道徳にきびしい社会ほど不道徳な行ないが増えていく 週刊プレイボーイ連載(421)

数々のヒット曲をもつシンガーソングライターが覚せい剤所持の疑いで再逮捕されました。本人が使用を否定していることもあり、現時点では真偽はわからないので、ここでは別の視点からこの問題を考えてみましょう。

日本や東アジアは薬物に対して厳しく、世界的に合法化が進む大麻ですら刑務所に放り込まれ、薬物の密輸で死刑になる国もあります。それと同時に、薬物の使用は道徳的に許されないこととされており、芸能人ならCMの中止や番組の降板などきびしい社会的制裁を加えられます。

ところで、「道徳」とはいったい何でしょう?

学校は30人ほどの子どもたちを集めてクラスをつくりますが、これはお互いの名前や性格を覚えられる上限であると同時に、1人の教師が管理できる限界だからです。これ以上、人数が増えると「そんな奴いたっけ?」ということになり、ずる休みしたり好き勝手なことをしていてもわからなくなります。

それにもかかわらず、大人数で共同作業しなければならない場面を考えてみましょう。ここで問題になるのは「抜け駆け」で、収穫作業でひとり占めしたり、戦争で自分だけ逃げてしまうメンバーばかりなら、正直者がバカを見るだけで、共同体はたちまち崩壊してしまいます。

監視カメラがない時代にこうした利己的な行動を防ぐには、あちこちに監視者を置く必要があります。しかしこれは大きなコストがかかるし、その監視者が抜け駆けするかもしれません。そうすると監視者を監視する者を置き……という無限ループにはまりこんでしまいます。

これではとうてい、共同作業などできません。だったらどうすればいいのか? じつはここで、私たちの祖先はとてつもなく効果的な方法を(進化のちからによって)見つけました。それが「道徳警察」です。

人類がその大半を過ごしてきた狩猟採集社会では、抜け駆けする者は制裁の対象となり、殺されるか村を追われるかしたでしょう。ペットの育種(人為選択)と同じで、これを何百万年もつづけていると、抜け駆けすることに罪悪感を感じたり、ずるをする者に怒りを感じるようなプログラムが脳に埋め込まれるようになるはずです。

共同体の全員が互いに監視し合うようになれば、もはや監視者は不要になり、きわめてローコストで集団を動かすことができます。これを「自己家畜化」といい、道徳の起源だと考えられています。

家畜化の選択圧は、遊牧民族よりも、狭い土地にたくさんの人間が集住する農耕社会、とりわけ米作文化でより強くはたらいたでしょう。これがおそらく、東アジアが「道徳警察社会」になった理由です。

薬物依存は欧米では「治療が必要な病気」とされており、日本でもほとんどの精神科医はこの立場です。ところが誰もが道徳警察官の社会では、薬物依存者は助けを求めることができません。なぜなら、その瞬間にすべてを失ってしまうから。

依存症は、意志のちからで克服することがきわめて困難です。だとすればあとは、ひたすら隠れてその行為をつづけようとするだけでしょう。

このようにして、道徳にきびしい社会ほど不道徳な行ないが増えていくのです。

『週刊プレイボーイ』2020年3月2日発売号 禁・無断転載

「年金受給、75歳からは不利」の計算の詳細を説明します

昨日(3月4日)のエントリー「年金受給、75歳からは不利」について、計算の詳細が不明との指摘があったので、追加で説明します。

現行のルールでは、65歳受給開始を起点に、年金を繰り下げると1カ月あたり0.7%ずつ受給額が増えます。65歳の男性が厚生年金を受給するときの平均月額16万5668円(2018年)を基準にすると、年金を70歳に繰り下げると月額23万5249円(42%増)に、75歳なら月額30万4829円(84%増)になります。

この繰り下げルールのポイントは、年率8.4%(0.7×12)の単利だということです。そのため、5年繰り下げると42%増(8.4%×5/+6万9581円)に、10年繰り下げると倍の84%増(8.4%×10/+13万9161円)になるわけです。

話をわかりやすくするために、このルールのまま95歳まで繰り下げた場合にどうなるかを示したのが下のグラフです。95歳時点では、年金受給予定額は月額58万3151円になるはずです(横軸は年齢、縦軸は月額年金で単位は「万円」)。

次いで、生涯に受け取ると期待できる年金額(期待額)を平均余命から計算します。各年齢の平均余命は簡易生命表(2017)基づきます。

65歳男性の平均余命は19.57年で、年金支給額は月額16万5668円、年198万8016円ですから、生涯の期待総額は3890万5473円(1988016×19.57)になります。基準となるこの期待総額を各年齢の平均余命で割ることで、それぞれの年齢の期待額(損も得もない金額)を算出できます。

年齢別の期待額の推移を示したのが、下のグラフの青線です。

ここからわかるように、年齢が高くなるほど平均余命が短くなるため、年齢別の期待額はその分だけ増加し、グラフは複利に近似します。それに対して支給額の増加は単利なので、81歳で両者は逆転し、支給予定額が期待額を下回る(繰り下げると損をする)ことになります。

