38年目の亡霊 奥崎謙三と戦争責任 (『(日本人)』未公開原稿1)

海外出張中なので、新刊『(日本人)』から、最終稿で削った部分をアップします。

奥崎謙三「ゆきゆきて進軍」のエピソードは、戦争責任と原発事故責任の対比で使おうと思ったのですが、他のエピソードと重複する感があるのでカットしました。

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『ゲゲゲの女房』で一躍、国民的なスターとなった漫画家・水木しげるは戦局の悪化した1943(昭和18)年末、南太平洋の航空拠点ラバウルのあるニューブリテン島に派遣された。21歳の水木は臨時歩兵連隊の二等兵で、上陸直後から、米軍機の爆撃と食糧不足に悩まされることになる。

水木の小隊は戦闘らしい戦闘もしないままジャングルのなかで転進を繰り返し、海軍基地のあったバイエンという海辺の村で米軍の急襲を受ける。兵舎で寝ていた兵たちはなんの抵抗もできないまま全滅したが、水木はそのときたまたま歩哨に立っており、断崖から渦を巻く海に飛び込んで難を逃れた。珊瑚で切った足は血だらけになり、マラリア蚊の大群に襲われ、命からがら中隊に戻ると、中隊長は、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、お前も死ね」といった。

マラリアの高熱で動けなくなった水木は、敵の空襲に逃げ遅れ、爆風とともに左腕を失った。米軍の哨戒する海を輸送船で渡り、野戦病院に移送され、そこで終戦を迎えることになる。

水木の描く戦記もののいちばんの魅力は、土人たちとの交友だ(「土人」は現在では差別語とされているが、水木は「土とともに生きるひと」という尊敬の意味で使っている)。捕虜となっても、柵を越えて毎日のような土人部落に遊びにいって彼らの絵を描いた。

日本に帰ると決まったとき、水木は土人たちから、「お前はこの部落の者になれ」といわれる。日本に戻って軍隊みたいに働かされるよりは、ここでのんびり一生を送った方がいいかもしれないと考えた水木は、現地除隊を軍医に相談した。驚いた軍医から、「せめて父母の顔を見てから決めてはどうか」と説得され、帰国の船に乗ることになるのだが、土人たちは水木のために別れの宴を開き、「7年たったら必ず帰ってくる」と固い約束を交わした。

故郷に戻った水木夫婦の赤貧生活と、妖怪漫画での成功は広く知られている。水木が土人たちとの約束を果たし、ニューブリテン島を再訪したのは23年後のことだった。

全滅の島

水木たちのいたニューブリテン島の東にニューギニアがある。ここはフィリピン(レイテ島)、ミャンマー(インパール)と並ぶ太平洋戦争最大の激戦地で、投入された日本兵14万人のうち12万7600名が戦死したとされる。

独立工兵第36連隊の二等兵・奥崎謙三が東ニューギニアに着いたのは、43年4月初旬だった。部隊は橋や道路をつくりながら3ヶ月かけて目的地まで移動したものの、その頃には制空権は完全に連合軍に奪われ、飛行場も用をなさなくなったため、年末には200キロ離れた中部ニューギニア北岸のウェワクまで後退することになった。

ところが戦況はさらに悪化し、翌年3月には部隊はさらに西のホーランジャ(現在のインドネシア領)に移動することになる。このときウェワクには、200名ちかい将兵が病気その他のために残留することになった。

ウェワクからホーランジャまでのジャングルの移動は、凄惨そのものだった。兵士たちの多くはマラリアと飢餓に倒れ、つぎつぎと脱落していった。そのうえ目的地のホーランジャはすでに連合軍の手に落ちており、山中に立ち往生した日本兵に米軍から銃を貸与された原住民たちが襲いかかった。この頃には部隊は四分五裂になり、一人ひとりが己の才覚で生き延びるほかない敗残兵の群れと化していた。

