ファクターXが消え失せて日本は「ふつうの国」になった 週刊プレイボーイ連載(489)

*8月25日執筆のコラムです。現在は感染者数が減少していますが、記録として執筆時点の数字のままとします。

東京オリンピックが開幕して以降、新型コロナの感染者は増えつづけ、緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大しています。1日あたりの新規感染者数(1週間平均)は、昨年4月の第一波が500人超、8月の第二波が1300人超、今年1月の第三波と5月の第四波が6000人超なのに対して、8月22日現在で2万2500人と桁違いの状況になっています。

人口10万人あたりの新規感染者数では日本は17.8人で、感染拡大が続くイギリス(48.6人)やアメリカ(44.6人)よりは少ないものの、イタリア(10.4人)やドイツ(8.2人)をすでに上回っており、日本がいまや「ふつうの国」になったことがわかります。

新型コロナのウイルスが世界的に広がるなか、強い社会統制をしているわけでもない日本は感染者・死者ともに欧米より圧倒的に少なく、「ファクターX」が話題になりました。この謎についてはいまだに議論が続いていますが、ひとつだけはっきりしていることがあります。感染力の強い変異種に対しては、ファクターXの効果は消え失せたということです。

感染拡大で医療機関が逼迫し、救急搬送できずに自宅療養中に死亡するケースが相次いでいます。感染した妊婦の入院先がなく、自宅で出産した新生児が死亡したことは日本じゅうに大きな衝撃を与え、全国知事会はロックダウンを検討するよう政府に求めました。

とはいえ、感染者1名でロックダウンに入ったニュージーランドは、それにもかかわらず1週間の感染者が100人を超えました。ホーチミンで感染が拡大するベトナムでは、生活必需品の購入すら公安やボランティアに依頼する強力な外出禁止措置を実施していますが、それでも感染抑制に苦労しています。

ここからわかるのは、変異種の感染を抑えるのがきわめて困難なことです。日本が同じことをやろうとすれば、感染初期に中国が武漢で行なったように、数カ月にわたって社会・経済活動をすべて止めるしかないでしょうが、こんなことはもちろん不可能です。

だったらどうすればいいのか。ウイルスに国境がない以上、もはや「ふつうの国」として、欧米諸国と同様に、ワクチン接種を進めながら感染症と共存する以外の選択肢はなくなりました。これによって感染者はさらに増えるかもしれませんが、重症化を抑えることができれば、子どもを学校や保育園に通わせながら経済活動を徐々に再開できるはずです。

そのために重要なのは、医療機関の受け入れ態勢の強化です。英米の状況を見れば、今冬の感染者はいまの2~3倍に増えるおそれがあり、このままでは治療を受けずに自宅で死亡する悲劇が常態化してしまいます。

医療機関をいたずらに批判することは避けなければなりませんが、厚労省がコロナ病床の拡充に1兆円以上の補助金を注ぎ込んでもほとんど効果がなく、欧米に比べて日本の医療がきわめて脆弱なのは明らかです。野党やメディアも、「言葉づかいが気に入らない」などと首相を批判してすませるのではなく、この現実を受け入れたうえで「国難」に立ち向かってほしいと思います。

『週刊プレイボーイ』2021年9月6日発売号 禁・無断転載

小田急線刺傷事件は”ナンパ”カルチャーのなれの果て 週刊プレイボーイ連載(488)

小田急線の電車内で36歳の男が刃物で乗客10人に切りつけるなどした事件が、大きな衝撃を引き起こしました。報道によれば、この男が最初に狙ったのは「勝ち組っぽく見えた」20歳の女子大生で、「大学のサークルで女性にばかにされるなどし、勝ち組の女や幸せそうなカップルを見ると殺したくなるようになった」などと供述しています。

男は車内に灯油をまいて火をつけようとしたものの、入手できなかったため、常温では発火しないサラダ油で代用しました。一歩間違えば大惨事になるところで、多くのひとが2008年の事件を思い起こしたでしょう。

とはいえ、当時25歳の「秋葉原事件」の犯人は、「非モテ」であることに強いコンプレックスをもってはいたものの、自分には手の届かない華やかな女性に憎悪を抱いていたわけではありませんでした。その意味では、この国ではじめてのミソジニー(女性憎悪)による無差別テロといえるかもしれません。

掲示板で「不細工キャラ」を演じていた秋葉原事件の犯人との大きなちがいは、小田急線事件の容疑者が高校時代は成績優秀で、女子生徒にも人気があり、有名私立大学に進学した「リア充」だったことです。ところがなんらかの理由で大学を中退し、20代前半はコンビニなどでアルバイトしながら“ナンパ師”をしていたようです。

ナンパ師は、アメリカではPUA(ピックアップ・アーティスト)と呼ばれます。ゼロ年代のはじめに、さまざまなナンパ・テクニックをネット上で交換し、その成果を報告しあうサブカルチャーの存在がニューヨーク・タイムズで報じられて注目を集め、この記事を書いたニール・ストラウスの『ザ・ゲーム』は世界的なベストセラーになりました(その後、実際にナンパを指南するリアリティ番組も制作されました)。

