【夏休み推薦図書】インドヘ馬鹿がやって来た

暑い日が続いていますが、そんな時に元気になれる本『インドヘ馬鹿がやって来た』を紹介します。

80年代に麻雀、パチンコ、競輪などのギャンブルマンガで活躍した著者の山松ゆうきち(1948年生まれ)は、2003年に初のベスト集『山松』を刊行するが、その頃から仕事がなくなり、好きなギャンブルにも行けなくなったことから、一攫千金を狙うことを決意する……。

山松が思いついたビジネスは、インドで日本のマンガを翻訳出版するというものだった。理由は、以下のとおり。

  1. インドにはひとがたくさんいる。
  2. インドにはマンガがない。
  3. ないものは売れるに決まっている。

このとき山松は56歳で、インドはもちろん海外旅行に行ったことすらなく、英語もヒンディー語もまったく話せず、おまけに現地に1人の知り合いもいなかった。そのうえS字結腸をガンで取ってしまったため排便に難がある。それでも60万円ほどの現金を持ってインドに渡り、身振り手振りと「旅の指指し会話帳」だけでなんとか安アパートを借り、“インド初”のマンガ出版を目指す。

山松が翻訳第一弾に選んだのが、平田弘史の『血だるま剣法』。差別の宿命を背負った天才剣士の復讐譚で、部落解放同盟の抗議を受けて回収・絶版の後に、評論家・呉智英の再評価を受けて復刻を果たした幻の傑作だ。山松は、インドにもカースト制という差別社会が残るのだから、差別される者の怒りと悲しみを描いたこの作品が、ひとびとのこころをとらえるにちがいないと考えたのだ。

言葉も通じず、右も左もわからない山松は、ヒンディー語の翻訳者を探し、印刷会社を手配し、インド版『血だるま剣法』を完成させるべく悪戦苦闘する。英語ではなくヒンディー語にこだわったのは、マンガは知的エリートのものではなく、あくまでも大衆の娯楽だという信念からだ。本書の魅力は、理不尽な出来事の数々を飄々と乗り切り、半信半疑のインド人たちを味方につけて、“夢”を実現していく過程にある。

ようやく『血だるま剣法』100冊ができあがったのは日本に帰国する3日前で、山松はそれを路上で叩き売りするが、けっきょく1冊も売れなかった……。

しかし、山松はあきらめなかった。はじめてのインド体験で、ひとびとの食事が粗末なことと、娯楽が少ないことに気づいて、インドでうどん屋を開き、そこで漫才をやれば一攫千金が実現すると思いついたのだ。その経緯を描いたのが、第2作『またまたインドへ馬鹿がやって来た』だ。

この2冊を読むと、ひとは何歳になっても“冒険”ができると勇気が湧いてくるにちがいない。ゼロから市場を創造するベンチャーのケーススタディとしても最適で、日本の大学や経営大学院はつまらない授業をやめて、本書を教科書にするか、山松を講師に招いて学生たちに起業体験を語ってもらうといいだろう。

山松にはまだインドでのビジネスのアイデアがあるようだが、資金難で実現できないという。変わり映えしない事業計画ばかりでうんざりしているベンチャーファンドのファンドマネージャーはぜひ、真の起業家である山松に投資して3度目の“冒険”を実現させてほしい(クラウドファンディングもいいかもしれない)。

みたび馬鹿がやってくる日を、インドのひとびとは待っている(たぶん)。

議論するほど亀裂は深まる  週刊プレイボーイ連載(62)

日本のエネルギー政策について国民の声を聴く聴取会が混乱に陥っています。

会議のルールを決めたのは大手広告代理店で、2030年の原発比率を0%(脱原発)、15%(漸減)、20~25%(現状維持)のいずれにすべきか3つの選択肢を示して希望者を募り、そのなかから3名ずつを抽選で選んだところ、電力会社の社員が相次いで原発の必要性を述べたため、反原発派の聴衆が強く反発して会議が紛糾した、という次第です。

聴取会への批判は、「電力会社の社員は原発の利害関係者で、個人ではなく会社の主張を述べているだけだ」とか、「世論調査では脱原発の意見が圧倒的なのに、すべての選択肢で同じ人数が発言するのはおかしい」というものです。たしかにもっともなような気もしますが、次のような疑問も浮かびます。

