政治家が官僚を叩くと日本はギリシアになる?

資料を整理していたら面白い研究を見つけたので紹介したい。日経新聞2012年5月21日(朝刊)の経済教室に、「日本は南欧化するのか?」として、鶴光太郎慶大教授が寄稿した記事だ。

ここで取り上げられる問題は、次のふたつだ。

  1. 先進国のなかで、アングロサクソン(英米)のように小さな政府を志向する国と、ヨーロッパのように大きな政府を志向する国があるのはなぜか?
  2. 大きな政府を志向するヨーロッパのなかでも、財政が健全な北欧諸国と、不健全な財政に苦しむ南欧諸国に分かれるのはなぜか?

その回答として、他人への信頼度(公共心)と福祉の規模をマッピングした研究がある。それが下図だ。

この図では、他人への信頼度(公共心)が低い国(ポルトガル、ギリシア、フランス、イタリア、スペイン)は福祉の規模が大きく、信頼度が高くなるにつれて福祉の規模は小さくなっていく(アングロサクソン国)が、より公共心が強まるとふたたび福祉国家を志向するようになる(北欧とオランダ、デンマーク)。鶴氏はこれを、次のように説明する。

公共心が高い(脱税や社会給付などの不正受給がない)国では、より高い税負担をしてもその分が確実に返ってくるのだから、ひとびとは高福祉の国を支持するだろう。

その一方で、公共心のないひとたちも、より強く再分配政策を求めるにちがいない。彼らは税負担を逃れながら、福祉にただ乗りすることができるからだ。

このように考えると、公共心の高いひとが増える場合だけでなく、公共心のないひとが増えた場合でも、国民は大きな政府を求めることがわかる。高福祉国には、「まじめな国民・公務員が多いために、大きいが効率的な福祉国家」と、「不正を働く国民・公務員が多いため、大きく非効率的な福祉国家」の2種類が存在するのだ。

その一方で、公共心が中程度の国は国民の再配分への指示は相対的に弱く、小さな政府が志向されるという。

まわりのひとたちへの信頼感や公共心への評価が高く、政府機関への信頼が厚いほど福祉国家への支持が強いのは誰でもわかるだろう。だが「欧州社会調査」や「世界価値観調査」などを分析すると、「政府からの不正受給、交通機関の無賃乗車、脱税、収賄、ごみの不法投棄、盗難品の購入」などが正当化されると考えるひとが多い国でも福祉国家への支持が強かったのだ。

それでは、日本はどうだろう。

鶴教授によれば、日本人の他人への信頼度は欧米先進国のなかでは中程度で、過去25年にわたって目立った変化は見られないものの、「政府への信頼」に関する質問では、議会や公的サービスに極端な不信を持つ層が確実に増えており、欧米先進諸国と比べても高い部類に入るという。

民主党への政権交代以来、「官僚支配」批判が大流行している。各政党は、どれだけ官僚を叩いたいたかを競っている。日本が「省庁連邦国家(United Ministries of Japan)」であることを考えればこうした批判は理由のないことではないが、この研究によれば、政治家が官僚や行政を叩けば叩くほど国民は政府を信頼しなくなり、公共心が低くなって、いずれ日本は南欧化していくことになるのだ。

小沢一郎はなぜエラそうなのか? 週刊プレイボーイ連載(59)

小沢一郎が50人ちかい議員を引き連れて民主党を離党しました。これが自滅への道なのか、政界再編の立役者として返り咲くのかはわかりませんが、マスコミの扱いの大きさを見ても、いまでも日本でもっとも注目を集める政治家であることは間違いありません。

ベストセラーとなった『日本改造計画』の小沢一郎は、日本を「ふつうの国(グローバルスタンダードの国)」にしようとする開明的で合理的な政治家でした。元秘書だった石川知裕が『悪党―小沢一郎に仕えて』で描いたのは、自宅で書生に雑巾がけをさせる古色蒼然たる“オヤジ”の姿です。自民党から新進党、自由党、民主党への遍歴のなかで袂を分かったかつての仲間たちは、ひとをひととも思わぬ残酷さにそろって怨嗟の声をあげます。

政治家なら誰もがいちどは小沢一郎に憧れ、やがて裏切られ捨てられていく。しかしいつのまにか、新人議員たちが彼のまわりに集まってくる。そんな不思議な魅力と複雑な人格(キャラ)が人気の秘密なのでしょう。

ところでここで考えてみたいのは、小沢一郎はなぜあんなにエラそうなのか、ということです。

特定の集団のなかで、お互いに相談しあってなにかを決めることはよくあります。こうした集団での決定を観察すると、そこに簡単明瞭な法則があることが知られています。それは「最初に自信たっぷりに発言したひとの決定に従う」ことと、「一貫していてブレない主張を信じる」ことです。

ここでのポイントは、その主張が正しいかどうかはどうでもいい、ということです。どんなデタラメでも同じことを自信にあふれた口調で繰り返していると、それを信じるひとが出てきます。その人数が増えてくると、さらにまわりを巻き込んで、大きな集団をつくっていきます。カルト宗教から革命まで、歴史はゴーマンな人間を中心に回っているのです。

こうしたテクニックは、会議の冒頭でいきなり大声を出してジコチューな発言をする、というような場面で使われます。これはきわめて効果的な方法で、どんな批判にもいっさい妥協せず頑なに同じ主張を繰り返していれば、やがて相手が折れて議論に勝つことができるでしょう(ネットでもよく見かけます)。

その一方で、この方法にはリスクもあります。たんなる演技では“上から目線”と馬鹿にされ、総スカンを食ってしまうのです。ゴーマンにはそれなりの作法というか、存在感が必要なのです。

永田町にもゴーマンが似合う政治家はほとんどいなくなってしまいました。どこを見ても、甘やかされた二世議員か頭のいいお坊ちゃん(お嬢ちゃん)ばかりです。彼らは腰が低く、さわやかな笑顔で有権者にすり寄りますが、エリート臭さを見透かされて大衆的な人気を獲得することができません。

その意味で小沢一郎は、いまや絶滅危惧種となった傲岸不遜な政治家です。

ひとびとが合理的な意見よりもエラそうな主張を好むなら、小沢一郎の「賞味期限」はまだ切れてはいないのかもしれません。

 『週刊プレイボーイ』2012年7月16日発売号
禁・無断転載

お金を必要としているのは誰なのか?