PUAは女性を髪の色と10点満点の点数で評価し、「ブロンドの8点」「ブルネットの8.5点」などと数値化してナンパ掲示板で成果を競っていました。その手法は徹底的にマニュアル化されており、「ルーティーン」に従って会話を進行させれば、どんな女性も同じ反応を示すとされていました。女の脳を「プログラム」と見なして、それを「リバースエンジニアリング」しようとしたのです。

これだけでも嫌悪感を抱くひとは多いでしょうが、アメリカではPUAがミソジニーに結びつくことが繰り返し批判されてきました。PUAのアイデンティティはナンパした女性の合計点数で決まるため、試行回数を増やさなければならないのですが、それによって拒絶されるたびに(当然のことながらこれはよくあります)自尊心が傷つけられ、やがてナンパできない女性を憎みはじめるのです。

男が外見だけでモテるのはせいぜい大学くらいまでで、社会人になれば社会的・経済的な地位が重みを増してきます。小田急線事件の犯人は非正規の仕事が続かず、最後は生活保護を受けながら家賃2万5000円の1Kのアパートで暮らし、食品・生活必需品を万引きしていたといいます。これではどんなナンパ・テクニックをもっていても、誰からも相手にされないでしょう。

“ナンパ師”だった男が「非モテ」になり、若く魅力的な女性に深い憎悪を抱いて大量殺人を実行しようとするまでの転落の経緯は、「PUAのなれの果て」と考えるととてもよく理解できるのです。

参考:ニール・ストラウス『ザ・ゲーム 退屈な人生を変える究極のナンパバイブル』パンローリング

『週刊プレイボーイ』2021年8月23日発売号 禁・無断転載

トランスジェンダーの五輪選手が象徴する「リベラル化」の光と影 週刊プレイボーイ連載(487)

東京五輪の女子重量挙げ87キロ超級に、男性から女性に性別変更したトランスジェンダーの選手がはじめて出場しました。

ニュージーランド代表のこの選手は、10代から男子として国内大会に出場、23歳でいったん競技から離れたあと、30代半ばに性別適合手術を受けて女性として競技に戻りました。2017年に世界選手権で銀メダルを獲得、43歳にしてオリンピック出場の夢をかなえたことになります(結果は3回の試技をいずれも失敗して記録なし)。

多様性の尊重を掲げる五輪を象徴する話ですが、この“快挙”がすべてのひとから歓迎されているわけではありません。

トランスジェンダーの重量挙げ選手は、試合に出るたびにライバルから抗議され、他国選手団からは出場資格の取り消しを求められました。女性の権利を擁護する地元ニュージーランドの団体は、「「男性」が女性の機会を奪っている」と批判しています。

IOCのガイドラインでは、「女子」選手は男性ホルモンのテストステロン濃度が一定の値より低くなければならず、重量挙げ選手はこの基準をクリアしています。とはいえ、男性では思春期にテストステロン濃度が急激に上がり、それが骨格や筋肉の発達を促進するので、それ以降に性転換しても「生物学的性差」の大きな優位性は残るとの主張には説得力があります。

IOCはトランスジェンダー女性の五輪参加を支持するコメントを出す準備をしていましたが、一部の競技団体からの反発で発表を見合わせました。この流れが続けば、いずれは「女子」競技は身体能力に優れたトランスジェンダー女性に席捲されてしまうという不安を払拭できなかったのでしょう。

リベラルな社会では、「すべてのひとが自分らしく生きられるべきだ」という理想が追求されます。人種・民族・性別・国籍・身分・性的志向など、本人の意志では変えられないものを理由とした差別が許されないのは当然のことです。「リベラル化」が、総体としては、社会の厚生(幸福度)を大きく引き上げたことは間違いありません。

しかし、価値観の異なるさまざまなひとが「自分らしく」生きようとすれば、あちこちで利害が衝突し、人間関係は複雑になっていきます。政治は利害調整の機能を失って迷走し、行政システムは、あらゆるクレームに対応するために巨大化し、誰にも理解できないものになっていくでしょう。

このようにして、すべてのひとが「自分らしく」生きられる社会を目指そうと努力するほど、社会のあちこちで紛争が起き、「生きづらさ」が増していくという皮肉な事態になります。五輪のトランスジェンダー問題は、その典型的な事例でしょう。

ますます「リベラル化」が進む社会では、「自分らしく」生きるという特権を享受できるひとたち(エリート)と、「自分らしく」生きなければならないという圧力を受けながらも、そうできないひとたちに社会は分断されていきます。これは「リベラル化」の必然なのですから、「リベラル」な政策で解決することはできません。

そんな話を新刊『無理ゲー社会』(小学館新書)で書きました。光が強ければ強いほど、影もいっそう濃くなるという話です。

参考:「多様な性問いかける」朝日新聞2021年8月2日、「競技の公平性か人権か」日本経済新聞2021年8月2日

『週刊プレイボーイ』2021年8月16日発売号 禁・無断転載