3ヶ月におよぶ流浪の果てに奥崎もとうとうマラリアに倒れ、そこを原住民に銃撃されて、右手小指を吹き飛ばされ右大腿部を銃弾が貫通した。それでも左手一本で濁流の川を泳ぎ渡り、さらに西に逃げ延びようとしたが、頭部に銃弾を受けるに及んで死を覚悟せざるを得なくなる。

日本につづく海までいって死のうと決心し、ようやくたどり着いた海岸は、敵兵の駐屯する原住民の部落の一角だった。夜陰にまぎれて部落に忍び込んだものの、海に入って海岸沿いに逃れることもできず、かといって山に戻れば確実な死が待っていた。

奥崎は、山中で腐り果て、蛆虫にたかられ山豚の餌になるよりは、ひとおもいに米兵に射殺された方がマシだと思い、酋長らしき男の前に飛び出し「アメリカ・ソルジャー・カム・ガン(米兵を呼んで撃ち殺してくれ)」と叫んで自分の胸を指した。だが酋長は、「アメリカ、イギリス、オランダ、インドネシア、ニッポンみんな同じ」といって、奥崎に食事をふるまったあと米兵に引き渡した。

奥崎はこうして終戦の1年前に捕えられ、オーストラリアの俘虜収容所で玉音放送を聴くことになる。ウェワクからホーランジャを目指した独立工兵第36連隊千数百人のうち、生き残ったのは奥崎を含めわずか8名だった。

ジャングルという生き地獄 

帰国した奥崎は結婚して神戸でバッテリー商を営むが、56年4月、不動産業者とのトラブルから相手を刺し殺し、傷害致死で懲役10年の刑に処せられる。大阪刑務所の独居房で奥崎は、自分はなぜあの戦場から生きて日本に戻ってきたのかを考える。そして、この世のすべての権力を打ち倒し、万人が幸福になれる「神の国」をつくることこそが、ニューギニアで神が自分を生かした理由であり、戦争責任を果たそうとしない天皇を攻撃することで自らの信念を広く世に知らしめるべきだと決意する。

出所後の69年1月2日、新春の一般参賀で、奥崎はバルコニーの天皇に向かってゴムパチンコで数個のパチンコ玉を撃ち込んだ(暴行罪で懲役1年6ヶ月の実刑)。

原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』では、「神軍平等兵」を名乗る奥崎が、ニューギニア・ウェワクの残留部隊で起きた銃殺事件をめぐって、終戦後38年目にかつての帝国陸軍兵士たちを訪ね歩く。

ウェワクでは終戦当時、4キロ四方のジャングルに一万数千人の日本兵が立てこもり、その周囲を連合軍が完全に包囲していた。日本軍は敗戦を知ってもただちに投降せず、独立工兵第36連隊の残留守備隊長(中尉)は9月7日(終戦の23日後)、2人の上等兵を敵前逃亡の罪で銃殺刑に処した。2人は「戦病死」として処理されたものの、この異常な出来事は兵士たちのあいだで広く知られており、ドキュメンタリーの格好の素材として、原監督が奥崎に、遺族とともに真相を究明することを提案したのだ。

奥崎の特異なキャラクターは、ベルリン国際映画祭カリガリ映画賞など多くの賞を受賞した映画を観てもらうほかないのだが、この銃殺事件の全貌を知るうえで不可欠なのが、残留日本兵が体験した絶対的な飢餓状態だ。

『日本人とユダヤ人』などの著作で知られる評論家の山本七平は、大学を繰上げ卒業した後、幹部候補生として予備士官学校に入校し、陸軍砲兵見習士官・野戦観測将校としてフィリピン・ルソン島に送られ、終戦前の3ヶ月間、ジャングルに閉じ込められた。この体験を山本は、「生き地獄」と表現する。

