日本の若者はほんとうにリスクをとらないのか? 週刊プレイボーイ連載(18)

日本人はリスクをとらない、といわれます。最近の若者は海外に出ようとせず、アメリカの一流大学では、留学生のほとんどは中国か韓国の学生になってしまった、との嘆きもよく聞かれます。

これが、日本の将来に対する重要な警告であることは間違いありません。しかし保守的で臆病で日本を離れたがらない若者というのは、日本人の「国民性」なのでしょうか。

ひとはどんなときでも、自分の利益を最大化すべく合理的な選択をする、と考えてみましょう。すると、ちがった風景が見えてきます。

プロサッカーの世界では、たくさんの若者たちがヨーロッパに渡っています。長谷部や本田、長友、香川といったJリーグで活躍した選手だけでなく、アーセナルの宮市亮のように高校を卒業してすぐにヨーロッパリーグで活躍する選手も登場しました。

なぜサッカー選手たちは、大きなリスクをとって海を渡るのか? 彼らは、特別な日本人なのでしょうか。

もちろん、そんなことはありません。しかし、ごくふつうの日本人とプロサッカー選手ではひとつ決定的なちがいがあります。中田英寿が示したように、世界最高峰のヨーロッパリーグで成功することの利益―これは金銭だけでなく名声(評判)も含まれます―はとてつもなく大きいのです。

合理的な個人は、つねにリスクとリターンを秤にかけて最適な行動をとろうとします。じゅうぶんなリターンがなければ現状を維持し、リスクに対して期待リターンがはるかに大きいと思えばチャレンジするというのは、ごく当たり前の選択です。この原理は日本人であろうが外国人であろうが同じで、だとすると、日本人が保守的な理由は国内にとどまることのリターンが大きいからにちがいありません。

韓国の音楽マーケットの規模は日本の20分の1以下だといいます。これが、Kポップのアイドルたちが続々と日本にやってくる理由です。サッカーも同じで、Kリーグでは成功しても収入に限界があるので、選手たちはJリーグやヨーロッパリーグを目指します。韓国人がアグレッシヴなのは、彼らの能力に国内市場の規模が見合わないからです。

それに対して日本は、長い不況に苦しんでいるとはいえ、いまだにGDPで世界3位の経済大国です。ほとんどの日本人は、海外に出て大きなリスクをとるよりも、国内でそこそこの成功を目指した方がリスクに対するリターンが大きいと考えていて、合理的に行動しているだけなのです。

明治・大正や昭和初期には、多くの日本人が決死の覚悟でアメリカやブラジルに渡りました。これは日本が貧しく、農家の次男や三男は生きていく術がなかったからです。終戦後にアメリカの大学に留学する日本人が増えたのは、欧米と日本の差がまだ大きく、海外の知識を日本に持ち込むだけで大きな利益(や名声)を手にすることができたからにちがいありません。

このことからわかるように、外的な環境が変われば日本人はふたたびリスクをとるようになるでしょう。もっともそのときは、日本国内では生きていくことができないような、そんな世界になっているかもしれませんが。

 『週刊プレイボーイ』2011年9月12日発売号
禁・無断転載

ひとはどこまで愚かで残酷になれるのか? ポルポト残照(2)

ドイツ系ユダヤ人の政治思想家ハンナ・アーレントは、ナチス親衛隊幹部で、強制収容所による「ユダヤ人問題の最終解決」を指揮したアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、「悪の陳腐さ」という有名な言葉を残した。だが同じような陳腐さは世界のどこにでも―たとえばカンボジアにも―あった。

トゥール・スレン収容所は、ドゥイチ(本名カン・ケク・イウ)と呼ばれる若い所長によって管理・運営されていた。ドゥイチはポル・ポトら最高幹部から直接、指示を受ける立場におり、絶対的な権威として収容所に君臨し、3年4カ月の間に1万4000人の容疑者を取り調べ、そのほぼ全員を粛清したとされる。それと同時にドゥイチは、きわめて几帳面に、容疑者の自白調書を記録に残した。ベトナム軍によるプノンペン陥落の際もこれらの膨大な文書は破棄されることなく、それによって後世の研究者たちは収容所の全貌に迫ることができたのだ。

ドゥイチはカンボジアの最高学府リセ・シソワットをきわめて優秀な成績で卒業し、高校の数学教師を経て革命運動に身を投じた。「死の監獄」の収容所長に就任したのは、32歳のときだ。

ドゥイチの消息はプノンペン陥落から途絶えていたが、20年後の99年1月、アメリカ人ジャーナリストによって所在を突き止められた。このスクープに世界が驚いたのは、悪魔の化身のように恐れられていたドゥイチが96年に洗礼を受けて敬虔なクリスチャンになっており、タイ国境のキャンプで国連や米国の民間救援組織とともに難民救済活動に献身していたことだった。

