第99回 お宝を教えぬ生保の不誠実(橘玲の世界は損得勘定)

20年くらい前に、知人から保険の見直しについて相談されたことがある。彼女が加入していたのは積立型の終身保険と個人年金保険で、正直、かけすぎに思えたが、予定利率が5.5%(現在は0.25%程度)という、俗にいう「お宝保険」だった。そこで、入院特約や三大疾病保障のような余分なものをすべて外して、主契約だけ残すようアドバイスした。

その後、すっかり忘れていたのだが、つい最近、個人年金が満期になったので、どうすればいいかまた相談された。保険金を一括で受け取るか、15年の分割にするかを決めなくてはならないのだという。

ファイナンス理論的には、どちらが有利かは分割払いにしたときのプレミアム(利率)で決まる。それが予定利率の5.5%なら年金方式がものすごく有利だし、0.25%なら一括で受け取って自分で運用した方がいいかもしれない。

ここまではシンプルだが、彼女はまだ現役で働いていて、いますぐ保険金(年金)が必要なわけではないという。そこでふと思いついて、「65歳や70歳まで受給開始を繰り下げたらどうなるか訊いてみたら」とアドバイスした。

そんな質問をする契約者はあまりいないらしく、生保レディではわからず、本社に持ち帰って回答することになった。

その結果は、予想外のものだった。年金開始を60歳から65歳まで5年間延ばすと「責任準備金差額金の清算金」が発生し、それにともなって約190万円が(年金とは別に)一括で支払われるのだという。たった5年、年金の受け取りを伸ばしただけで、総受給額が16%も増えたのだ(70歳まで受給開始を延ばすことはできないという)。

彼女の話によると、このことを知って(かなりベテランの)生保レディも驚いていたという。繰り下げにともなう一時金は保険の種類や契約によって異なり、繰り下げできないこともあるそうで、「ラッキーですね」と一緒に喜んでくれたらしい。

しかしこの話には、大きな疑問がある。受給開始を繰り下げることで多額の一時金が支払われるのなら、保険会社はこの重要な情報を最初から契約者に説明するべきではないのか。

ところが保険会社は、生保レディだけではなく、一緒についてきた若手の正社員にすら、この仕組みを伝えていなかった。これではまるで、「契約者に有利な(自分たちに不利な)情報は教えません」といっているようなものだ。

生保レディの話では、その契約で繰り下げの一時金を請求したのは彼女で2人目だという。残りの契約者は全員、多額のお金を受け取る権利を知らないうちに放棄させられていたことになる。この保険会社は「社会貢献」にちからを入れていることで有名だが、それ以前にやるべきことがあるのではないか。

とはいえ、思いがけないお金が振り込まれてき知人は大喜びで、ずいぶん感謝された。緊急事態宣言も解除されたことだし、そのうち食事をおごってもらえると期待しておこう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.99『日経ヴェリタス』2021年10月30日号掲載
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「適当に投票する」のが合理的な理由 週刊プレイボーイ連載(496)

アメリカでもヨーロッパでも、20%以上のひとは、地球が太陽の周りを回っている(地動説)のではなく、太陽が地球の周りを回っている(天動説)を思っているそうです。

2001年の同時多発テロを受けて、アメリカはイラクとアフガニスタンに侵攻しましたが、06年の調査では、アメリカ人の63%は地図上のイラクの場所を知らず、88%はアフガニスタンがどこにあるかわかりませんでした。そればかりかこの調査は、過半数のアメリカ人が地図上でニューヨク州の場所を示すことができないという驚くべき事実を明らかにしました。

とはいえ、これは「バカがたくさんいる」ということではありません。賢いひとでも、「生きていくのに差し支えないことについては、正しい知識を積極的に獲得する合理的な理由がない」ことはじゅうぶんあり得るからです。大半のひとは、天文学や地理を知らなくても幸福に生きていくことができるのです。

政治学はずっと、有権者がごく基本的な知識もなく投票しているという「不都合な事実」に困惑してきました。しかしこれも、「合理的な無知」の一種だと考えれば悩む理由はありません。

自民党は「保守」、立憲民主党は「リベラル」とされますが、安倍元首相は「国際標準では私がやっていることはリベラル」と述べ、岸田新首相は自民党のなかの「リベラル派」とされ、立憲民主党の枝野代表は「私はリベラルであり、保守であります」と演説しました。だとしたら。誰が「保守」で誰が「リベラル」なのでしょうか。

「左派ポピュリスト」政党であるれいわ新選組は最低賃金引き上げを強く主張しましたが、「ネオリベ」の菅政権は、「生産性の低い中小企業を淘汰する」という理由で、反対を押し切って最賃引き上げを実行しました。この政策は、「左」か「右」かどちらになるのでしょう。

