言ってはいけない真実が示す、親と子の幸福なあり方

ジュディス・リッチ・ハリス『子育ての大誤解〔新版〕』のために書いた「解説」を、出版社の許可を得て掲載します。

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『子育ての大誤解』は掛け値なしに、これまででわたしがもっとも大きな影響を受けた本のひとつだ。なぜなら長年の疑問を、快刀乱麻を断つように解き明かしてくれたのだから。

いまでいう「デキ婚」で24歳のときに長男が生まれたのだが、その子が中学に入るくらいからずっと不思議に思っていたことがあった。親のいうことをきかないのだ、ぜんぜん。

13~14歳のガキと30代後半の大人では、経験も知識の量も圧倒的にちがう。どちらが正しいかは一目瞭然なのに、それを理解できないなんてバカなんじゃないのか、と思った。

しかしよく考えてみると、自分も親のいうことをまったくきかなかった。だとすればこれは因果応報なのだとあきらめたのだが、それでも謎は残った。楽に進める道と、ヒドい目にあうことがわかっている道があって、親が懇切丁寧に楽な道を教えてやっているのに、なぜわざわざ失敗する道を選ぼうとするのか。

これはおそらく、世のすべての親にとって切実な疑問だろうが、ジュディス・リッチ・ハリスは、これ以上ないくらい明解なこたえを示す。それは子どもが、親のいうことをきくように「設計」されていないからだ。

長いあいだ万物を創造したのは神だとされてきたが、ダーウィンが現われて神のほんとうの名前を告げた。それは「進化」だ。わたしたちはみな、生命誕生以来の40億年の長い歴史のなかで、より多くの子孫を残すよう設計された生き物の末裔なのだ。

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親から子へと、外見だけでなく性格や能力も遺伝することはむかしから誰もが気づいていた。これが「氏が半分、育ちが半分」だが、「育ち」とはいうまでもなく子育てのことだ。

遺伝は変えられないとしても、家庭環境によって子どもの人生によい影響を与えることができる。そう信じたからこそ、親たちはみんな頑張ってきた。

ハリスもまた、一人の実子と一人の養子を懸命に子育てした。そして、わたしと同じ疑問を抱いた。なぜこの子たちは、親のいうことをきかないのだろう。

だがハリスがわたしとちがうのは、ハーバードで心理学を学び、研究者への道を絶たれたあとも、在野の学者として「氏と育ち」について考えつづけたことだ。

彼女は、それまで誰も気づかなかった疑問を抱いた。

アメリカのような移民国家では、非英語圏からやってきたばかりの子どもたちはすぐに流暢に英語を話すようになる。

「学校で英語を学ぶのだから当たり前だ」と思うかもしれないが、就学前の子どもの方が言葉の習得はずっと早い。その結果、家の内外で言語を使い分けたり、親が母語で話しかけても英語でこたえるようになるのがふつうだ。

子育てが子どもの人生に決定的な影響を与えるとしたら、子どもはなぜ、親が満足に話せない言葉を先に覚えるのだろうか。その理由はひとつしかない、とハリスはいう。子どもには、親とのコミュニケーションよりはるかに大切なものがあるのだ。それが「友だち関係」だ。

このことを本書でハリスは膨大な証拠を挙げて論じていくが、そのロジックはきわめて説得力がある。

人類がその大半を過ごした旧石器時代は乳幼児の死亡率がきわめて高く、1人の子どもにすべての子育て資源を投入するわけにはいかなかった。できるだけ多く子どもを産み、1人でも2人でも無事に成人するのを期待するほかなかったのだ。

母親は新しく生まれた赤ちゃんに手がかかるから、離乳した子どもを以前と同じように世話することはできない。とはいえ、2歳や3歳の子どもが自分一人で生きていけるはずもない。旧石器時代のひとびとは部族(拡大家族)の集落で暮らしており、幼児の面倒をみられるのは兄姉か、年上のいとこたちしかいない。

女の子が人形遊びを好むのは世界のどこでも同じだ。これはフェミニズムの文脈で、男性中心主義的な文化の強制によるものと説明されてきたが、ハリスは、人形は赤ちゃんの代替で、女の子は幼い弟妹の世話を楽しいと感じるように進化の過程でプログラムされているのだと考えた(男の子も、人形遊びはしないが、弟や妹をかわいがるのは同じだ)。

一方、幼い子どもは親以外の大人を怖がるものの、年上の子どもにはすぐになつく。彼らが親に代わって自分の世話をしてくれる(そういうプログラムを持っている)ことを知っているのだ。

旧石器時代には、授乳期を終えた子どもは集落の一角で、兄姉やいとこたちといっしょに長い時間を過ごしていたはずだ。こうした状況を現代の移民の子どもたちに置き換えてみれば、なぜ彼らが真っ先に英語を覚えるのかがわかる。