フランスの民俗学者フランソワ・ビゾは1965年からシェムリアップでアンコール遺跡の調査を行なっていたが、71年にクメール・ルージュに拘束された。そのときビゾを取り調べたのが、若き日のドゥイチ(当時28歳)だった。ビゾはこの体験を誰にも語らなかったが、ドゥイチ拘束の報を受けて30年の沈黙を破り、処刑の恐怖に怯えた虜囚の日々をはじめて公にした(『カンボジア運命の門』)。

ビゾの願いは、等身大のドゥイチを知ってもらうことだった。彼はドゥイチの公明正大な報告と尽力により、奇跡的に死刑を免れ、生還することができたのだ(同時期にクメール・ルージュに捕えられた外国人は、全員がスパイとして処刑された)。

ドゥイチは、ビゾと2人のカンボジア人の助手を別々に訊問し、その証言を厳密に付き合わせた結果、どこにも矛盾点がないという理由でビゾの釈放を上層部に求めた。だがクメール・ルージュのナンバー2だったヌオン・チュア(後の人民最高会議議長)が強硬に死刑を主張したため、ドゥイチは身の危険をも顧みず、ポル・ポトに直接かけあって釈放の指示を取りつけた。こうして革命の純粋さを信じる若者と、フランス人民俗学者のあいだに奇妙な友情が芽生えていく。

トゥール・スレンの所長に就任してからも、ドゥイチは可能な限り公正さを保とうと努力した。彼は、スパイであると自白しない者を処刑することができなかった。そして自らの正しさを証明するために、膨大な供述調書を残したのだ。

そうした調書のひとつには、元電気工の次のような「自白」が記されている。

私はCIAのメンバーではありません。罪状を突きつけられて、CIAだと言ったのです。でも、私は革命に従わなかったのだから、殺してくださるよう〈組織〉にお願いします。〈組織〉がかつて私を信じて下さっていたのだから、私は死に値します。(中略)自分が有罪であることは、はっきり認めます……もうすぐ死ぬのだから。輝ける革命万歳! 革命組織万歳!(デーヴィッド・チャンドラー『ポル・ポト 死の監獄S21』

自ら「殺してくださるよう」お願いし、自分は殺されるから有罪だと「自白」するのがカフカ的不条理とするならば、アメリカ人ジャーナリストのインタビューに答えたドゥイチの次の言葉はさらに重い。

私の罪は、あのころ神ではなく共産主義に仕えたことだった。殺戮の過去を大変後悔している。裁判で死刑にされてもかまわない。私の魂はイエスのものだから。(山田寛『ポル・ポト「革命」史』

ドゥイチは人道に対する罪と戦争犯罪でカンボジア特別法廷に告発され、2010年7月、禁固35年の刑が言い渡された(「違法拘束」期間を差し引いた刑期は19年とされた)。

killing field
囚人たちは畦道に並べられ、後頭部を打ち砕かれて穴に落とされた

ひとはどこまで愚かで残酷になれるのか? ポルポト残照(1)

いまは海外にいて更新できないので、むかし書いて使っていなかったポルポトについての原稿を2回に分けてアップします(日本の現状の比喩というわけではありません)。

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カンボジアの首都プノンペンの南3キロほどのところに、トゥール・スレン博物館がある。トンレサップ川に面した王宮からなら、トゥクトゥク(バイクタクシー)で15分ほどの距離だ。

ここはもともとは高等学校の校舎で、校庭を囲むようにコの字型に5棟の建物が配置されている。

ポル・ポト率いるクメール・ルージュ(民主カンプチア)がカンボジアを支配した1975年から79年までの4年間で、人口の2割にも及ぶ150万人が生命を落としたとされる。その多くは農村への強制移住にともなう病気や栄養失調・餓死によるものだが、少数民族やベトナム系・中国系住民に対する民族浄化や政敵の粛清で数十万人が殺されてもいる。

トゥール・スレンはポル・ポト時代、治安組織サンテバルの本拠となり、およそ1万4000人が連行され、ほぼ全員が死亡した(ベトナム軍による「解放」の際、生存者はわずか12名だった)。国内にはこうした監獄がいくつもあり、およそ10万人が処刑されたと考えられている。

トゥール・スレンの「大虐殺博物館」にはかつて、ドクロでつくられた巨大なカンボジアの地図が展示されていた(「悪趣味」と批判されて撤去された)。プノンペンのもうひとつの観光名所「キリングフィールド」は同名のアメリカ映画から名づけられたが、ここには掘り出された頭部の骨を積み重ねた慰霊塔(通称「ガイコツの塔」)がある。

