「生活保護で貧困はなくならない」と賢者はいった 週刊プレイボーイ連載(30)

生活保護の受給者が200万人を超えて、戦後の混乱期(1950年)に制度が創設されて以来の最多水準に達しています。生活保護にかかる経費は3兆4000億円を超え、自治体の負担も大きく、このままでは制度自体が崩壊してしまいます。

「自力では生きていけない貧しいひとたち」をいかに救済するかは、どこの国でももっとも議論を呼ぶ問題ですが、ここではノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスの意見を紹介しましょう。

バングラデシュの経済学者ユヌスは、“貧者の銀行”と呼ばれるグラミン銀行を創設し、貧困の改善に大きな功績を残しました。バングラデシュは世界でもっとも貧しい国のひとつで、旱魃や洪水などの自然災害が起きると何十万人ものひとが餓死してしまいます。国民の半分は読み書きができず、一人あたりGDPは約700ドルで、日本の65分の1程度しかありません。

ユヌスはこの絶望的な貧困とたたかうために、マイクロクレジットという独創的な融資制度を考案しました。そのポイントは以下の2つです。

1)事業資金を与えるのではなく、利息(年利10~20パーセント)を取って貸し付ける。

2)借り手を5人ひと組にして、連帯責任で返済させる。

驚くべきことに、これまでの援助の常識に反するこの仕組みは、98パーセントの返済率でビジネスとして成立しただけでなく、融資を受けて自営業を始めた借り手たちの生活を大きく改善していったのです。

マイクロクレジットが成功した理由を、ユヌスは明解に説明します。

グラミン銀行の主な顧客は、男尊女卑の伝統的な文化のなかで人間性を奪われていた農村の女性たちです。その境遇がかわいそうだからといって施しを与えても、相手の尊厳を踏みにじるだけで、収入を得ようとする意欲は湧きません。グラミンの顧客たちは、「働いて稼いだお金から返済する」ことで、生まれてはじめて自尊心を得るのです。

そんな彼女たちにとっていちばんの悩みは、夫がお金を取り上げてしまうことです。バングラデシュの文化では、妻のお金は夫のものとされ、家族のなかにだれひとり味方はいません。

しかしこれは、連帯責任を負う「5人組」にとっては大問題です。1人が返済できなくなれば残りの4人が引き受けるしかないのですから、彼女たちは夫に対して猛然と抗議するでしょう。連帯責任は相互監視だけでなく、孤立していた女性たちの助け合いをも可能にしたのです。

ユヌスは、「先進国でも途上国でも貧困は同じだ」といいます。シカゴのスラムでユヌスが見たのは、生活保護に依存して自尊心を失い、家族や友人もなく社会的に孤立した、バングラデシュとまったく同じひとたちでした。援助によって途上国の貧困が改善できなかったように、生活保護で都市の貧困がなくならないのも当然のことなのです。

こうしてユヌスは、先進国の政策担当者にマイクロクレジットを導入するよう提言します。

世界の偉人のなかで、でユヌスほど貧困について真剣に考え、実践した人物はいないでしょう。しかし不思議なことに、日本も含め、ユヌスの言葉に耳を傾ける「ゆたかな国」はどこにもないのです。

参考文献:ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ『ムハマド・ユユス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家』

 『週刊プレイボーイ』2011年12月5日発売号
禁・無断転載

書評:東浩紀『一般意志2.0』

話題になっている東浩紀『一般意志2.0』をとても興味深く読んだので、その感想を書いておきたい。

本書のいちばんの美点は、きわめて平易かつ明晰に書かれていることだ。私のような哲学の専門外の者でも、著者の思考の航跡を正確に追っていくことができる。

すでのたくさんのレビューが出ているが、東氏はここで、「複雑になりすぎた現代社会では、ひとびとが集まって熟議によってものごとを決める理想的な民主主義はとうのむかしに不可能になった」と指摘したうえで、そのことを前提として、熟議なしでも機能するアップデートされた政治制度(民主主義2.0)や国家(統治2.0)の可能性を論じている。

本書についての議論は、東氏が「ツイッター民主主義」と名づけたような、SSNを組み込んだ政治制度(アーキテクチャ)がほんとうに機能するのか、ということに集まるのだろう。だが私にとって本書のもっとも美しい場面は、東氏の語る「夢」が、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』と出会う瞬間だった。

ノージックの本は“リバタリアニズムの古典”とされているが、それが「夢」について書かれたものであることはあまり言及されることがない。

東氏が簡潔に説明しているように、ノージックはここで、「ユートピアのためのフレームワーク」を構想している。

近代というのは、地縁・血縁の伝統的な共同体を離れ、一人ひとりが「自立した個人」として生きることを余儀なくされた時代のことだ。しかしその一方で、ひとは社会的な動物であり、だれもがなんらかの共同体(コミュニティ)に属さなければ生きていくことができない(ひとは一人では生きていけない)。共同体は構成員を拘束し、自由を奪うが、その代わりに安全や帰属意識(アイデンティティ)といった大切なものを与えてもくれるのだ。

