第72回 パラダイス文書、守秘はどこへ(橘玲の世界は損得勘定)

鳴り物入りで報道が始まったパラダイス文書だが、エリザベス女王やロス米商務長官の名前が出たもののその後は失速気味だ。

日本では鳩山元総理や有名マンガ家の関与が報じられたが、記事を読むと、名誉会長に就任した香港の上場企業がたまたまバミューダ籍だったとか、節税目的で不動産リースの投資事業組合に出資したところ、その組合がたまたまバミューダに設立されていた(おまけにその節税スキームは国税庁に否認され、出資者は追徴課税された)とかで、本人がタックスヘイヴンを悪用して違法な税逃れをしたという事実はない。

こんなことになる理由のひとつは、パナマ文書とは異なり、文書が流出したのがバミューダを拠点とする法律事務所だったからだろう。カリブ海のバミューダ諸島はイギリスの海外領土だが、ニューヨークからは飛行機でわずか2時間の距離。通貨バミューダ・ドルは米ドルと等価で、経済を支えるのは米国からの観光客だ。実態はアメリカの「経済領土」という豆粒のような島が、「主権」を盾に米司法・税務当局の圧力に抵抗できるとも思えない。

タックスヘイヴンとしての守秘性が覚束ないなら、法律事務所はトラブルになりそうな顧客との関係を避けようとするだろう。脱法行為をたくらむ側も、そんな場所にあやうい情報を預けようとはしないはずだ。こうして、「大山鳴動して鼠一匹」になる。

もうひとつの理由は、度重なる情報流出によって、タックスヘイヴンの利用者が対策を立てているからだろう。

2008年には、リヒテンシュタインの大手銀行LGTの元行員がドイツ当局に顧客情報を約8億円で売り渡した。09年には、そのことを知ったスイス・ジュネーヴのHSBCプライベート・バンキング部門の元行員が、12万7000件の顧客情報を盗み出し、フランス・イタリア・スペインなどの司法・税務当局に提供した。

「スイスリークス」と呼ばれたこの事件では、主謀者は金銭的な見返りを得られなかったが、ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)が口座情報の一部をインターネット上に公開したことで「脱税のスノーデン」と呼ばれる“ヒーロー”に祭り上げられた。また08年にはプライベートバンク最大手UBSの米国部門トップが脱税ほう助の疑いで身柄を拘束され、情報提供した元行員にはその後、約140億円もの報奨金が支払われた。パナマ文書以前に、すでにタックスヘイヴンの「守秘性神話」は崩壊していたのだ。

経済のグローバル化によってタックスヘイヴンを利用する取引は増えていくが、その大半は合法的なものだ。来年からは、日本や香港、シンガポールなどが参加するCRS(国際的な口座情報自動交換制度)の運用が本格化する。ICIJはタックスヘイヴンに関与した膨大な個人情報をインターネットで一方的に公開しているが、わずかな「不正」を暴くためにこうした手法が正当化できるのか、いずれ問われることになるだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.72『日経ヴェリタス』2017年11月25日号掲載
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人生をリセットするボタンがあれば… 週刊プレイボーイ連載(315)

どんなロールプレイングゲームにもリセットボタンがついているのに、いちばん面倒なゲームである「人生」にリセットボタンがないのは理不尽だ。いまから四半世紀も前にこんな主張をした本が、10代や20代の若者たちの圧倒的な支持を受けてミリオンセラーになりました。服薬から首吊り、投身、自刃、焼身、餓死までさまざまな自殺の方法を紹介した『完全自殺マニュアル』は一部で有害図書に指定されるなど物議をかもしましたが、この本で若者の自殺が急増するような事態は起きませんでした。読者は自殺に興味はあっても、実際に死のうとは思わなかったのです。

いまもむかしも、自我が不安定な若者が「死」という未知の体験に引きつけられるのは同じです。といっても、若者の自殺率がもっとも高かったのは日本が戦争へと突入していく1940年前後で、近年の特徴は40代、50代男性の自殺が増えていることです。これは、自殺が経済的要因に強く影響されることを示しています。男は打たれ弱いので、バブル崩壊後のリストラで失業率が上昇するとそれに応じて自殺者が増えていきます。人手不足で失業率が下がるにつれて自殺者が減ったのも同じ理由でしょう。それに対して女性の自殺率は、経済要因にほとんど影響されません。

座間で起きた猟奇殺人の被害者の多くは、追い詰められていたというよりも、死についてのロマンチックな願望を共有する相手を探していたのでしょう。とはいえ、ふつうは身近にそのような都合のいい人物がいることはなく、ラノベやアニメ、マンガなどが代替してきました。

