電子雑誌『allez!』に、『大震災の後で~』について書きました。

電子雑誌『allez!』10月号に『大震災の後で~』について短い文章を書きました。編集部の許可を得てブログに転載します。

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3月11日の東日本大震災と、それにつづく福島第一原発事故は、私たち一人ひとりに重い問いを突きつけました。

原発事故と政府の対応に対して、なぜこんな理不尽なことが許されるのか、という怒りと絶望。被災地の惨状を前にして、自分にいったいなにができるだろうとういう無力感。そして、家や仕事や生活の基盤のすべてを一瞬にして失ったひとたちを目の当たりにして、磐石なはずの日常がふいに途切れたとき、どうやって生き延びればいいのかという、いい知れぬ不安。

私はずっと、「自由とは選択肢のことだ」と考えてきました。どれほど自由気ままに振る舞っているように見えても、夫や会社や国家に経済的に依存しているのなら、それは隷属の一形態に過ぎない。自由に生きるには経済的な独立が必要なのだ、と。

大震災が衝撃だったのは、自由をめぐる私の考えがたんなる絵空事でしかなかったことです。被災地で避難生活を送るひとたちが教えてくれたのは、ほとんどのひとは人生の選択肢など持っていない、という現実でした。

自然災害や経済的な混乱からひとびとの生活を守るためにできることは、原理的に二つしかありません。一人ひとりのリスク耐性を上げることと、リスクに強い社会をつくっていくことです。

冷戦終焉以降、日本的なシステムは世界の大きな変化に適応できなくなってしまいました。しかしこれは、バブル崩壊後、不良債権問題が深刻化して、地価や株価の下落が一過性のものでないことが明らかになった90年代半ばから、ずっといわれつづけてきたことです。

日本の政治は駄目だとか、官僚が日本を支配しているとか、そんなことはいまでは誰だって知っています。天下国家を語るひとたちは、すでに20年ちかくも、口角泡を飛ばして同じ話を繰り返してきました。

現状分析も処方箋もわかっていながら変わることができないのは、変わらないことに合理的な理由があるからです。

より平等で効率的な社会は、すべてのひとに均等に恩恵をもたらすわけではありません。「まわりが豊かになっても、既得権を奪われるなら本末転倒だ」「自分だけ割を食うなら、みんなで貧しくなったほうがまだマシだ」とひとびとが考えるなら、「改革」は永遠に夢物語に終わるでしょう。

だとすれば、私たちの前には、絵空事と夢物語の二つの選択しかありません。

『大震災の後で人生について語るということ』で書いたのは、絵空事を徹底することで、そこに「希望」らしきものが見えてくる、という逆説です。ほとんどのひとにとって、ここで語られる人生設計は実現不可能な、なんの意味もないものにちがいありません。しかしごく一部のひとたちは、絵空事を現実に変えるちからを持っているはずです。

そして彼らこそが、より大きな黒い鳥(ブラックスワン)がこの国に舞い降りたときに、私たちの大切な故郷(くに)を救うことができるのだと、私は考えています。

本書の続編では、そんな「夢物語」を書いてみるつもりです。

電子雑誌『allez!』10月号
禁・無断転載 

こんなに若者が幸福な時代はない

この20年はほんとうは「幸福」だったのではないかか、というエントリーを書きましたが、それに関する興味深いデータがあるので、あわせてアップしておきます。

下のグラフ(画像をクリックで拡大)は、社会学者・古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』に掲載された図をスキャンして、わかりやすいように着色処理したものです。同書によれば、古市自身もこのデータを豊泉周治『若者のための社会学』で知ったとのことで、その後、一部の社会学者のあいだで話題になったようです。

このデータは内閣府の「国民生活に関する世論調査」によるもので、グラフを見れば明らかなように、20代男子の「生活満足度」は1970年~90年に比べて、この10年間で15%近くも急上昇しています。いまの若者は、1980年代のバブル最盛期の若者たちよりもずっと「幸福」なのです。