ジャングルには空がない、と山本はいう。大木、小木、下ばえ、つるが幾重にも重なりあい、からまりあって昼でも暗く、夜ともなれば10センチ先も見えない。

湿度は常に100パーセントで、蒸し風呂に入れられたようななか、衣服は汗と湿気でべとべとになり、ぼろぼろに腐っていく。

歩くには、なたで下ばえとつるを切り払って、ひと一人がかろうじて通れる伐開路を切り開く以外に方法がない。しかも籐【ルビ:とう】のやぶにつきたると普通のなたでは刃が立たず、身動きがとれなくなる。

地面は腐植土の厚い層で、ひとが歩けばすぐに泥濘となり、踝や膝までが泥水のなかに入ってしまう。軍靴は一ヶ月もたたないうちに糸が朽ちて分解してしまい、足全体がひどい水虫のような皮膚病になる。

全員がマラリアにかかっていて、毎日1回、あるいは3日に1回、40度ぐらいの熱が1時間ほどつづく。このとき全身から滝のような汗が流れ、体じゅうの塩分が出てしまうが、補給すべき塩がない。これが毎日つづくとどんな強健な人間でも耐えられず、やがて脳をおかされ狂い死にする。

発熱に暑気が加わるからだれもが狂ったように水ばかり飲む。これがアメーバ赤痢のような下痢を起こし、排便の最後に血痰のような粘液が出るともう助からない。ジャングルで生き延びるには、超人的な克己心で食物と水に気をつけなくてはならないのだ。

あなたは“ゴミ”になれますか? 週刊プレイボーイ連載(53)

この連載を始めたのはちょうど1年前で、東日本大震災と福島原発事故の直後ということもあり、この国の政治についてあれこれ意見を述べたのですが、最近はまったく書くことがなくなってしまいました。消費税や議員定数是正をテーマにしようとしても、これまでの記事のコピー(繰り返し)になってしまうからです。

コピーにはオリジナルがあります。それでは、日本の政治の深層にあるオリジナルとはいったいなんでしょう。

かつて自民党の長老議員は、「サルは木から落ちてもサルだが、議員は落選すればタダの人だ」と述べました。いまではこの言葉は、「政治家は落選したらタダのゴミ」とヴァージョンアップして、永田町で広く使われています。

ひとは誰でも“ゴミ”にはなりたくありません。学歴もプライドもひといちばい高い政治家ならなおさらでしょう。

2006年の偽メール事件で、「堀江貴文ライブドア社長(当時)が、衆院選出馬に際して自民党幹事長の次男に3000万円を支払った」との偽情報を国会で質問し、議員辞職に追い込まれた民主党の代議士がいました。彼は東大工学部を卒業後に大蔵省(現・財務省)に入省し、初当選は若干30歳でした。

議員バッヂを失った後、この“超エリート”はどのような境遇に陥ったのでしょうか。

彼は地元の千葉県で再出馬の機会を探り、それに失敗すると実家のある九州から出馬を目指しますがうまくいきません。その間に親族の経営する会社で働くものの長続きせず、妻とは離婚し、やがて精神に変調を来たして福岡県の精神病院に入院することになります。そして2009年1月、病院近くのマンションから飛び降り、駐輪場で死んでいるのが発見されたのです。享年39の、あまりにも若すぎる死でした。

政治家なら誰でも、“ゴミ”になった彼の悲惨な晩年は他人事ではありません。落選は不運や失敗のひとつではなく、人生そのものを全否定されることです。だったら、どんなことをしてでもいまの地位にしがみつこうとするのは当然でしょう。

日本の財政は、90兆円の歳出に対して税収が40兆円しかなく、2000年に500兆円だった国の借金はわずか10年で1000兆円を超えてしまいました。この惨状を冷静に考えれば、誰でも歳出(公共事業や社会保障費)を削って歳入(税収)を増やすほかないことはわかります。しかし歳出カットも増税も有権者の不満に直結し、賛成すれば次の選挙が危うくなってしまいます。