先日、慎泰俊『ソーシャルファイナンス革命』を紹介したが、私はこうしたファイナンスのイノベーションについて、若干の疑問を持っている。それについても忘れないうちに書いておきたい。

ムハメド・ユヌスがマイクロファイナンスを始める前は、新興国の貧しいひとたちは金融業者から年利数百パーセントというきわめて高い金利で融資を受けるしかなかった。だが慎氏も指摘するように、これは金融業者が暴利をむさぼっていたわけではない。新興国に特有のさまざまな事情(高いインフレ率、政治的・社会的なリスク、モラルハザードなど)によって、“暴利”でなければビジネスが成立しなかったのだ。

ところがユヌスは、融資の返済を「連帯責任」にすれば回収率が劇的に高まることを利用して、貧しいひとたちに少額の無担保融資を「低利」で提供した。これはスゴいイノベーションで、貧困への取り組みを一変させたからこそノーベル平和賞を受賞したのだ。

ところでユヌスのグラミン銀行でも、貸出金利は年利20%超と、先進国の基準ではじゅうぶんに「高利」だ。メキシコ最大のマイクロファイナンス機関コンパルタモスは2008年に株式市場に上場したが、財務諸表から推測される金利は年利70%以上で、インフレ率を除いた実質金利でも65%を超えるという(これはさすがに利益優先の暴利として、ユヌスから「マイクロファイナンスは新しい高利貸しをつくるためのものではない」と批判された)。

年利20%で資金を借りて、約束どおりに返済するためには、それ以上の利回りで「投資」をしなければならない。マイクロファイナンスの利用者は、どのようにして融資を返済しているのだろうか?

これも慎氏が書いているが、たとえば中国の穀倉地帯では、収穫期に稲刈りを代行する「賃刈屋」という商売がある。小規模農家にとっては、1年に1度しか使わない稲刈り機を購入するよりも、手数料を払って賃刈屋に頼んだほうが割に合うのだ。

賃刈屋は、3年もすれば農機の費用を回収できるといわれている。そこから先は利益なので、借金してビジネスを始めてもじゅうぶんに採算が取れるのだ。

新興国には、ちょっとした才覚でお金を稼ぐことができるニッチな投資機会がたくさん残っている。それは市場がじゅうぶんに成熟していないからで、だからこそ年利20%でマイクロファイナンスから融資を受けた村の女性たちが、牛や馬を買って育てたり、工芸品を手づくりしたり、露天で物売りや飲食店を始めたりして、費用(借り入れコスト)を上回る収益をあげることができるのだ。

私の疑問は、アメリカやヨーロッパ、日本のような成熟した市場経済では、こうした小商い(@平川克美)の機会はそれほど多く残されていないのではないか、というものだ。

ソーシャルファイナンスでは、ICTやSNSを活用したクラウドファンディング、P2Pファイナンスによって、より効率的かつ低利に少額の資金を提供できるとされる。日本では上限金利が15~20%だから、ソーシャルファイナンスによって、たとえば年利10%の無担保融資が可能になるとしよう。

ところで、年利10%でお金を借りたひとは、それでなにをするのだろう?

いまや日本では、企業に対する銀行の貸出金利の平均が1%を下回っている。これは、金利1%で銀行から融資を受けても、それを上回る投資機会がないと企業が考えているからだ。企業による「大商い」ですら難しい成熟した市場では、仮にマイクロファイナンスから融資を受けたとしても、個人はそのコストを回収する「小商い」をすることができないのではないだろうか。

「ソーシャルファイナンス入門」でも、融資の使い道についてははっきりとは語られていない。海外の大学でMBAを取得する、スマホのアプリを開発する、などの例が挙げられているが、多重債務者の大半がギャンブルと女(女性の場合は買い物)で借金まみれになっている現状を考えれば、その落差はあまりにも大きい。

金融テクノロジーの発達によって、ファンディング(調達)やレンディング(融資)の仕組みが大きく進化し、旧態依然とした金融機関は市場からの退場を余儀なくされる。これはもちろん素晴らしいことだが、問題は、だぶついたマネーをいったいどこに投資できるのか、ということにある。

この国で、お金を必要としているのは誰なのだろうか? 消費者金融で借りた資金で起業して成功した、などという話は誰も聞いたことがない。消費者金融が「低利」のソーシャルファイナンスに変わったとしても、それだけではなにも変わらないだろう。

PS 『貧乏はお金持ち』で書いたように、日本では国や自治体の“パブリックファイナンス”を利用すると、自営業者や小規模企業家(マイクロ法人)ですら無担保(ほぼ)無利子で1000万円程度のファイナンスが可能になる。このような制度があるかぎり効率的な金融市場は成立せず、パブリックファイナンスから排除された顧客がソーシャルファイアンスに殺到する「逆選択」が避けられないだろう。