ここでもわかりやすくするために95歳を例にとると、平均余命は2.8年で、その期間に(65歳基準の)3890万5473円を受け取らなければならないのですから、期待額は月額115万7901円になるはずです(38905473÷2.8÷12)。それに対して現行ルールを延長した場合の支給予定額は月額58万3151円なのですから、半分にしかなりません。(生涯の受給総額も1959万3886円に下がってしまいます)。

このように、単利のまま年金受給を繰り下げていくと、受給者はきわめて不利になります。

ところで、話はこれで終わりではありません。100万円をいますぐ受け取るのと、1年後に受け取るのでは、実額(期待額)は同じですが、受け取りを繰り延べたことへの報酬がありません。だとすれば、いますぐ全額受け取った方が得に決まっています。

これと同じで、年金の受給を繰り下げるには、その分のプレミアムがなければなりません。65歳から70歳への繰り下げから計算すると、そのプレミアムは年率2.68%になります。ここから、75歳まで繰り下げを延長したときの適正な支給額は、現行ルールの月額30万4829円(84%増)ではなく、月額34万6765円(109.3%増)になります。

上記の試算から明らかなように、現行の年金繰り下げルールの問題はプレミアムが単利で固定されていることです。その結果、繰り下げ年齢が上がるにつれてプレミアムが薄くなり、80~81歳でゼロになって、その後は損をすることになります。これが、「年金受給の70歳への繰り下げは有利だが75歳への繰り下げは意味がない」理由です。

この問題を解消するには、繰り下げ時の支給額を単利ではなく、複利で増えていくようにしなければなりません。

そこで最後に、適正な繰り下げ方法を試算してみます。この場合の「適正」は、一般的な定期の金融商品と同様に、「繰り下げるほどに一定の利率(複利)で生涯に受け取る総受給額が増えていくこと」と定義します。

先に述べたように、65歳から70歳への繰り下げは年利2.68%(複利)に相当しますから、これをそのまま延長すると下のグラフの赤線になります。

これなら、理論上は何歳まででも繰り下げができます。ちなみに、80歳まで繰り下げた場合の年金は月額53万8623円(総受給額5784万8143円)、90歳への繰り下げは月額147万7651円(総受給額7536万177円)、95歳まで繰り下げた場合は月額255万9935円(総受給額8601万3803円)になります。

 

第88回 年金受給、75歳からは不利(橘玲の世界は損得勘定)

「生涯現役で活躍できる社会」を掲げる安倍政権は、「人生100年時代」に合わせて年金の受け取りを75歳まで繰り下げられるようにするという。受給額は65歳受給と比べて84%多くなり、安心した老後を送ることができるとされる。

しかし私は、年金受給の70歳への繰り下げは有利だが75歳への繰り下げは意味がないと考えている。その理由を、65歳の男性が厚生年金を受給するときの平均月額16万5668円(2018年)を元に説明してみよう。

現行のルールでは、受給開始を65歳より繰り上げると1カ月あたり0.5%ずつ減り、繰り下げると0.7%ずつ増える。その結果、年金を70歳に繰り下げると月額23万5249円(42%増)に、75歳なら月額30万4829円(84%増)になる。

一見いい話のようだが、これだけでは有利かどうかを判断することはできない。年金を繰り下げれば、その分だけもらえる期間が減るからだ。それを考慮して有利/不利を考えるもっともシンプルな方法が、「生涯で受け取ると期待できる年金の総額(以下、「期待額」とする)」を比較することだ。

簡易生命表(2017)によれば、男性の平均余命は65歳で19.57年、70歳で15.73年、75歳で12.18年だ(女性はこれより3~5年長生きする)。それぞれの年齢の「期待額(生涯受給総額)」を計算すると以下のようになる。

60歳 3300万9018円
65歳 3890万5473円
70歳 4440万5518円
75歳 4455万3824円

ここからわかるように、年金受給を70歳に繰り下げることで、期待額は(65歳受給より)550万円増える。年金は国が支払いを保証する「無リスク資産」だから、現在のゼロ金利を考えればかなりお得な「資産運用」だ。すなわち、(可能なら)できるだけ長く働いて年金は70歳まで繰り下げた方がいい(逆に60歳への繰り上げはきわめて不利だ)。

ところが、75歳に年金を繰り下げたときの期待額は約4455万円と、70歳への繰り下げ(約4440万円)とほとんど変わらない。生涯で受け取る年金総額が同じなら、早く受け取った方がいいに決まっている。すなわち、75歳に受給を繰り下げる理由はどこにもない。

このような「設計ミス」になるのは、年齢が上がるにつれて平均余命が指数関数的に短くなることを考慮していないからだ。当然、それに合わせて加算率を引き上げなければならないのだが、70歳までと同じ0.7%に据え置いているため、75歳に繰り下げたときの(70歳受給と比較した)実効利回りがゼロになってしまったのだ。

75歳への受給繰り下げに、65歳から70歳への繰り下げと同じプレミアムをつけるなら、受給額は84%増ではなく100%増(倍)の月額33万4000円程度にしなければならない。これは繰り下げ受給できる富裕層を優遇しているのではなく、たんに平等にするだけのことだ。

いまからでも遅くないので、厚労省は70歳以降に年金を繰り下げるときの加算率を月0.85%程度まで引き上げるべきだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.88『日経ヴェリタス』2020年2月23日号掲載
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