両親は、母語を話そうが話すまいが、食事や寝る場所など最低限の生活環境を提供してくれる。子どもにとって死活的に重要なのは、親との会話ではなく、(自分の面倒を見てくれるはずの)年上の子どもたちとのコミュニケーションだ。

ほとんどの場合、両親の言葉と子どもたちの言葉は同一だから問題は起きないが、移民のような特殊な環境では家庭の内と外で言語が異なるという事態が生じる。そのとき移民の子どもは、なんの躊躇もなく、生き延びるために、親の言葉を捨てて子ども集団の言葉を選択するのだ。

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「子育て神話」に挑戦するハリスの武器は、行動遺伝学と進化心理学だ。

行動遺伝学は、一卵性双生児と二卵性双生児を比較して遺伝と環境の影響を統計的に計測する方法を確立した。これによって身長・体重から知能、性格、肉体的・精神的疾患に至るまで、それぞれの遺伝率を正確に推計できるようになった。

進化論と心理学を統合した進化心理学は、直立歩行のような身体的な特徴だけでなく、泣いたり笑ったり怒ったりという感情、すなわちこころも進化の産物だということを明らかにした。脳画像の撮影技術が急速に進歩したことでこの仮説は脳科学のレベルで検証され、心理学は自然科学に吸収されていった。

行動遺伝学がもたらした衝撃は、人生のあらゆる側面で遺伝の影響が(一般に思われているよりもずっと強く)現われる、ということだけではなかった。

一卵性双生児は、受精したひとつの卵子が途中でふたつに分かれたのだから、二人はまったく同一の遺伝子を持っている。それに対して二卵性双生児はふたつの卵子が別々に受精し、遺伝的にはふつうの兄弟姉妹と変わらない。

双生児はこの世に同時に生を受け、通常は同じ家庭環境で育つ。だが一卵性双生児のなかには、一方(もしくは両方)が里子に出されて別々の家庭で育ったケースがある。こうした双子は、遺伝的にはまったく同じで家庭環境だけが異なるのだから、同じ家庭で育った一卵性双生児や二卵性双生児と比較することで、性格や能力の形成における家庭の影響を取り出すことができる。

その結果は、まった予想外のものだった。まず、いっしょに育てられようが、別々の家庭で育とうが、一卵性双生児は同じようによく似ていた。そればかりか、同じ家庭で育った二卵性双生児よりも、別々の家庭で育った一卵性双生児のほうがずっとよく似ていたのだ。

行動遺伝学者も心理学者も、なぜ性格や能力のほとんどで共有環境(家庭)の影響が見られず、(家庭以外の)非共有環境の影響がはるかに大きいのか、その謎を解くことができなかった。そこに大学の博士課程への進学に失敗したハリスが、アカデミズムの外側から、「子どもは友だち関係のなかで人格を形成していく」という思いがけない仮説を提示したのだ。

非共有環境は子ども集団のことだというハリスの「集団社会化論」は今後、さまざまな側面から検証され、人間という不可思議な動物を理解するうえで、その卓見はますます重要性を高めていくにちがいない。

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本書でハリスは私的なことにほとんど触れていないが、続篇にあたる“No Two Alike(同じひとは二人いない)”では、30年にわたって全身性硬化症と(膠原病の一種である)狼瘡(ろうそう/エリテマトーデス)を患っていることが明かされている。いずれも自己免疫疾患の難病で、心臓と肺に重い負荷がかかり、本書の刊行から4年後の2002年には多臓器不全と診断された。歩くだけでも息切れするため、近所の図書館とオフィス用品店より遠くに行くことはできず、1日の大半を自宅で過ごし、病院での検査のときは夫に車椅子を押してもらわなければならない。しかしそんな境遇にへこたれることなく、ハリスは自身をアームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)になぞらえ、インターネットとEメール、そして多くの友人や研究者(そのなかには進化心理学のスター、スティーヴン・ピンカーもいる)の応援を得て独自の研究を進めた。

ラレとラディンはイランの古都シラーズで結合双生児として育ったが、ラディンがテヘランでジャーナリストになりたいのに対し、ラレは田舎に残りたかった。そこで2人は危険を承知で分離手術を受けることを決断し、生命を落とすことになった。この印象的なエピソードから、遺伝子も生育環境もまったく同じ結合双生児がなぜ異なる個性をもつようになるかの謎に挑むのが“No Two Alike”だ。それと同時にハリスは、本書へのさまざまな批判に対してもこの第二作でこたえている。

本書との関連でつけ加えるなら、多くの誤解を生んだように、ハリスは「子育てには意味がない」と主張したわけではない。幼少期に愛情をもって世話をしなければ、健全な成長がさまたげられるのは当然だ。