ところがSNSは、こうしたヴァーチャルな体験をリアルな出会いに変えることができます。そしてサイコパスは、このネットワークツールを利用することで、“ダークな”ロマンスに憧れる若い女性をきわめて効率的に誘惑することができたのです。

産業革命に始まるさまざまなイノベーションは人類の生活水準を大きく改善してきましたが、新しいテクノロジーが登場すればかならずそれを悪用する人間が出てきます。人種や宗教、国籍にかかわりなくひとびとをつなげ、よりよい世界をつくるというフェイスブックの高邁な理想が、フェイクニュースの温床となって極右の台頭やトランプ大統領を生み出したのもそのひとつです。

現代の進化論によれば、ヒトの脳にプレインストールされているOS(基本プログラム)は旧石器時代とほとんど変わりません。私たちが求める幸福や愛情は、原始人と同じなのです。それにもかかわらず、科学技術の進歩によって環境だけが急速に変わっていきます。これでは多くのひとが適応不全におちいるのも当然です。

AI(人工知能)の実用化が現実味を帯びてきたことで、環境の変化は今後さらにはげしくなっていくでしょう。サイコパスは社会のなかにつねに一定数存在するのですから、今回のような猟奇事件がいつまた起きても不思議はありません。

もっとも、「人生をリセットするボタン」が発明されれば別かもしれませんが。

『週刊プレイボーイ』2017年11月27日発売号 禁・無断転載

専業主婦は2億円損をする 週刊プレイボーイ連載(314)

日本はこれからどんどん「格差社会」になっていきます。しかしこれは、一部のひとがいうような「グローバル資本主義の陰謀」というわけではありません。

いちばんの原因は高齢化です。大学生の頃は貯金などないのが当たり前でも、その後の人生の有為転変のなかで、ゆたかな暮らしを手に入れるひとと零落するひとに分かれていきます。「陰謀」などなくても、社会が高齢化すれば自然に格差は開いていきます。

それに加えて「人生100年」の時代では、ずっと働きつづけるひとと、60歳(あるいは65歳)で定年という“強制解雇”を迎えるひとのあいだで大きな格差が生じます。年収200万円でも60歳から80歳まで20年間働けば4000万円になり、「(100歳までの)老後」は40年から20年に縮まるのですから、「生涯現役」の経済効果はとてつもなく大きいのです。

安倍政権の「人生100年時代構想」の影響もあって、この不愉快な現実をひとびとはしぶしぶ認めるようになりましたが、いまだにちゃんと理解されていないのが「専業主婦は敗者の戦略」ということです。

経済学では労働市場から収益を得るちからを「人的資本」と呼び、「金融資本」と並ぶ富の源泉としていますが、専業主婦は20代後半、あるいは30代前半でこの人的資本を放棄してしまいます。大卒女性の平均的な生涯収入は2億円ですから、彼女たちは(そして妻に専業主婦を望む夫たちも)2億円をドブに捨てていることになります。それにもかかわらず、「お金がない」といって(当たるはずのない)宝くじ売り場に並ぶのでは、なにをやっているのかわかりません。

最近は、子育てが終われば働きはじめる母親が増えてきました。しかしそのほとんどは非正規の仕事で、正社員としてキャリアを積み上げてきた女性の収入とは比べものになりません。こうして、キャリアと非正規や専業主婦との「女性格差」も広がっていくでしょう。

さらに問題なのは、専業主婦の夫の多くがサラリーマンで、60歳で“強制解雇”されてしまうことです。そうなると夫婦ともに人的資本はゼロなのですから、あとは乏しい年金を分け合うしかありません。「カネの切れ目が縁の切れ目」というように、夫の退職後、お金をめぐって夫婦仲が険悪になり熟年離婚に至るケースはますます増えるでしょう。

そう考えれば、日本の未来に待ち構えている「超格差社会」がどのようなものかがわかります。それは、子どもが生まれても妻が仕事を続け、夫婦ともに専門知識や経験を活かして定年後も収入を得る「生涯共働き」の家庭と、老後破産の恐怖に脅える人的資本のない高齢者世帯のあいだにとてつもない「経済格差」が生じる社会のことなのです。

経済合理的な生き方はどこでも同じで、欧米諸国は先行して「共働き」と「生涯現役」が当たり前になっています。これはすこし考えれば誰でも気がつく1+1=2のような話ですが、日本では不思議なことに誰も指摘しないので『専業主婦は2億円損をする』(マガジンハウス)で書きました。将来を真剣に考えるならぜひご一読を。

『週刊プレイボーイ』2017年11月20日発売号 禁・無断転載