世間では、「グローバリズムによる格差社会で若者が不幸になった」と大合唱されています。だったら、なぜこんな奇妙な結果が出るのでしょうか。

古市はそれを、社会学者・大澤真幸の論を引きながら、次のように説明します。

「幸福」というのは相対的なもので、私たちが「今は不幸だ」とか「生活に満足していない」と感じるのは、「将来はより幸福になれる」と思っているからだ。これからの人生に「希望」があるひとにとっては、今の人生を「不幸」として否定しても、自分を全否定したことにはならない。

だが、もはや自分がこれ以上幸福にはなれないと思えば、ひとは「今の生活が幸福だ」とこたえるしかない。すなわち、若者の幸福度(生活満足度)が急上昇しているのは、2000年以降、彼らが将来に「希望」を持てなくなったことの裏返しなのだ……。

日本の若者が置かれた状況は、アメリカの若者たちが、将来に対してきわめてポジティブに考えていることを見るとよりはっきりします。

アメリカでは、1980年以降に生まれた世代を「新千年紀世代」と呼びます。“新千年紀(西暦2001年からの1000年間)に入ってからはじめて大人になった世代”のことで、2011年現在では18~30歳の若者たちにあたります。

この新千年紀世代の意識をアメリカの大手世論調査会社「ピュー研究センター」が調べたところ、X世代(1965~80年生まれ)やベビーブーマー世代(1946~1964年生まれ)と比較して、以下のようなことが明らかになりました(調査報告は2010年2月)。

アメリカの新千年紀世代に特徴的なのは、「人生でなにがたいせつだと思うか」という質問に対して、他の世代に比べ、「良い親になること」(52%)や「良い結婚をすること」(30%)という回答が際立って高いことです。

しかし彼らは、たんに保守化しているわけではありません。「移民はアメリカを強くする」とこたえているひとの比率は、30歳以上では4割ですが、新千年紀世代では6割に達しているのです。

さらに、「アメリカでは、いろいろなことがうまく進行している」という意見に賛成するひとの比率が、30歳以上(26%)に比べて新千年紀世代の若者が顕著に高い(41%)、という結果も出ています。(以上のデータは、山岸俊男+メアリー・C・ブリトン『リスクに背を向ける日本人』より)。

アメリカの若者たちは、伝統的な価値観(よい家庭をつくる)を重視する一方でリベラル(移民は積極に受け入れるべきだ)でもあり、自分たちの将来にきわめて前向きなのです。

「ウォール街を占拠せよ」のような若者の運動がなぜ日本では起きないのか、という議論がありますが、その理由は日本とアメリカの若者たちの「希望」のちがいによってきわめてシンプルに説明できます。

日本の若者は、「将来にたいして希望は持てないけれど、いまはそこそこ楽しく暮らしていけるからとりあえずこれでいいや」と思っています。それに対してアメリカの若者は、「未来はもっとよくなるし、そうなるべきだ」と考えています。だからこそ、現状に対する不満が「運動」へとつながるのです。

それともうひとつ、「生活満足度」のグラフの大きな特徴が、この20年で30代~60代の幸福度が大きく下がっていることです(とりわけ2010年の調査では、50代の2人に1人が生活に満足していません)。

これは、彼らが将来に大きな「希望」を持っている(だから現状に不満だ)ということでしょうか。しかしこの説明は、あまりにも無理があります。

大澤のいうように、「ひとは希望をなくすにつれて現状に満足するようになる」と考えるならば、1970年代~90年代のように、年齢とともにに生活満足度が上がっていくのが通常の姿です(年をとると「先が見えてしまう」のです)。それが急激に下がっているとすれば、2000年以降、日本の中高年世代に“なにか特別のこと”が起きたと考えるほかはありません。

