いじめ自殺はなぜ公立中学で起こるのか? 週刊プレイボーイ連載(60)

滋賀県・大津市立中学2年生の男子生徒(当時13歳)が昨年10月に自殺し、大きな社会問題になっています。さまざまな議論がなされていますが、ここではなぜ、いじめ自殺は公立中学でしか起こらないのかを考えてみたいと思います。こうした悲劇は、高校や私立中学が舞台となることはほとんどないのです。

高校でいじめ自殺が起きない理由は、誰でもすぐにわかります。高校は義務教育ではないので、いじめられて学校がイヤになった生徒は退学してしまうのです。だとしたら中学も義務教育をやめて、自由に退学できるようにすればいじめ自殺はなくなるはずです。もちろん「中学中退」ではその後の人生はきびしいものになるでしょうが、死んでしまうよりはずっとマシです。

「義務教育の廃止」という劇薬を飲む前に、私立中学ではなぜいじめ自殺が起こらないのかも考えてみましょう。これはもちろん、私立中学の生徒の倫理観が高かったり、教師が理想の教育に身を捧げているからではありません。私立だろうが公立だろうが、生徒も教師も同じようなものです。

私立中学と公立中学では、いじめに対するインセンティブ(動機)と選択肢がちがいます。わかりやすく説明してみましょう。

公立中学の教員は公務員ですから、いじめ自殺のような事件が起きると社会からバッシングされますが、首をすくめて嵐が過ぎるのを待っていれば、いずれは平穏な生活が戻ってきます。

それに対して都市部の私立中学ははげしい生徒の獲得競争をしていて、いじめ自殺はもちろんのこと、「あの学校は荒れている」という評判が立っただけで、優秀な生徒を他校に取られてしまいます。入学者が激減すれば経営が成り立たず、学校は倒産、教師は解雇されてしまうかもしれません。私立中学の経営陣や教師は、「悪い評判を立ててはならない」という強力なインセンティブに動かされているのです。

私立中学では、いじめを根絶するためにどのような手段を使っているのでしょうか? これはきわめてかんたんで、問題のある生徒は片っ端から退学処分にしてしまうのです。

これはかならずしも「教育的」とはいえませんが、それでもいじめに対する生徒のインセンティブを大きく変えていきます。私立中学でも教師に気づかれない陰湿ないじめはあるでしょうが、彼らも損得勘定くらいできますから、暴行や恐喝のような「退学リスク」の大きないじめは抑制されるのです。

それに対して公立中学の教師は退学という“暴力”を行使することができず、いじめる側の生徒とも3年間つき合っていかざるを得ません。こうした生徒はクラス内での影響力が大きく、きびしい指導で対立すると学級運営が崩壊してしまいます。大津の事件でも、暴力行為を目撃した教員が「あんまりやりすぎるなよ」と注意しただけだったと批判されていますが、それ以上のことなどできない、というのが現場の本音ではないでしょうか。

未来に大きな可能性が待っているのに、わずか13歳で生命を絶つほど悲惨なことはありません。こうした悲劇を繰り返さないためには、すべての中学を民営化して生徒の獲得を競わせると同時に、退学処分の権限を与えればいいのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年7月23日発売号
禁・無断転載

政治家が官僚を叩くと日本はギリシアになる?

資料を整理していたら面白い研究を見つけたので紹介したい。日経新聞2012年5月21日(朝刊)の経済教室に、「日本は南欧化するのか?」として、鶴光太郎慶大教授が寄稿した記事だ。

ここで取り上げられる問題は、次のふたつだ。

  1. 先進国のなかで、アングロサクソン(英米)のように小さな政府を志向する国と、ヨーロッパのように大きな政府を志向する国があるのはなぜか?
  2. 大きな政府を志向するヨーロッパのなかでも、財政が健全な北欧諸国と、不健全な財政に苦しむ南欧諸国に分かれるのはなぜか?

その回答として、他人への信頼度(公共心)と福祉の規模をマッピングした研究がある。それが下図だ。

この図では、他人への信頼度(公共心)が低い国(ポルトガル、ギリシア、フランス、イタリア、スペイン)は福祉の規模が大きく、信頼度が高くなるにつれて福祉の規模は小さくなっていく(アングロサクソン国)が、より公共心が強まるとふたたび福祉国家を志向するようになる(北欧とオランダ、デンマーク)。鶴氏はこれを、次のように説明する。

公共心が高い(脱税や社会給付などの不正受給がない)国では、より高い税負担をしてもその分が確実に返ってくるのだから、ひとびとは高福祉の国を支持するだろう。

その一方で、公共心のないひとたちも、より強く再分配政策を求めるにちがいない。彼らは税負担を逃れながら、福祉にただ乗りすることができるからだ。

このように考えると、公共心の高いひとが増える場合だけでなく、公共心のないひとが増えた場合でも、国民は大きな政府を求めることがわかる。高福祉国には、「まじめな国民・公務員が多いために、大きいが効率的な福祉国家」と、「不正を働く国民・公務員が多いため、大きく非効率的な福祉国家」の2種類が存在するのだ。