与党が増税をいい出せば、選挙区のライバルは当然、「増税反対」を主張します。自民党が「政権党の責任」として消費税増税は不可避と述べたとき、民主党は「埋蔵金がある」と大合唱して政権の座を奪取しました。そのときの“風”で当選した新人たちは、増税なら落選と知っているのでなりふり構わず抵抗します。野党も、敵に塩を送るようなことはせず、「増税の前にやるべきことがある」といい立てます。

日本の政治家のなかにも、知識教養に優れ、国家の将来を憂い、身を捨てる覚悟のひとはたくさんいるでしょう。しかしそんな立派なひとたちが集まる国会で起きていることは、「ゴミになりたくない」という、たったひとつの行動原理で説明できてしまうのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年6月4日発売号
禁・無断転載

映画『MY HOUSE』と夢を失った時代

独立国家の話で触れたが、建築家・坂口恭平の『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』について忘れないうちに書いておこう。

『TOKYO 0円ハウス 0円生活』『隅田川のエジソン』で路上生活についての独創的なフィールドワークをした坂口は、本書で彼らを「都市型狩猟採集民」と定義する。これは、私たちがホームレスに抱いているイメージのコペルニクス的転換だ。

坂口は、彼が出会った路上生活者たちを紹介しながら、次のようにいう。

  1. ホームレスは「ホームレス(家のないひとたち)」ではない。彼らは“モバイル住宅”という、都市に最適化したホームを持っている。
  2. 路上生活は、都市における「狩猟採集」という新しい(Alternativeな)ライフスタイルだ。
  3. 路上生活者は貧しくかわいそうなひとたちではない。彼らこそが、肥大化した都市文明のなかでもっともゆたかで人間的な生活を送っている。

私たちは、ダンボールハウスではきびしい冬を越すことができず、いったんホームレスになれば長くは生きられないと思っている。だが坂口は、ダンボールとビニールシートでつくられた家はきわめて快適で、外気を完全に遮断できるから、真冬でもTシャツと毛布だけで過ごせるくらい暖かいのだという。実際、隅田川や荒川、多摩川の河川敷には、10~15年もダンボールハウスで暮らしているひとたちがいる。

私たちはまた、ホームレスになればゴミ箱に捨てられた残飯を漁って生きていくほかはない、と怖れている。たしかに路上生活者は賞味期限切れの食品を食べているが、坂口はこれを「都市の狩猟採集」というライフスタイルだという。

路上生活者のなかには、スーパーや飲食店と“契約”し、ゴミ捨て場を管理する代わりに不要な食材を引き取る者がいる。彼らが大量に食材を持ち帰るから、残飯など漁らなくても、毎日のように豪華な鍋パーティができるのだという。

さらに路上生活者は、都市のリサイクル業者でもある。彼らはさまざまな創意工夫で、まったくお金をかけずに快適な生活を実現している。私が驚いたのは、12ボルトの自動車用バッテリーで電化生活を送っていたり(冷蔵庫や小型テレビまで12ボルトで動かせるのだという)、ソーラーパネルを装備して自家発電している路上生活者がいることだ。もちろんすべてリサイクル品で、コストはゼロ円だ。

本書でもっとも印象的なのは、「代々木公園の禅僧」と名づけられたひとりの男性だ。彼は代々木公園のケヤキの下にブルーシートを敷いただけで、家すら持たずに暮らしている。雨の日は区役所か都庁の地下に行き、冬も毛布1枚か2枚で過ごす。お金はいっさい持たず、支援団体が配るおにぎり2個で暮らしている。彼によれば、現代人はそもそも食べすぎで、1日におにぎり2個の生活のほうがずっと健康的なのだという(まるでこのひとみたいだ)。ここまで達観すると、もはや修行僧だ。

かつて人類は、狩猟採集民として「海の幸」「山の幸」で暮らしていた。路上生活者は彼らの正統な末裔として、この現代社会で、「都市の幸」に囲まれながら「都市型狩猟採集生活」というまったく新しいライフスタイルを創造しているのだ。