電力会社が社員に聴取会への応募を呼びかけていたとか、発言者に原発維持の意見を述べるよう指導していたなら問題でしょうが、そのような事実はないようです。だとすれば、電力会社の社員であっても国民の1人である以上、自由な発言の権利は保障されるべきではないでしょうか。

多数派には無条件でより大きな決定権が与えらるという考え方は、「多数派による専制」と呼ばれます。健全な民主政のためには少数意見を尊重すべきだということは、中学校の公民の教科書にも書いてあります。聴取会において原発推進派は圧倒的な少数派なのですから、私たちは彼らの意見にこそ真剣に耳を傾けるべきなのかもしれません。

とはいえ、反原発派の怒りにも理由がないわけではありません。この聴取会は、最初から結論が決まっているからです。

天ぷら定食に松竹梅の3つのコースを用意すると、大半のひとが竹を注文することはよく知られています。私たちは無意識のうちに極端な選択を嫌い、中庸を好むのです。こうした習性を利用して、店はもっとも利幅の大きな料理を竹にして、その上下に松と梅を配置するのです。

それと同様に、エネルギー政策の聴取会では、はじめに「原発漸減(竹)」という結論があって、その上下に「原発廃棄(松)」と「原発推進(梅)」という極端な意見が配置される構図になっています。脱原発派が「フクシマの後にこれまでと同じ原発政策をつづけることは許されない」と正論を述べ、推進派が「日本の電力は原発なしでは維持できない」とデータで反論します。両者の意見は真っ向から対立して合意は不可能ですから、それを聞いたひとは、無意識のうちに中庸を選んで「原発漸減」の竹コースを支持するようになるのです。

エネルギー政策聴取会は、原発問題に対して国民的な「熟議」の場を提供することを目的としていました。ところが実際にやってみると、罵詈雑言で議論どころではありません。おまけに結論が決まっているとしたら、なんのためにこんなことをしているのか疑問に思うのは当然です。

原発をめぐるはげしい意見の対立を前にして、「熟議」を説くひとたちがいます。しかし聴取会の現実は、「議論するほど亀裂が深まる」というやっかいな問題を私たちに突きつけているのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年8月6日発売号
禁・無断転載

日本人はアメリカ人より裁判が好き?

すこし前の本だが、興味深いデータを見つけたので紹介したい。

ハーバード・ロー・スクールを卒業後、日産自動車法規部などを経て、東京大学大学院(法学政治研究科)で教鞭をとるダニエル・フットは、「アメリカ人は訴訟好き」「日本人は訴訟嫌い」という“常識”に疑問を持った。

フットは、『裁判と社会―司法の「常識」再考』のなかで、日本(2000年)、アメリカ(2001年)、中国(1995年)で行なわれた大規模意識調査を例に挙げる。

質問者はまず、以下のような3つの仮想事例を提示した。

【友人との紛争】ある人が友人に1カ月分の給料にあたる金額を貸しましたが、返済期限がきても友人はその金を返そうとしません。友人と交渉しても、友人はその金を返しません。その場合、その人が次の行動をとることをどう考えますか?

【電器屋との紛争】ある人が電器屋から1カ月分の給料にあたる価格の電気器具を買ったところ、それは不良品でした。電器屋に新品との取り替えを求めても、電器屋はそれに応じませんし、売買を解除し代金の返還を求めても電器屋はそれに応じようとしません。その場合に、その人が次の行動をとることをどう考えますか?

【交通事故の紛争】ある人が交通事故にあって1カ月入院の傷害を負いましたが、特に後遺症は残りませんでした。被害者が、治療費と入院中の収入の賠償を求めて交渉しても、加害者は賠償金を支払いません。その場合にその人が次の行動をとることをどう考えますか?