これはほんの一例ですが、そもそもこんなことを真剣に考える価値があるのか、疑問に思うひとがほとんどではないでしょうか。一人ひとりの人生には、ほかももっと重要なことがいくらでもあるのですから。

民主的な社会では投票は市民の義務とされますが、国政選挙では自分の一票が候補者の当落や政権選択に影響を与える可能性はほぼゼロです。とはいえ、棄権すると「大人としての自覚がない」という烙印を捺されてしまうかもしれません。だったら、候補者についてなにも知らないまま投票し、会社や学校で「選挙行った?」と訊かれたら「行きました!」と堂々とこたえたほうが精神衛生上いいでしょう。

決定すべきことについて知識がないことが、意思決定の質を下げることは間違いありません。しかし近年の政治学は、投票率がそれなりに高いと為政者にプレッシャーを与え、すくなくとも、戦争や飢餓のような「とてつもなくヒドいこと」のリスクを下げると考えます。

ほとんどのひとは(私も含め)「合理的な無知」のまま投票していますが、これは不道徳でも批判されるべきことでもなく、そんな一票にもちゃんと意味があるようです。

参考:イリヤ・ソミン『民主主義と政治的無知 小さな政府の方が賢い理由』信山社

『週刊プレイボーイ』2021年11月1日発売号 禁・無断転載

「今日の仕事は楽しみですか?」と訊かれて怒るのはなぜ? 週刊プレイボーイ連載(495)

品川駅のコンコースに設置された数十台のディスプレイに「今日の仕事は楽しみですか」の大きな文字が表示され、それを「社畜回廊」と名づけたSNSの投稿が拡散・炎上して、広告を出稿した企業が1日で撤回する騒ぎになりました。そのすこし前にはサントリーの新浪剛史社長が「45歳定年制」を提唱し、これもSNSで炎上しています。

「今日の仕事は楽しみですか」の広告は「つらくても仕事を頑張っているひとを傷つける」などと批判されましたが、これはたんなる方便で、多くのサラリーマンの本音は「仕事が楽しみなわけないだろ」でしょう。

OECDをはじめとするあらゆる国際調査において、「日本人は世界でいちばん仕事が嫌いで、会社を憎んでいる」という結果が繰り返し出ています。しかもこれは「ネオリベ改革」のせいではなく、バブル絶頂期の1980年代ですら、日本人よりアメリカの労働者のほうがいまの仕事に満足し、友人に勧めたいと思い、生まれ変わったらもういちど同じ仕事をしたいと考えていました。

日本では右も左もほとんどの知識人が、年功序列・終身雇用の「日本的雇用」が日本人(男だけ)を幸福にしてきたとして「(正社員の)雇用破壊を許すな」と大合唱してきました。しかし現実には、日本的雇用が日本人を不幸にしてきたのです。

なぜこんなことになるかは、きわめてシンプルに説明できます。

そもそも大学卒業時点で、自分がどんな仕事に向いているか、どの会社が自分の希望をかなえてくれるかなどわかるはずがありません。それでもとりあえず就活してどこかに入社しますが、それがベストな選択である確率はきわめて小さなものでしょう。

問題は、日本的雇用では、たまたま入った会社に定年まで40年以上も拘束されてしまうことです。そうなると、ほとんどは「外れくじ」を引いているわけですから、意に添わない仕事を我慢して続けるしかなくなります。

この状況を改善するには、やりがいのある仕事を見つけるまで自由に転職できるようにしなければなりません。しかしそうなると、企業の側もより能力の高い(適性のある)者を受け入れるために、一定の基準に満たない社員を解雇して場所を空けられるようにしなくてはならないでしょう。

ところが日本では、会社への所属意識が(男性)正社員のアイデンティティになってしまっているので、解雇や人員整理がきわめて困難になっています。そこでこの隘路を抜けるために、定年を45歳に早めるという奇策が出てきたのでしょう。

とはいえ、「定年」は労働者個人の意思にかかわらず一定の年齢で強制解雇する制度ですから、いまでは「年齢差別」と見なされるようになり、アメリカ、イギリスをはじめ欧米では定年制を違法とする国が増えています。

だとすればやはり正攻法で、日本も定年を廃止し、その代わり金銭解雇のルールを決めて、仕事内容に応じて正規・非正規にかかわらずすべての労働者を平等に扱うグローバル・スタンダードの働き方に変えていくべきです。

会社や仕事を選択できるようになれば、すくなくとも、「仕事は楽しみですか?」と訊かれて激怒することはなくなるでしょう。

参考:小池和男『日本産業社会の「神話」経済自虐史観をただす』日本経済新聞出版社

『週刊プレイボーイ』2021年10月25日発売号 禁・無断転載