その一方で、公共心が中程度の国は国民の再配分への指示は相対的に弱く、小さな政府が志向されるという。

まわりのひとたちへの信頼感や公共心への評価が高く、政府機関への信頼が厚いほど福祉国家への支持が強いのは誰でもわかるだろう。だが「欧州社会調査」や「世界価値観調査」などを分析すると、「政府からの不正受給、交通機関の無賃乗車、脱税、収賄、ごみの不法投棄、盗難品の購入」などが正当化されると考えるひとが多い国でも福祉国家への支持が強かったのだ。

それでは、日本はどうだろう。

鶴教授によれば、日本人の他人への信頼度は欧米先進国のなかでは中程度で、過去25年にわたって目立った変化は見られないものの、「政府への信頼」に関する質問では、議会や公的サービスに極端な不信を持つ層が確実に増えており、欧米先進諸国と比べても高い部類に入るという。

民主党への政権交代以来、「官僚支配」批判が大流行している。各政党は、どれだけ官僚を叩いたいたかを競っている。日本が「省庁連邦国家(United Ministries of Japan)」であることを考えればこうした批判は理由のないことではないが、この研究によれば、政治家が官僚や行政を叩けば叩くほど国民は政府を信頼しなくなり、公共心が低くなって、いずれ日本は南欧化していくことになるのだ。

小沢一郎はなぜエラそうなのか? 週刊プレイボーイ連載(59)

小沢一郎が50人ちかい議員を引き連れて民主党を離党しました。これが自滅への道なのか、政界再編の立役者として返り咲くのかはわかりませんが、マスコミの扱いの大きさを見ても、いまでも日本でもっとも注目を集める政治家であることは間違いありません。

ベストセラーとなった『日本改造計画』の小沢一郎は、日本を「ふつうの国(グローバルスタンダードの国)」にしようとする開明的で合理的な政治家でした。元秘書だった石川知裕が『悪党―小沢一郎に仕えて』で描いたのは、自宅で書生に雑巾がけをさせる古色蒼然たる“オヤジ”の姿です。自民党から新進党、自由党、民主党への遍歴のなかで袂を分かったかつての仲間たちは、ひとをひととも思わぬ残酷さにそろって怨嗟の声をあげます。

政治家なら誰もがいちどは小沢一郎に憧れ、やがて裏切られ捨てられていく。しかしいつのまにか、新人議員たちが彼のまわりに集まってくる。そんな不思議な魅力と複雑な人格(キャラ)が人気の秘密なのでしょう。

ところでここで考えてみたいのは、小沢一郎はなぜあんなにエラそうなのか、ということです。

特定の集団のなかで、お互いに相談しあってなにかを決めることはよくあります。こうした集団での決定を観察すると、そこに簡単明瞭な法則があることが知られています。それは「最初に自信たっぷりに発言したひとの決定に従う」ことと、「一貫していてブレない主張を信じる」ことです。

ここでのポイントは、その主張が正しいかどうかはどうでもいい、ということです。どんなデタラメでも同じことを自信にあふれた口調で繰り返していると、それを信じるひとが出てきます。その人数が増えてくると、さらにまわりを巻き込んで、大きな集団をつくっていきます。カルト宗教から革命まで、歴史はゴーマンな人間を中心に回っているのです。

こうしたテクニックは、会議の冒頭でいきなり大声を出してジコチューな発言をする、というような場面で使われます。これはきわめて効果的な方法で、どんな批判にもいっさい妥協せず頑なに同じ主張を繰り返していれば、やがて相手が折れて議論に勝つことができるでしょう(ネットでもよく見かけます)。

その一方で、この方法にはリスクもあります。たんなる演技では“上から目線”と馬鹿にされ、総スカンを食ってしまうのです。ゴーマンにはそれなりの作法というか、存在感が必要なのです。

永田町にもゴーマンが似合う政治家はほとんどいなくなってしまいました。どこを見ても、甘やかされた二世議員か頭のいいお坊ちゃん(お嬢ちゃん)ばかりです。彼らは腰が低く、さわやかな笑顔で有権者にすり寄りますが、エリート臭さを見透かされて大衆的な人気を獲得することができません。

その意味で小沢一郎は、いまや絶滅危惧種となった傲岸不遜な政治家です。

ひとびとが合理的な意見よりもエラそうな主張を好むなら、小沢一郎の「賞味期限」はまだ切れてはいないのかもしれません。

 『週刊プレイボーイ』2012年7月16日発売号
禁・無断転載