費しないでほしい。
どうして、子供だけで競争させるのでしょうか?
>どうして、子供だけで競争させるのでしょうか?
国家にとって有為とみなされる一部の若者にだけ
税金を集中的につぎ込むのが、大学というシステムだからだと思いますが。
>高校と大学がゼロになれば、国民が受験にかけるコストが大幅に減ると思います。
入試問題が「考える力」を反映していないという批判はあっても
考える力のある若者を優遇するシステムに対する反対意見はほとんど無いと思います。
ひとところの子供だけでしか競争させていないままだと、社会資本が限定されたままになると思います。
ろくすっぽ仕事をしない人間を解雇できず、ずっと家賃を払わない輩を追い出せない社会であるから、公立学校では退学もさせられないのだろうか。
二条城工事の時、仕事をさぼっていた助平を信長は切り殺したが、信長軍常駐時の京都は平和だったという。秩序を維持するためには強硬策も時に必要だろう。
義務教育が当たり前で育ってきているので、橘さんの「近代の発明」という言葉にドキっとした41歳です。学校に行かせなくても立派に育てる自信と、友人・恩師が要らなければこの春から6歳の娘を、「現状の公学校」には行かせないかもしれません。でも、求めすぎればモンスターペアレンツと呼ばれそうです。学校任せにする気は毛頭ないのですが、どうか、いい環境であることを期待して、公教育を信じています。
学校って、社会の疑似体験なんじゃないかな。
学力なんて、塾に行かないといけない段階で大したこと無いよ。
学校と塾を一体化しても、差別化したい人が別の塾をつくるだけでしょ?
塾なんて、不安感を煽る商売化した塾産業に載せられてるだけだよ。
地方は公立がまともで、私立が崩壊している。
橘さんの理屈は全く通っていない。
まあ、塾→いい大学→大企業 が幸せじゃないことに、みんなが気づき始めてるから、
そのうち、無駄な塾通いはなくなるかも。でも、塾って、前述したように、
不安感を煽るという、強力な武器があるから、無くならないだろうなぁ。
学校がなければ、学校が無いのが当たり前になるでしょう。
扶養義務がなければ、子供を社会が育てることが当たり前になるでしょう。
子供の能力が遺伝的にかなりの部分が決まっているとしても、子供にある程度の仕込みを行うこと(=社会として投資することは)は、payするんだと思います。
そのある程度のレベルが、現状では、できる子には低すぎるということと、習熟度別にするにはかなり細かくする必要があるでしょうが、1校あたりの生徒数が少なくなっているのが問題かな。
塾は確かにインセンティブが働きますが、ウリになる一番上(近辺)のクラスに入れなければあまり意味がないというのが実際のところのようです。
「みんなやれば出来る子だ」
「取り柄の無い子なんていない」
「人間は生まれながらに平等だ」
「結果よりも過程が大事」
「話し合えばどんな人とも分かり合える」
孫さんあたり、これを信じて成功したと思うんだけどね。この反対を学校で教えろというなら、誰も学校なんていかないだろうな。
労働および教育を受けさせる/教育を受けるおよび余暇利用のインセンティブは、金銭と時間の代替効果を考慮した場合、どこまでトレードが可能なのでしょうか。
このトレードの境界条件は、そのまま成年と未成年の境界条件になると思います。
学校教育が良いと言う人良くないと言う人いろいろですね。
だったら良いと思う人が学校教育を受け、良くないと思う人は塾で教育を受けることができるようにすればいいはずです。学校教育でいじめの被害にあう人もいるんだから、教育環境を選択できるように教育バウチャーを導入するべきです。
私は教育バウチャーは実現すると思っています。もうすぐ国債が暴落して金融危機が起きます。インフレで教師の給与水準は生活困難なレベルに落ちます。教師は銀行に並ばなければならないので授業は自習になります。子供の教育が心配な親は学校に行かせる代わりに塾に行かせることになるでしょう。自信のある教師は自分で塾を始めます。やがて行政がそれを追認する形で教育バウチャーは実現するでしょう。
教育を受けるインセンティブと労働インセンティブのバランスをとって、社会資本を利用しながら、教育環境か職場のどちらかを選ぶことになるでしょう。
>ひとところの子供だけでしか競争させていないままだと、社会資本が限定されたままになると思います。
橋下改革前の大阪なんて、まさにそうですよね。
教師が9条教の不況や組合活動にご執心で、勉強できる子は勝手に塾で学び
その他の子は放置。
橋下支配下ではこうした問題は改善されるし、私の考えであれば税金の無駄が減ります。
どっちに転んでも悪くないと思いますが。
>孫さんあたり、これを信じて成功したと思うんだけどね。この反対を学校で教えろというなら、誰も学校なんていかないだろうな。
それって、学校は嘘を教える所だということですか?