しかしその一方で、先進国の一般家庭の子育て環境が、人類の歴史のなかではきわめて特殊な、とてつもなく恵まれたものであることは間違いない。子育てに意味がないように見えるのは、子育て環境が一定の水準を超えると、それ以上の改善があまり効果を生まなくなるからだろう。

またハリスは、置かれた環境によって子どもがパーソナリティを変えることも指摘している。家庭では甘やかされた小皇帝のように振る舞っても、同じ態度を学校に持ち込めばいじめの格好の標的になる。子どもは無意識のうちに、子ども集団のなかでの地位に合わせて“ちがう自分”を演じるのだ。――子育て経験者ならこの指摘にもうなずくだろう。

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拙著『言ってはいけない』(新潮新書)でもっとも反響があったのは、ハリスの集団社会化論を紹介し、「親の努力はほとんど無駄になる」と述べた部分だ。

世間では、子育てを経験したひとも含め、親の育て方が子どもの人生を決めると強く信じられている。そしてこれが、子育て中の親(とりわけ母親)にとって強い心理的負担となっている。子どもが社会や学校に適応できなければ、それはすべて親の責任なのだ。

だが現実には、どれほど頑張ってもなんの成果もないことも多い。なぜなら子どもは、友だち関係を優先して親のいうことをきかないように「進化論的にプログラムされている」のだから。

このように考えると、わたしの不愉快きわまりない本を読んだ多くの父親と母親が「ほっとした」「救われた」との感想を述べた理由がわかる。彼ら/彼女たちは日々の子育ての苦労のなかでその事実に気づいていたが、誰にもいうことができず、周囲からの理不尽な暗黙の批判にずっと耐えてきたのだ。

書店には幼児教育の本があふれ、「AI(人工知能)に仕事を奪われないような知識や技術を身につけさせよ」と説く。それは間違ってはいないとしても、知識社会化の進展によって親の負担と不安はますます大きくなっている。本書の親本は2000年の刊行だが、それから一七年を経て、アメリカはもちろん日本でも子育てはさらに難しくなっている。そうした状況を考えれば、本書をあらためて世に出す意義はきわめて大きい。

子どもは遺伝的なちがいを活かし、自ら選び取った友だち関係のなかで「キャラ」をつくり、自分の道を歩き出す。その過程に親が関与することはできないから、子育てには成功も失敗もない。

この文庫版がより多くの読者を得ることで、(かつてのわたしのような)子育てに悩む親が、重い肩の荷を降ろすことができるようになるにちがいない。

『子育ての大誤解〔新版〕』(早川書房) 禁・無断転載

日本社会を「破壊」し腐らせていくひとたち 週刊プレイボーイ連載(301)

年収の高い専門職を対象に、労働時間ではなく成果に基づいて賃金を払う「高度プロフェッショナル制度」をめぐって連合が大混乱に陥っています。政府が労働基準法改正案を国会に提出することを見込んで、残業時間の上限規制を条件に容認に転じたところ、これまで「残業代ゼロ法案」のレッテルを貼って反対してきた傘下の組合が猛反発して合意を撤回したのです。

とはいえ、これは連合の神津会長が安倍総理と直接交渉して決めたことですから、「あの話はなかったことにしてください」ですむわけがありません。日本の労働運動が大きな岐路に立たされたことは間違いないでしょう。

この出来事で興味深いのは、法案に反対するひとたちが、なぜ連合が「残業代ゼロ」を容認したのか理解できず思考停止状態に陥っていることです。彼らは「急に梯子をはずすのは裏切りだ」と怒り狂いますが、なぜ梯子をはずされたのかを考えようとしません。その理由はものすごくかんたんで、そもそも彼らは最初から間違っていたのです。

「共謀罪」については国際機関などから懸念が表明されましたが、「残業代ゼロ」の特徴はそうした“国際社会の連帯”がいっさいないことです。しかしこれは当たり前で、そもそもグローバルスタンダードでは、専門職が成果報酬と引き換えに「残業代ゼロ」なのは常識で、そうなっていない日本の雇用慣行が異常なのです。

この問題の本質は、終身雇用・年功序列の日本独特の雇用制度がかんぜんに行き詰まり、機能不全を起こしていることです。報酬が成果にもとづいていないなら、能力以外のなんらかの要素で給与や待遇を決めるしかありません。それは正社員という「身分」や男性という「性別」、日本人という「国籍」や勤続年数という「年齢」でしょうが、高い能力をもつ人材がこのような制度に魅力を感じるわけはありません。こうして日本企業は、グローバルな人材争奪戦からすっかり脱落してしまったのです。