このことは、私が『大震災の後で~』で述べた、「1997年のブラックスワンが日本の中高年層を直撃し、累計で10万人を超える死者を出す“見えない大災害”を引き起こした」という仮説と整合的です。彼らは若者たちのような“漠然とした不安”ではなく、経済的な“リアルな危機”に見舞われているのです。

それともうひとつ、このグラフがきわめて示唆的なのは、現在の20代の若者たちが(おそらく)戦後もっとも「幸福」だとしても、その生活満足度は、今後、年をとるにしたがって急速に下がっていくだろう、ということです。そしてまた、いまよりもさらに「幸福」な若者たちが、登場することになるのでしょう。

グローバリズムによって人類は幸福になり、ウォール街は占拠された 週刊プレイボーイ連載(24)

「ウォール街を占拠せよ」という若者たちの運動が、アメリカの政治を揺るがしています。FacebookやTwitterなどのSNSを通じてまたたくまに広がり、ニューヨークのブルックリン橋を占拠し、700人が逮捕・拘束される騒ぎにまでなりました。

アメリカやヨーロッパでデモや暴動が頻発するのは、グローバリズムによって人類が幸福になったからです。もちろんこれではなんのことかわからないので、順を追って説明してみましょう。

冷戦がつづいた80年代までは、一部のゆたかな国と、それ以外の貧しい国の経済格差が大きな問題となっていました。一人あたりの名目GDPで比較すると、1990年の中国の所得は、日本人の約70分の1しかなかったのです。

グローバルな市場経済というのは、かんたんにいうと、同じトヨタの車をつくるのなら、日本のサラリーマンも中国の工員も最終的には同じ賃金になる、という世界です。アジアだけでなく、アメリカと中南米や、西ヨーロッパと東ヨーロッパの間でも同様の関係が成立しています。

こうしたことが起きるのは、北(先進国)と南(発展途上国)の経済格差があまりにも大きかったからです。そのため、安い人件費で商品をつくるだけで、企業家は法外な利益を手にすることができたのです。

経済のグローバル化によって、貧しい国のひとたちの所得が大きく増えました。たとえば中国では、一人あたりGDPはこの20年間で約15倍になり、日本との差も9分の1にまで縮まっています。それに対して先進国はどこも低成長にあえいでおり、所得も頭打ちです。

ところで、先進国のひとたちの所得が1割減るかわりに、中国(13億人)やインド(12億人)のひとたちの所得が倍になれば、人類全体としての幸福の総量は明らかに増えています。これが、「グローバリズムによって人類は幸福になった」という理由です。

しかしこれは、バラ色の未来というわけではありません。市場の富はみんなに平等に分配されるわけではなく、北と南の(マクロの)経済格差が解消する一方で、先進国でも発展途上国でも、国民のあいだの(ミクロの)経済格差が拡大してきたのです。

その結果アメリカでは、一部の富裕層に富が集中し、世界一ゆたかだった中流層が没落しはじめました。こうして、さまざまな政治的軋轢が生じるようになったのです。

ティーパーティーと呼ばれる保守的な白人中流層は、移民を制限すると同時に、貧しいひとたちへの所得の再分配を拒否します。彼らが「小さな政府」を求めるのは、自分たちがゆたかさから脱落しつつあることに怯えているからです。

一方、「ウォール街を占拠せよ」の若者たちは、金融機関の救済を批判し、富裕層への増税によって社会保障を充実させる「大きな政府」を求めています。アメリカの若者(20~24歳)の失業率は15パーセントを上回り、7人に1人が無職のままで、彼らは将来の貧困に怯えています。

このように、ティーパーティーとウォール街を占拠する若者たちは、グローバル化のなかでの「中流の没落」という同じコインの裏表です。問題は両者の主張に妥協の余地がないことで、だとすればアメリカの分裂は歴史の必然だったのです。

 『週刊プレイボーイ』2011年10月24日発売号
禁・無断転載