第98回 待ってもタクシーは来ないのに(橘玲の世界は損得勘定)

ずいぶん前の話だが、那覇から東京に戻る最終便が大幅に遅れて、羽田空港に着いたときは公共交通機関の終電はとうに終わっていた。しかたがないのでタクシー乗り場に行くと、案の定、長蛇の列ができている。

列の先頭で拡声器をもった係員が、「ここで待っていても車は来ません。自分で手配してください」と叫んでいた。そのとき不思議に思ったのは、列に並んでいたひとたちがまったく動こうとしないことだ。

たまたまタクシーの共通チケットをもっていたので、そこに載っている番号に順に電話してみた。2件目の会社で運よく空港に向かっている車が見つかって、10分ほどで乗ることができた。その間、タクシー乗り場に車は1台も来なかった。

そのとき思ったのは、私のようにタクシー会社に電話する者がいれば、空港に向かう車はすべて押さえられてしまうのではないかということだった。だとしたら、列に並んでいるひとたちはいつまで待つことになるのだろうか。

近所のスーパーに自動レジができたときも、似たような体験をした。

最初の頃は自動レジはがらがらなのに、数を減らされた対面レジには長い列ができていた。自動レジにはスタッフが待機していて、使い方がわからなければ親切に教えてくれるのだから、なぜわざわざ時間のかかる対面レジに並ぶのだろうか。

そのスーパーでは1階が雑貨、地下が食料品で、どちらでも精算できるようになっていた。あるとき、雑貨を買いにいったらレジスターが故障したらしく、1つのレジに長い列ができていた。そこでエスカレーターで地下に降りて、がらがらの自動レジで精算し、1階に戻ったら列はさらに長く伸びていた。

この奇妙な現象について考えてみると、多くのひとはそもそも問題解決に興味がないのではないだろうか。なぜなら、自分で判断することにはコストとリスクがともなうから。

近年の脳科学では、認知的資源はきわめて貴重なので、ひとは無意識にそれを節約しようとしていると考える。なにか問題が発生したときに、もっとも確実でコストが低いのは、ほかのひとを真似ることだ。なぜなら、たくさんのひとが同じ問題に直面して考えた結果だから。

これは一種の集合知で、たしかに理にかなっている。個人の乏しい知識と情報で思いついた解決策よりも、多くのひとが試行錯誤してたどり着いた解答の方が正しいことは間違いない。

これなら、タクシーの来ない乗り場に長い行列ができる理由も説明がつく。並ぶのはみんながそうしているからで、自分からタクシー会社に電話しないのは、誰もそんなことをやっていないからだ。そのうえ「みんなと一緒にいる」ことに安心感があるのかもしれない。

だがこの原則をすべてに適用すると、簡単に解決できることに膨大なコストをかける事態にならないだろうか。まあ、行列することをコストと感じないひともいるだろうから、私がとやかくいう話ではないだろうが。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.98『日経ヴェリタス』2021年9月4日号掲載
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ファクターXが消え失せて日本は「ふつうの国」になった 週刊プレイボーイ連載(489)

*8月25日執筆のコラムです。現在は感染者数が減少していますが、記録として執筆時点の数字のままとします。

東京オリンピックが開幕して以降、新型コロナの感染者は増えつづけ、緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大しています。1日あたりの新規感染者数(1週間平均)は、昨年4月の第一波が500人超、8月の第二波が1300人超、今年1月の第三波と5月の第四波が6000人超なのに対して、8月22日現在で2万2500人と桁違いの状況になっています。

人口10万人あたりの新規感染者数では日本は17.8人で、感染拡大が続くイギリス(48.6人)やアメリカ(44.6人)よりは少ないものの、イタリア(10.4人)やドイツ(8.2人)をすでに上回っており、日本がいまや「ふつうの国」になったことがわかります。

新型コロナのウイルスが世界的に広がるなか、強い社会統制をしているわけでもない日本は感染者・死者ともに欧米より圧倒的に少なく、「ファクターX」が話題になりました。この謎についてはいまだに議論が続いていますが、ひとつだけはっきりしていることがあります。感染力の強い変異種に対しては、ファクターXの効果は消え失せたということです。

感染拡大で医療機関が逼迫し、救急搬送できずに自宅療養中に死亡するケースが相次いでいます。感染した妊婦の入院先がなく、自宅で出産した新生児が死亡したことは日本じゅうに大きな衝撃を与え、全国知事会はロックダウンを検討するよう政府に求めました。

とはいえ、感染者1名でロックダウンに入ったニュージーランドは、それにもかかわらず1週間の感染者が100人を超えました。ホーチミンで感染が拡大するベトナムでは、生活必需品の購入すら公安やボランティアに依頼する強力な外出禁止措置を実施していますが、それでも感染抑制に苦労しています。

