靖国神社の宮司が「反天皇」になった理由 週刊プレイボーイ連載(358)

靖国神社の宮司が天皇を批判するという前代未聞の出来事が発覚し、保守派のあいだに激震が走っています。

報道によれば宮司は、「どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう」と今上天皇の慰霊の旅を否定し、「はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか」と述べています。それに加えて、「もし、御在位中に(今上天皇が)一度も親拝なさらなかったら、今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」と語ったようです。

この発言が報じられて宮司は退任の意向を示しましたが、これだけではとうてい収まりそうもありません。靖国神社は明治維新以来の英霊を祀るために、天皇を祭司として建立されました。その天皇を宮司が否定するならば、神社として存続する根本的な理由を問われます。

暴言の背景には、A級戦犯合祀以来、天皇が靖国を親拝していないことがあります。保守派は諸外国の批判に配慮する「君側の奸」を攻撃してきましたが、元宮内庁長官のメモによって、「だから、私はあれ(A級戦犯合祀)以来参拝していない。それが私の心だ」という昭和天皇の発言が明らかになりました。

靖国神社は祭司である昭和天皇にいっさい相談せず、独断でA級戦犯を合祀しています。昭和天皇はそれに納得せず、今上天皇もその意を汲んで、在位中にいちども靖国を訪れない。このままでは皇太子も同じで、「天皇の社」である靖国神社はつぶれてしまうのではないかという危機感が宮司の暴言になったのでしょう。

今上天皇が朝鮮半島にゆかりのある神社を訪問したとき、ネットでは天皇を「反日左翼」とする批判が現われました。従来の右翼の常識ではとうてい考えられない奇妙奇天烈な現象ですが、ネトウヨ(ネット右翼)の論理では、天皇であっても「朝鮮とかかわる者はすべて反日」なのです。

これと同様に、靖国神社の宮司の論理では、英霊に親拝しない天皇は「反靖国」であり、「反日」だということなのでしょう。宮司が会議でこれを堂々と発言し、それに対してなんの反論もなかったということは、神社内部でこうした議論が日常的に行なわれていたと考えるほかありません。驚くべきことに、保守派がもっとも大切にする靖国神社はネトウヨの同類に乗っ取られていたのです。

天皇が靖国に来られない原因をつくったのが自分たちなら、なにをいっても振り上げた拳は自分のところに戻ってくるだけです。A級戦犯合祀が問題の本質である以上、分祀以外に天皇親拝を実現する方法はないでしょうが、それを自分からいうことはできません。靖国神社が独断で合祀したことについて、これまで陰に陽に批判されてきており、それに耐えきれず「なにもかも天皇が悪い」と“逆ギレ”したと考えれば、今回の異様な出来事も理解できます。

靖国神社が「反天皇」であることが白日の下にさらされて、まっとうな右翼/保守派は自らの態度を示すことが求められています。いまのところ、重い沈黙が支配しているだけのようですが。

『週刊プレイボーイ』2018年10月29日発売号 禁・無断転載

記憶による告発はどこまで信用できる? 週刊プレイボーイ連載(357)

1990年、現職警官が悪魔崇拝で有罪を宣告されるという衝撃的な事件が全米を驚かせました。熱心なクリスチャンで共和党地方本部の代表者でもあった父親が、成人した娘から、幼い頃に悪魔を呼び出す乱交パーティで強姦されたと告発され、陪審員がそれを認めたのです。

なぜこの話を思い出したかというと、よく似たことが最近のアメリカで起きたからです。トランプ大統領が連邦最高裁の判事に指名した保守派のブレット・カバノー氏に対し、大学教授の女性が1982年に性的暴行を受けたと告発しました。FBIの調査でも疑惑を裏づける証拠は見つからなかったとして共和党が強行採決し、カバノー氏は最高裁判事に就任しましたが、民主党は納得せずはげしい対立が続いています。

レイプは重大な犯罪ですから、それが事実であればきびしい処罰は当然です。しかしその一方で、証拠もないのに疑惑だけで責任をとれと強要するのでは法治の否定にしかなりません。しかもこれは36年も前の出来事で、どれほど捜査したところで決定的な証拠が見つかる可能性はなく、被害者の証言を信じるかどうかの堂々巡りになるだけです。

アメリカの女性活動家は「被害者が証言すればそれが事実だ」と主張していますが、これについてはリベラル派の知識人からも、「奴隷制時代には、白人女性が“レイプされた”と証言するだけで、なんの証拠もなく黒人はリンチされて殺された」と指摘されています。人権を守らなければならないのは被害者も被疑者も同じで、市民の地位や権利を奪うには法で定められた厳密な手続きが要求されます。