ポル・ポトのカンボジア支配は、ベトナム軍によるプノンペン陥落で終わりを告げる。だが中国はこれをカンボジアの主権に対する侵略行為と見なし、軍事的な懲罰(中越紛争)に踏み切った。このためベトナムは、国際社会に対して自らの正当性を示さなければならず、プノンペン占領はクメール・ルージュの“狂気”からの「解放」とされた。

このことからわかるように、ポル・ポト時代の「大虐殺」(「人口の3割にあたる300万人が殺された」)には多分に宣伝が紛れ込んでおり、数字を扱う際には注意が必要だ。だがその一方で、トゥール・スレン収容所には膨大な量の供述調書が残されていて、それらの資料がエール大学をはじめとする米国の研究機関でマイクロフィルム化され、研究者にひろく公開されている。政治的誇張を取り除いたそうした調査においても、「死の監獄」で想像を絶する規模の殺戮が行なわれた事実は議論の余地がない。

トゥール・スレンの建物のつくりは、日本の学校とほぼ同じだ。3階建ての両端に階段があり、廊下に沿って教室が並んでいる。教室の大半は煉瓦を積んだだけの粗末な独房に改造されているが、なかには錆びた鉄製のベッドが置かれただけの部屋もある。ベッドの柱には、鉄製の手枷や足枷が取り付けられていて、供述を拒む囚人の拷問に使われていた。

だがこの建物でもっとも印象的なのは、階段の踊り場に穿たれたいくつもの小さな穴だ。これは拷問によって床に溜まったおびただしい血を洗い流すためのもので、それは外壁のあちこちからあふれ出し、まるで建物全体が血を流しているかのようだったという。

トゥール・スレンに送り込まれてくるのは、「オンカー」からベトナムのスパイと疑われた者たちだった。オンカー(組織)はクメール・ルージュ(カンプチア共産党)中枢を指す隠語で、すべての指示はオンカーから伝えられたが、その実体ははだれも知らなかった。

ポル・ポトは私有財産制を否定し、貨幣を廃止し、都市の知識層を農村に強制移住させることで、カンボジアを真に理想的な共産主義社会につくり変えようとした。だが彼らの意に反して「改革」はいっこうに成果を生まず、農産物の生産は激減し、全土に飢餓が蔓延し、難民があふれた。革命の勝利に酔うクメール・ルージュの幹部たちにとって、「資本主義の悪を追放してこの世の楽園を建設する」という理想はあまりにも神聖だったので、自らの失政を認めることなどできるはずもなかった。こうして、不都合な事態はすべてなにものかの陰謀とされることになった。

カンボジアは歴史的に反ベトナム感情が強く、ポル・ポト政権がカンボジア国内のベトナム人を「民族浄化」したことから、対外的には友好関係にあるはずのベトナム共産党との関係はきわめて悪化した。ベトナム国内(とりわけカンボジアとの国境に面したベトナム南部)には多数のカンボジア系住民がおり、ポル・ポト政権の転覆を狙ってベトナム軍が彼らを秘密裏にカンボジアに送り込んだ、ということも実際にあったようだ。

こうしてポル・ポトたちは疑心暗鬼に陥り、経済の再建や社会の安定ではなく、反革命を企むスパイの摘発こそが最優先の政治課題となった。ベトナムの背後にはアメリカとソ連がおり、CIAとKGBが手を結んでカンボジアに大量のスパイを潜入させているのだと、彼らは本気で信じていた。

このような陰謀史観に支配された社会では、身を守る唯一の方法は、自分が告発される前にだれかを告発することだ。こうして無実の人間が収容所に送り込まれてくるが、そこではさらなる不条理が待ち構えている。

トゥール・スレンの取調官に課せられた責務は、容疑者からできるだけ多く「スパイ」の名前を聞き出すことだった。仮に容疑者が無実であったとしても(実際、ほとんどはそうだったのだが)、そのまま釈放すればこんどは自分がスパイとして疑われることになる。

さらに収容所では、情報交換を避けるために、容疑者を完全に隔離することが求められていた。当然、高校校舎では収容できる人数に限界があるが、「スパイ」たちはつぎからつぎへと送り込まれてくる。そのため収容所側は、自白した者を片っ端から処刑し、自白しない者は拷問にかけて、なんとか収容枠を確保しようとした。このようにして、人類史上例のない「処刑施設」が誕生した。

だがカンボジアの悪夢でもっとも恐ろしいのは、トゥール・スレンがひと握りの狂人によって生み出されたのではなく、クメール・ルージュの幹部たちが邪悪な意図を持っていたわけでもなかったことだ。ポル・ポトをはじめ、幹部の多くは名家の子弟で、フランス植民地下で最高の教育を受け、パリに留学した。そこで左翼系知識人と出会い、共産主義の理想に感化された若者たちは、祖国を解放し、ひとびとを幸福にすることを願って、仮借なき死と破壊への道を突き進んだのだ。(つづく)

Killing field
キリングフィールド通称「ガイコツの塔」