こうした坂口の主張はきわめて魅力的だけれど、同時に強い批判を浴びるだろうことも容易に想像がつく。坂口は、「路上生活者は“貧しく不幸なひとたち”ではない」といい、「彼らを強制的に“社会復帰”させるのは善意による暴力だ」と訴えている。“ホームレス対策”というのは、ネイティブアメリカンやアボリジニなど伝統的な生活を送るひとびとを、「啓蒙」の名の下に文明化しようとするのと同じことなのだ。

坂口の主張を徹底すれば、ホームレスが増えても、「好きで路上生活してるんだから放っておけばいい」ということになる。路上生活(都市型狩猟採集生活)の方がより“ゆたか”な生活ができるのだとしたら、貧困は、不自由な都市生活者(私たちのことだ)が狩猟採集へと移行するよいきっかけになる。だったらいますべきことは公園や河川敷を路上生活者に開放することで、貧困対策などすべてやめてしまったほうが私たちはずっと幸福になれるにちがいない……。はたしてこれでいいのだろうか?

路上生活というAlternativeの限界は、人気映画監督・堤幸彦の新作『MY HOUSE』を観るとよくわかる。坂口のフィールドワークにもとづいたこの映画は、「都市の自由民」としての路上生活者を描いている。堤自身、ニューヨークでオノ・ヨーコを起用してホームレスの映画を撮ったこともあるというから、たんなる興味本位の企画でないことは明らかだ。

しかしそれでも、この映画を観て路上生活という「別の人生」に飛び込んでみたいというひとはいないだろう。ホームレスの一人(石田えり)は、最後には進学塾に通う中学生に殴り殺されてしまう。ここでは路上生活者は排除され滅びゆくマイノリティで、彼らの目を通して現代社会が批判される。これをステレオタイプと批判するのはかんたんだが、これ以外に描きようがないのも事実だろう。

映画では、主人公は公園の一角に廃材を使った家をつくり、アルミ缶を拾って生計を立てている(残飯ではなく、食材はスーパーで買っているようだ)。彼が自転車に乗って「都市の幸」を採集する様子がモノクロ画面で忠実に再現されるのだが、それがリアルであればあるほど「こんなこととてもできないよ」と思ってしまう。ほんとうの路上生活は、「自由」かもしれないが、魅力的でも楽しくもないのだ(路上生活を気楽な人生だと考えていたラブホテルのオーナーが、主人公から話を聞いた後で、「事業に失敗して路上に放り出されたときには仲間に入れてくれ」と頼む場面があるが、ここは身につまされる)。

いまからもう20年も前のことになるが、鶴見済の『完全自殺マニュアル』がベストセラーになった。この本で鶴見は、「生きていくのがそんなにつらいなら自殺すればいいじゃん」と述べた。同様に坂口は、「格差社会なんか関係ないよ。路上生活、最高だよ」といっている。

私たちはずっと強い閉塞感を抱えていて、「どこでもいいから“外”に行きたい」と願っている。そんな私たちが見つけた「ここではないどこか」が、20年前は「自殺」で、いまは「路上生活」だ。けっきょく実行できないところも、ふたつの処方箋はよく似ている。だからこれは、「独立国家」と同様に、現代の寓話なのだ。

映画『MY HOUSE』でもうひとつ気づいたのは、路上生活が個人的な営みだということだ。彼らが現代の「狩猟採集民」になるためには、自分たちの共同体をつくり、そこで子どもを育て、家族を営まなくてはならない。そこから独自な文化を持つAlternatveな社会が生まれてくる。しかしこれではマンガにしかならないから、「寓話」を実現可能なユートピアとして映画化するのはもともとムリだったのだ。

いまひとびとが求めているものは、もっと現実的なAlternativeだろう。それが「自殺」や「路上生活」になってしまうことに、夢を失った時代の不幸が表われている。