過去の性的暴行の告発を慎重に取り扱うべき理由は、記憶が書き換えられることがわかっているからです。しかも、非常に簡単に。

成人の被験者に対し、親や兄が「お前が5歳のとき、ショッピングセンターで迷子になったことを覚えているかい?」と訊きます。なんの記憶もない被験者は「覚えていない」とこたえますが、「ポロシャツを着た親切な老人がお前を母さんのところに連れてきたじゃないか」「暑い日で、お前が泣き止んでからアイスクリームをいっしょに食べたよね」などとディテールを積み重ねられると、被験者はなんとかしてその体験を思い出そうとし、しばらくすると「ああ、そういわれてみれば、そんなこともあったよね」といいだします。

これは被験者が、ウソだとわかって話を合わせているのではありません。親しいひとから存在しない過去を告げられた脳は、記憶がないという不愉快な状況から逃れるために、無意識のうちに都合のいい物語を“捏造”するのです。アメリカ心理学会や精神医学会は、「回復した記憶が真実か否かを判断する決定的な手段はない」と結論づけました。

もちろんこれは、カバノー氏を告発した女性大学教授がウソをついているということではありません。しかし、三十余年のあいだに記憶が変容していないと証明することも不可能でしょう。目撃者や記録などの証拠がなければ、どれほどリアルな証言も、それだけでは効力をもたないのです。

ちなみに父親を悪魔崇拝で告発した娘は、その後、セラピストから「あなたの苦しさの原因は幼児期の性的虐待によるものだ」という偽りの記憶を植えつけられていたことが明らかになりました。父親はただちに釈放され、娘を訴えました。

参考:E.F.ロフタス、K.ケッチャム『抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって』(誠信書房)

『週刊プレイボーイ』2018年10月22日発売号 禁・無断転載

ブードゥー経済学は永遠に不滅 週刊プレイボーイ連載(356)

トランプ政権が「貿易赤字は不公正だ」として世界各国との関税交渉に突き進んでいます。安倍首相とのトップ会談でもトランプ大統領は剛腕をふるい、日本は自動車への関税引き上げを避けるために農業分野での大幅な譲歩を余儀なくされました。

一連の経緯を振り返って不思議なのは、ついこのあいだまで「TPP(環太平洋パートナーシップ)協定はアメリカの陰謀だ」と大騒ぎしていたひとたちが右にも左にもものすごくたくさんいたことです。ところがトランプ大統領は、「TPPはアメリカにとってなにひとついいことない」として、さっさと交渉からの離脱を決めてしまいました。

TPPに大反対していたひとたちは、グローバリズムが諸悪の根源で、一部の超富裕層や多国籍企業だけが儲かる自由貿易を制限すれば、日本も世界もずっとよくなると主張していました。そしていま、トランプ大統領の登場によって、彼らが夢見た保護貿易の理想世界が実現したのですから、提灯行列でもやって祝うのかと思ったら、なぜかみんな沈黙しています。

中学生でも気づく単純な疑問ですが、なぜアメリカの陰謀だったものが、アメリカにとってなにひとついいことがないのでしょうか。TPPを推進すべきだと唱えるひとたちに「グローバリスト」のレッテルを貼ってあれだけ罵倒したのですから、批判派の「知識人」はこの問いに答える大きな説明責任を負っています。

国際経済学の授業では、「“貿易黒字は儲けで貿易赤字は損”というのはブードゥー(呪術)経済学だ」と真っ先に教えられます。

グローバル市場はひとつの経済圏ですが、便宜上、国ごとに収支を集計します。これは、日本市場を詳しく分析するのに県ごとの収支を計算するのと同じことです。県内のパン屋が県外の顧客に商品を売ると「貿易黒字」に加算されます。このパン屋が県外から小麦粉を仕入れると「貿易赤字」になります。しかしこれはたんなる会計上の約束ごとで、パン屋の儲けにも、ましてや県のゆたかさにもなんの関係もありません。

江戸時代には藩ごとに関税が課せられていましたが、明治政府が撤廃したことで日本経済は大きく飛躍しました。保護貿易が常に利益をもたらすなら、いまから江戸時代に戻せばいいということになります。自由貿易を否定するのは、これとまったく同じ主張です。

近代国家は神聖不可侵な「主権」をもっており、世界政府が存在しない以上、明治維新の日本のように一気にすべての関税を撤廃することはできません。しかしアダム・スミス以来、モノやサービスを自由に流通させれば、ひとびとのゆたかさが全体として大きくなるという経済学の主張は事実によって繰り返し証明されてきました。中国やインドは1980年代までは世界の最貧国だったのです。

TPPのような包括協定がなければ、ちからの強い国が自分に有利なルールを押しつけるに決まっています。いま起きているのがまさにそれで、TPPからの離脱は「日本にとってなにひとついいことがなかった」のです。

ではなぜ、TPPに反対する「知識人」があんなにたくさんいたのか? それは、ヒトの脳がもともと呪術思考しかできないようにできているからでしょう。だからこそ、ブードゥー経済学は永遠に不滅なのです。

『週刊プレイボーイ』2018年10月15日発売号 禁・無断転載