だからノージックは、共同体を否定するのではなく、いかにしたら個人の自由と共同体の掟が共存できるかを考えた。

ノージックが国家を否定したのは、それが共同体としては大きすぎ、構成員(国民)を過剰に拘束するからだ。多様な価値観を持つ国民を国家というひとつの器に収めようとすれば、かなりの無理を強いなければならず、それに抵抗するひとたちは排除されてしまう。

そこでノージックは、国家は共同体ではなく、たんなるフレームワーク(枠組)であるべきだと考えた。その枠組は、基本的人権や私的所有権の保護などの基本ルール(憲法)と、外交や治安維持のような最低限の安全保障(暴力の独占)でつくられていて、それ以外の価値観に対しては中立だ。

ひとびとはこの枠組のなかで、宗教的・政治的・文化的な共同体を自由につくることができる。だがそこには、ひとつ大事な原則がある。どのような共同体も、本人の意思で自由に退出できることだ。

この約束事さえ守られていれば、ひとびとは最小国家(フレームワーク)のなかで、さまざまなユートピアを試してみることが許されている。ノージックは、「ユートピアの自由市場」を構想したのだ。

私は十数年前にノージックの本をはじめて読んだとき、この“ユートピア思想”に大きな衝撃を受けた。マルクス主義の「夢」が無残に潰えた後、ノージックの語る「フレームワークとしての国家」だけが、実現可能なユートピアへの道を指し示していると思えたからだ。

しかし残念なことに、この国ではノージックの「夢」はほとんど理解されず、「ネオリベ(新自由主義)」や「ネオコン(新保守主義)」や「グローバリズム」という言葉とともに、リバタリアニズムは弱肉強食の世界における強者の論理として、“国家の品格”を汚す唾棄すべき思想として打ち捨てられてしまった。

『一般意志2.0』において、若いひとたちに大きな影響力を持つ思想家が、リバタリアニズムの「夢」をゴミ箱の底から拾い出し、自らの「夢」と接続して、その大きな(あるいは荒唐無稽な)可能性を正当に評価してくれた。

この魅力的な本を読みながら、ユートピア(夢)にこころを震わせたむかしの自分をひさしぶりに思い出した。そんな体験をさせてくれたことを感謝したい。

ハルマゲドンがやってきたら 週刊プレイボーイ連載(29)

ユーロ危機をきっかけに、「日本もいずれギリシアのようになる」と騒がれるようになりました。

“日本国破産”論は、バブル崩壊で地価と株価が暴落し、不良債権問題の深刻さが暴かれはじめた1992年頃から断続的につづいていたもので、大手金融機関がつぎつぎと破綻した97年の金融危機をきっかけに、2003年国家破産説、2010年中流崩壊説など、さまざまな“警告”本が出版されました。

この問題の難しいところは、過去の予言が外れたからといって、将来も起こらないとはいいきれないことです。いまやだれもが気づいているように、執拗に国家破産が語られるのは、日本国の財政に構造的な欠陥があるからなのです。

国と地方を合わせた日本国の累積債務は、2000年には500兆円あまりでしたが、それがいまでは1000兆円を超えようとしています。これは冷静に考えても背筋が凍るような状況で、国家が無限に借金できないことは明らかですから、このまま債務が膨らんでいけばいつか必ず破綻します。

1999年のユーロ誕生の時から、通貨だけを共通にして、各国が自由に国債を発行する仕組みはいずれ行き詰まると、経済学者は指摘していました。ヨーロッパ市場が拡大し、「ユーロはドルに代わる基軸通貨になる」といわれた頃は、だれもこの警告を気にしませんでしたが、わずか10年あまりで「予告された危機」はやってきました。構造的な問題は、現実化するのです。

日本国の財政が破綻したらどうなるかについてのシミュレーションはすでにいくつもありますが、いずれにせよ大きな経済的混乱が起こることは避けられません。しかしこれは、戦争や内乱のようにすべての国民の運命を翻弄するわけではなく、世代によってその影響にはかなりの差があります。

もっとも甚大な被害を受けるのは年金生活の高齢者です。70歳を過ぎれば働いてお金を稼ぐことはほぼ不可能ですから、年金制度が破綻して受給額が大幅に減額されたら生きていけません。家賃が払えなくなったり、老人福祉施設に入るお金がなければ、あとは路上生活が待っているだけです。

これはとてつもない恐怖ですから、高齢者はなんとしても、自分が生きているあいだは現在の制度を維持するよう求めます。負担が将来世代に先送りされたとしても、彼らにとってはどうでもいいことです。

それに対して若い世代は、仮に職を失ったとしてもいくらでもやり直しがききますから、どうせならいますぐ破綻してほしいと考えるでしょう。年金にせよ医療保険にせよ、納めた保険料はとうてい取り戻せないのですから、もっとも経済合理的なのは、一刻も早く制度そのものをリセットさせることです。

このように財政破綻において、若者と高齢者の利害は真っ向から対立します。

高齢者と若者がどちらも経済合理的に行動したとしても、高齢者の政治力が圧倒的に強い以上、結果は明らかです。しかし皮肉なことに、それによって国家の借金は膨らみつづけ、来るべき“ハルマゲドン”の規模はより大きくなってしまうのです。

 『週刊プレイボーイ』2011年11月28日発売号
禁・無断転載