例えば、「話し合えばどんな人とも分かり合える」ですが、
荒れた男子中学生に向かってで女子中学生がそれやったら、
男子の自宅に呼ばれ、話し合いのつもりで行ったら、あれこれされて
その模様を撮影され、画像をばらまくと脅されて泣き寝入りだと思います。
学校ではちゃんと現実を教えるべきという考えもあります。
そうした大まかな教育方針を決めるのは保護者の総意に基づくべき、という橋下案に
私は賛成します。
橋本改革で、大人になれる子ども、ルールを作れる生き方ができる人間は発生できるでしょうか?
橘さんの考えにほぼ賛成です。人間の能力の大枠は遺伝で決定していると思うのですが、やはり学習や努力もしないままでは無知無能のままなので何らかの教育機関は必要だと思います。時代に適応した公教育を望む立場です。
根底的なところでは否定するつもりはありませんが、どうも考察が浅薄な印象です。
その点、内田樹さんは、まあ専門家なのでしょうが、相応に説得力があります。
「学校と塾を合体させよ」
は何か他意があるのでしょうが、無いのだとすれば噴飯物です。
日本の子供が勉強したがらないのは、なんだかんだ言って「飯が喰える」からです。ニートであろうが、フリーターであろうが、家事手伝いであろうが、屋根のあるところで寝ることができます。とりあえず明日食べるものが無いという人は殆どいません。
お国が違えば、餓死児童など日常茶飯事。ひもじく、危険で、希望の無い現状から抜け出すためには、悪事に手を染めるか、歯を食いしばって勉強するか、しか無いのです。
鉛筆が欲しい、ノートが欲しい、学校に行きたい。それが世界の趨勢です。
勉強なんて「かったるい」などと言っていても、おマンマにありつける日本人はある意味特殊な存在です。グローバリゼーションの進む地球において、旧世代の発想で教育を夢想していたのでは日本は凋落の一途です。
間もなく日本中に「スラム街」が現れ、街角で行き倒れる人が続出するでしょう。
内田先生の本は私も読みましたが
分析力は優れているものの、提案はお粗末です。
例えば、内田先生は「子供の親や地域の大人たちが、先生を無条件で尊敬を受ける存在にすべき」と
提案し、そうなれば、勉強の意味すら分からない子供が損得勘定で勉強を忌避する風潮を
変えることができると言っておられますが、それこそ噴飯物です。
地方国立大の教員養成学部卒程度では、勉強が得意なわけでもなく、
単に、そこそこ良い子として育ち、子ども好きなだけの人々を
無条件で尊敬するって、ありえないですよ。
戦前は、24の瞳の大石先生のような新米でも尊敬されてたと言ってますが
それは現代以上の学歴社会だったからです。
(大石先生は当時エリートの高等女学校卒。親たちは尋常卒または高等小学校卒)
学歴社会なんて復活させたら、それこそ内田信者は反発するだろうに、なんという矛盾でしょうか。
教育についてこれだけ議論があがるということは、それぞれがそこにそれだけの問題意識をもっているということで、向かっているのはプラスの方向でしょう。
戦前はいま以上の学歴社会であり新米教師でも尊敬が得られた状況が今日のように変化した現状は、目指した結果が得られたということであり、底上げがなされたということですよね?
底上げがなされたことにより教師と生徒におけるキョリ感がなくなり尊敬が得られなくなったのであれば、今度は教師側に頑張ってもらいたいところです。
しかし、教師という職業の職務的な魅力はあるもののそのほかの面で見劣りしているのか、現状では教師になっている人たちが各世代においてそれほど突出して優れていたという人物であったかということについては、個人的にはそうでないという感想です。
「大学卒業してすぐ”先生”ですか」というのが大方の意見だし・・・
みなさんわかっていることで、もうこれ以上書きませんが、私が中学生か高校生くらいの時に学校の先生とは全く別のことをしゃべる橘先生がそこにいたなら楽しかっただろうなと思います。(私の学校生活は楽しかったですが、さらにという意味で)
教育は百年の計ということでしょう。
宗教となると違和感を感じるかもしれませんが、教育には必要です。
儒教にしろ、大乗仏教にせよ、行きつくところはそこなのかと考えてしまいます。
カルトは別ですが、あっさりだまされるあたりは教育力の微力なこと。
体罰も必要でしたね。
教育できない親が根本にあります。
成熟社会においてはマニュアルは存在しませんからね。
扶養義務がなければ、教育できない親がいてもいいと思います。
経済的合理性を説く橘さんが、教育の問題になると、現状の教育機関の枠を出来れないのはなぜか。
現状の義務教育・高校大学の流れは変えられないのか。
それこそ、戦後66年変わらないことに疑問はないのか。
社会の流れの変化に、教育が落ちこぼれている。
<それこそ、戦後66年変わらないことに疑問はないのか。
社会の流れの変化に、教育が落ちこぼれている.
鋭い指摘!
私曰く、社会の流れに融合している
誘導されている
愚民化されている
既得権益に勝るものはなく、それに融合していることが一番の幸せになってきているように思います。
なんで話をややこしくするのかね?
教育完全民営化で済む話だろうが。