ここからわかるのは、変異種の感染を抑えるのがきわめて困難なことです。日本が同じことをやろうとすれば、感染初期に中国が武漢で行なったように、数カ月にわたって社会・経済活動をすべて止めるしかないでしょうが、こんなことはもちろん不可能です。

だったらどうすればいいのか。ウイルスに国境がない以上、もはや「ふつうの国」として、欧米諸国と同様に、ワクチン接種を進めながら感染症と共存する以外の選択肢はなくなりました。これによって感染者はさらに増えるかもしれませんが、重症化を抑えることができれば、子どもを学校や保育園に通わせながら経済活動を徐々に再開できるはずです。

そのために重要なのは、医療機関の受け入れ態勢の強化です。英米の状況を見れば、今冬の感染者はいまの2~3倍に増えるおそれがあり、このままでは治療を受けずに自宅で死亡する悲劇が常態化してしまいます。

医療機関をいたずらに批判することは避けなければなりませんが、厚労省がコロナ病床の拡充に1兆円以上の補助金を注ぎ込んでもほとんど効果がなく、欧米に比べて日本の医療がきわめて脆弱なのは明らかです。野党やメディアも、「言葉づかいが気に入らない」などと首相を批判してすませるのではなく、この現実を受け入れたうえで「国難」に立ち向かってほしいと思います。

『週刊プレイボーイ』2021年9月6日発売号 禁・無断転載

小田急線刺傷事件は”ナンパ”カルチャーのなれの果て 週刊プレイボーイ連載(488)

小田急線の電車内で36歳の男が刃物で乗客10人に切りつけるなどした事件が、大きな衝撃を引き起こしました。報道によれば、この男が最初に狙ったのは「勝ち組っぽく見えた」20歳の女子大生で、「大学のサークルで女性にばかにされるなどし、勝ち組の女や幸せそうなカップルを見ると殺したくなるようになった」などと供述しています。

男は車内に灯油をまいて火をつけようとしたものの、入手できなかったため、常温では発火しないサラダ油で代用しました。一歩間違えば大惨事になるところで、多くのひとが2008年の事件を思い起こしたでしょう。

とはいえ、当時25歳の「秋葉原事件」の犯人は、「非モテ」であることに強いコンプレックスをもってはいたものの、自分には手の届かない華やかな女性に憎悪を抱いていたわけではありませんでした。その意味では、この国ではじめてのミソジニー(女性憎悪)による無差別テロといえるかもしれません。

掲示板で「不細工キャラ」を演じていた秋葉原事件の犯人との大きなちがいは、小田急線事件の容疑者が高校時代は成績優秀で、女子生徒にも人気があり、有名私立大学に進学した「リア充」だったことです。ところがなんらかの理由で大学を中退し、20代前半はコンビニなどでアルバイトしながら“ナンパ師”をしていたようです。

ナンパ師は、アメリカではPUA(ピックアップ・アーティスト)と呼ばれます。ゼロ年代のはじめに、さまざまなナンパ・テクニックをネット上で交換し、その成果を報告しあうサブカルチャーの存在がニューヨーク・タイムズで報じられて注目を集め、この記事を書いたニール・ストラウスの『ザ・ゲーム』は世界的なベストセラーになりました(その後、実際にナンパを指南するリアリティ番組も制作されました)。

PUAは女性を髪の色と10点満点の点数で評価し、「ブロンドの8点」「ブルネットの8.5点」などと数値化してナンパ掲示板で成果を競っていました。その手法は徹底的にマニュアル化されており、「ルーティーン」に従って会話を進行させれば、どんな女性も同じ反応を示すとされていました。女の脳を「プログラム」と見なして、それを「リバースエンジニアリング」しようとしたのです。

これだけでも嫌悪感を抱くひとは多いでしょうが、アメリカではPUAがミソジニーに結びつくことが繰り返し批判されてきました。PUAのアイデンティティはナンパした女性の合計点数で決まるため、試行回数を増やさなければならないのですが、それによって拒絶されるたびに(当然のことながらこれはよくあります)自尊心が傷つけられ、やがてナンパできない女性を憎みはじめるのです。

男が外見だけでモテるのはせいぜい大学くらいまでで、社会人になれば社会的・経済的な地位が重みを増してきます。小田急線事件の犯人は非正規の仕事が続かず、最後は生活保護を受けながら家賃2万5000円の1Kのアパートで暮らし、食品・生活必需品を万引きしていたといいます。これではどんなナンパ・テクニックをもっていても、誰からも相手にされないでしょう。

“ナンパ師”だった男が「非モテ」になり、若く魅力的な女性に深い憎悪を抱いて大量殺人を実行しようとするまでの転落の経緯は、「PUAのなれの果て」と考えるととてもよく理解できるのです。

参考:ニール・ストラウス『ザ・ゲーム 退屈な人生を変える究極のナンパバイブル』パンローリング

『週刊プレイボーイ』2021年8月23日発売号 禁・無断転載