それぞれの質問に対し、回答を下記の5つの選択肢から選んでもらった。

  1. 相手が支払わないならば、それであきらめ、特別な行動をとろうとしない
  2. 共通の知り合いである有力な人に相談する
  3. 法律の専門家に相談する
  4. 弁護士会の調停制度その他を利用する
  5. 裁判所に訴える

その結果をまとめたのが下図だ(選択肢2の「共通の知り合いへの相談」と選択肢3の「法律の専門家への相談」は「相談」としてまとめれらている)。ここでは、「好ましい」ものほど点数が低く、「好ましくない」ものほど点数が高いことに注意してほしい。

ダニエル・フット『裁判と社会』(NTT出版)より

これを見れば明らかなように、日本、アメリカ、中国ともに、もっとも「好ましくない」選択肢は「行動なし(泣き寝入り)」で、次に「好ましくない」のは裁判だ。そして多少の差はあるものの、日本人、アメリカ人、中国人の“紛争処理”に対する考え方はとてもよく似ている。

3つのケースは、親しい関係(友人)、赤の他人(交通事故)、その中間(電器屋)という人間関係の濃淡で分かれている。もっとも疎遠な交通事故の加害者に対しては、相談や調停と裁判がほぼ同率になっている。それに対して友人との紛争では、裁判よりも相談や調停を好むのはどの国も同じだ。

この調査結果をもとにフットは、「アメリカ人は日本人よりも訴訟好きだ」という常識に異を唱える。弁護士以外では、裁判が好きな人間などどこにもいないのだ。

とりわけ友人との紛争では、わずかな差であるものの、日本人よりもアメリカ人のほうが裁判に抵抗を示すことに注目してほしい。

フットはこれを、日本よりもアメリカのほうが地域共同体が機能しているからではないか、と推測している。アメリカの田舎ではまだ教会を中心としたコミュニティがあるが、日本の町内会や自治会は私人間の紛争を解決する能力を失ってしまったのだ。また、日本やアメリカよりもはるかにベタな人間関係のなかで暮らしているはずの中国人が、友人間の紛争を訴訟で解決することにもっとも抵抗がないことも興味深い。

交通事故の紛争解決で日本人が裁判よりも相談や調停を好むことも、文化のちがいではなく制度によって説明できる。フットによれば、日本ほど効率的な裁判外の交通事故処理システム(交通事故紛争処理センター」など)を持っている国はないのだ。

それでは、アメリカではなぜあれほど訴訟が多いのだろうか? これは一般には、日本とアメリカの弁護士の数が理由とされるが、司法改革で弁護士を増やしても日本の訴訟数が大きく増えたという事実はない(いまでも日本の裁判は、少額の訴訟を中心に多くが本人訴訟で争われている)。

フットは、アメリカ人が訴訟を起こす理由を、ディスカバリー(証拠開示手続)制度にあるという。アメリカでは、トライアル(正式事実審理)に先立ち、(秘匿特権の対象にならないかぎり)当事者は、原則として訴訟での争点に関連したすべての情報を提出しなければならない。この制度によって、医療事故などでは、金銭賠償よりも「なにが起きたのか真実を知りたい」という理由で訴訟が提起されることも多いという。

アメリカ人は、紛争が生じたらまず訴訟を起こし、ディスカバリーによって相手に証拠書類を提出させ事実関係を確定させたうえで、有利な和解を探ろうとする。そのため民事訴訟の和解率はきわめて高く、2002年、アメリカの連邦地方裁判所に提起された民事訴訟のうちトライアルに至ったのはわずか1・8%に過ぎない(大半は和解か、裁判外で和解が成立したことによる取り下げ)。州裁判所(22州の平均)でも、2002年の民事事件のうち15.8%しかトライアルに至っておらず、この現象は「消え行くトライアル」と呼ばれている(日本の和解率は約5割)。

アメリカにおいて訴訟が交渉の入口なのに対して、日本では当事者同士の交渉や調停によって和解の道を探り、交渉が決裂したら最終手段として裁判に訴える。日本の民事訴訟法にも当事者照会や文書提出命令などの制度があるが、アメリカのディスカバリーに比べればその効力ははるかに弱く、原告は訴訟の前に自力で事実関係を確定させておかなくてはならない。

それ以外でも、強制執行の欠陥(日本では、支払う気のない債務者からの債権回収はほとんど不可能)や損害賠償額の低さ(裁判をしてもしょうがない)など、さまざまな制度的要因によって、日本人は文化的(和を尊ぶ)ではなく経済合理的な理由から訴訟を忌避しているのだ。

司法改革は、こうした司法制度の根幹に手をつけなくては機能せず、いまのままでは法科大学院に湯水のごとく税金を注ぎ込み、弁護士の失業を増やすだけで終わることになるだろう。