連合は正社員の既得権を守るための団体でしたが、非正規の数が労働者の3分の1を超えるようになって「労働者の代表」を名乗る正統性が失われてしまいました。それ以前に、旧態依然たる労働慣行にしがみついて会社の経営が成り立たなくなれば、組合員の生活が破綻してしまいます。そう考えれば、「改革」以外に進むべき道はないと執行部が覚悟したのはよくわかります。

差別の定義とは、「本人の意思ではどうしようもないこと」でひとを評価することです。日本的雇用は「身分差別」「性差別」「国籍差別」「年齢差別」の重層化した差別制度で、セクハラ、パワハラや過労死・過労自殺、ブラック企業や追い出し部屋などのさまざまな悲惨な出来事はすべてここから生まれてきます。「働き方」を変えなければ、日本人が幸福になることはできないのです。

ところが現実には、既得権にしがみつきあらゆる改革を「雇用破壊」と全否定するひとたちが(ものすごく)たくさんいます。しかも奇妙なことに、彼らは自分たちを「リベラル」と名乗っています。

連合をめぐるドタバタ劇は、誰が日本社会を「破壊」し腐らせていくのかをよく示しています。本人はまったく気づいていないでしょうが。

『週刊プレイボーイ』2017年8月7日発売号 禁・無断転載

「差別とは無関係」といいながら差別するひとたち 週刊プレイボーイ連載(300) 

民進党の蓮舫代表(7月27日に辞任を表明)が「二重国籍でないことを証明する」ため、戸籍の写しなどを公表したことが波紋を広げています。この問題についてはネットを中心に膨大な議論がありますが、話がややこしくなるのは、「国会議員が二重国籍なのは違法だ」と思っているひとが(ものすごく)たくさんいることです。すでに指摘されているように、公職選挙法では国会議員が日本国籍であることを定めているだけで、二重国籍を排除する規定はありません。

2007年の参院選挙では、国民新党がアルベルト・フジモリ元ペルー大統領を比例代表候補として擁立していますが、フジモリ氏が日本とペルーの二重国籍であることはまったく問題にされませんでした。蓮舫代表のケースでは、国籍についての過去の発言に矛盾があることは確かですが、司法の判断の前に経歴詐称と決めつけ、有権者によって選ばれた議員の資格を一方的に否認するのは民主国家としては明らかに行きすぎです。

戸籍が議論を呼ぶのは、国民を「個人」ではなく「家」単位で管理しようとする、世界では日本にしかない特殊な制度だからです。これは、「普遍的な人権をもつ自由な個人が市民社会をつくりあげる」という近代の理念と相容れません。そのうえ戸籍は、過去において「家柄」や「血筋」を判別する目的で広く使われてきました。

1980年代までは、日本の大手企業は新卒採用にあたって戸籍を入手し、被差別部落出身者や在日韓国・朝鮮人の応募者を排除するのを当然としてきました。銀行などが興信所を使って内定者の身辺調査をしていることも公然の秘密でした。――いまではどちらも、発覚すれば社長が引責辞任するくらいではすまないでしょう。

そのため近年では、行政は第三者への戸籍の公開をきびしく制限し、実務上もできるだけ使わないようにしています。実生活で戸籍が必要なのはパスポートを所得するときだけ、というひとも多いでしょう。戸籍の公開を強要することへの反発には、戸籍と差別が密接に結びついてきた暗い過去があるのです。

蓮舫代表を批判するひとたちは「この問題は差別とは無関係」と繰り返しますが、関連するネット記事への大量のコメントを見れば、「中国」や「韓国」へのヘイト発言を繰り返しているひとたちが戸籍の公開を求めていることは明らかですから、まったく説得力がありません。「自分は差別主義者だ」と公言して差別をする人間などいません。いじめと同様、差別にも常に「(差別する側にとっての)正当な理由」があります。

戦前の日本は一視同仁を建前にしていましたが、「朝鮮戸籍」や「台湾戸籍」をつくって植民地を管理していました。戸籍とは、「純粋な日本人」と「不純な日本人」を区別し、日本国という“家”に「汚れた血」を入れないための制度だったのです。保守派のひとたちが戸籍について触れたがらないのは、こうした不都合な歴史を暴かれたくないからでしょう。

しかしより深刻な問題は、この話を蒸し返したのが、安倍政権を“独裁”と批判し、“リベラル”を標榜する民進党自身だということです。都議選の歴史的敗北をめぐる党内抗争の道具に使ったのでしょうが、リベラルな有権者に与える効果は嫌悪感だけです。「政権交代」を実現したあとはなにひとついいことのなかったこの政党の歴史的な役割も、これで終わったようです。

参考:遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史―民族・血統・日本人』(明石書店)

『週刊プレイボーイ』2017年7月31日発売号 禁・無断転載