トランスジェンダーの五輪選手が象徴する「リベラル化」の光と影 週刊プレイボーイ連載(487)

東京五輪の女子重量挙げ87キロ超級に、男性から女性に性別変更したトランスジェンダーの選手がはじめて出場しました。

ニュージーランド代表のこの選手は、10代から男子として国内大会に出場、23歳でいったん競技から離れたあと、30代半ばに性別適合手術を受けて女性として競技に戻りました。2017年に世界選手権で銀メダルを獲得、43歳にしてオリンピック出場の夢をかなえたことになります(結果は3回の試技をいずれも失敗して記録なし)。

多様性の尊重を掲げる五輪を象徴する話ですが、この“快挙”がすべてのひとから歓迎されているわけではありません。

トランスジェンダーの重量挙げ選手は、試合に出るたびにライバルから抗議され、他国選手団からは出場資格の取り消しを求められました。女性の権利を擁護する地元ニュージーランドの団体は、「「男性」が女性の機会を奪っている」と批判しています。

IOCのガイドラインでは、「女子」選手は男性ホルモンのテストステロン濃度が一定の値より低くなければならず、重量挙げ選手はこの基準をクリアしています。とはいえ、男性では思春期にテストステロン濃度が急激に上がり、それが骨格や筋肉の発達を促進するので、それ以降に性転換しても「生物学的性差」の大きな優位性は残るとの主張には説得力があります。

IOCはトランスジェンダー女性の五輪参加を支持するコメントを出す準備をしていましたが、一部の競技団体からの反発で発表を見合わせました。この流れが続けば、いずれは「女子」競技は身体能力に優れたトランスジェンダー女性に席捲されてしまうという不安を払拭できなかったのでしょう。

リベラルな社会では、「すべてのひとが自分らしく生きられるべきだ」という理想が追求されます。人種・民族・性別・国籍・身分・性的志向など、本人の意志では変えられないものを理由とした差別が許されないのは当然のことです。「リベラル化」が、総体としては、社会の厚生(幸福度)を大きく引き上げたことは間違いありません。

しかし、価値観の異なるさまざまなひとが「自分らしく」生きようとすれば、あちこちで利害が衝突し、人間関係は複雑になっていきます。政治は利害調整の機能を失って迷走し、行政システムは、あらゆるクレームに対応するために巨大化し、誰にも理解できないものになっていくでしょう。

このようにして、すべてのひとが「自分らしく」生きられる社会を目指そうと努力するほど、社会のあちこちで紛争が起き、「生きづらさ」が増していくという皮肉な事態になります。五輪のトランスジェンダー問題は、その典型的な事例でしょう。

ますます「リベラル化」が進む社会では、「自分らしく」生きるという特権を享受できるひとたち(エリート)と、「自分らしく」生きなければならないという圧力を受けながらも、そうできないひとたちに社会は分断されていきます。これは「リベラル化」の必然なのですから、「リベラル」な政策で解決することはできません。

そんな話を新刊『無理ゲー社会』(小学館新書)で書きました。光が強ければ強いほど、影もいっそう濃くなるという話です。

参考:「多様な性問いかける」朝日新聞2021年8月2日、「競技の公平性か人権か」日本経済新聞2021年8月2日

『週刊プレイボーイ』2021年8月16日発売号 禁・無断転載

「過去の愚行は永遠に許されないのか?」問題 週刊プレイボーイ連載(486)

「人類がコロナに打ち勝った証」であるはずの東京オリンピック・パラリンピックが、開幕前に大混乱に陥りました。

最初は音楽担当のアーティストで、学生時代のいじめ体験を語った25年以上前の雑誌インタビューが強い批判を浴びたことで辞任。次いで開幕式前日に、演出担当を務めてきた元お笑い芸人が、過去にホロコーストを揶揄するコントを題材にしたとして解任されました。いずれも今後、繰り返し語られ検証される事例でしょうが、ここではいくつか議論のポイントを押さえておきましょう。

前提として、世界は巨大な「リベラル化」の潮流のなかにあり、人種・民族・性別・身分・性的志向など「個人では変えられない属性」を理由にした差別は「決して許されない」ものになりました。ポリティカル・コレクトネス(PC/政治的正しさ)とは、こうしたリベラルな規範にのっとって発言・行動することです。

近年、欧米で大きな社会問題になっているキャンセルカルチャーは、PCに反する言動をした者を、公的な活動など社会的に影響力のある地位から「キャンセル」するネット上の大衆運動で、今回が日本ではじめての本格的な事例になりました。

「差別は許されない」のは当然として、過激化するキャンセルカルチャーには次のような疑問があります。

ひとつは、「過去の愚行は永遠に許されないのか?」というものです。小学校のときの加害行為まで掘り起こされるのなら、「無実」のひとはほとんどいなくなってしまいます。

これについては、「今回のケースはあまりに悪質で特別」との反論がありますが、その場合は、「許される愚行と許されない愚行は、誰がどのような基準で決めるのか」という問いに答える必要があります。

「被害者に誠意をもって謝罪し、和解しなければ許されたことにはならない」という意見もありますが、民事訴訟ですらこんなことは不可能で、けっきょくは金銭で解決しています。この「被害者中心主義」は、慰安婦問題などにおける隣国の主張とまったく同じだということも指摘しておきましょう。

ふたつめは、キャンセルの対象がきわめて恣意的なことです。批判を浴びるのはキャンセル可能な地位についた者だけで、まったく同じ言動をしていても、そのような立場を避けていれば過去は不問にふされます。ネット炎上が人格や人生を全否定する「私刑(リンチ)」に発展することもあるのだから、これはあまりに不公平に思えます。

だからといって、すべてのひとの「過去の傷」を掘り起こして批判するわけにはいきません。人間の認知能力にはきわめてきびしい制約があるので、いちどに何百人、何千人に怒りを抱くことはできないのです。

これが、3つめのより深刻な疑問につながります。キャンセルカルチャーとは、「正義の拳」を振り下ろす快感を安易に得るために、特定の有名人をさらし者する行為ではないのか、というのです。これに不快感をもつ「正義のひと」もいるでしょうが、すくなくともオバマ元大統領は、こうした理由でキャンセルカルチャーを批判しています。

『週刊プレイボーイ』2021年8月2日発売号 禁・無断転載

才能ある者にとってはユートピア、それ以外にとってはディストピア(『無理ゲー社会』あとがき)

出版社の許可を得て、新刊『無理ゲー社会』の「あとがき」を掲載します。昨日発売で、すでに書店さんには並んでいると思います。電子書籍も同日発売です。

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めったにないことだが、中学3年生から手紙をもらった。大阪の中高一貫公立校の男子生徒で、卒業レポートを書くために私の著書を読み、「上級国民」「下級国民」の定義を教えてほしいのだという。すこし考えて、次のような返事を書いた。

上級国民 知識社会・評判社会において、「自分らしく生きる」という特権を享受できるひとたち
下級国民 「自分らしく生きるべきだ」という社会からの強い圧力を受けながら、そうできないひとたち

これがそのまま本書のコンセプトになった。

ちょうどその頃、20代のライターや編集者と話をする機会があった。ニュースサイトのインタビューで「最近の若者たちは人生を“無理ゲー”のように感じているのではないか」と述べたのだが、興味深いことに、2人ともこの言葉が「刺さった」のだという。

私はゲームにはまったくの素人で、この表現はたまたま思いついただけだが、それに強いインパクトがあることを彼らから教えられた。こうして、本書のタイトルが決まった。

クラウス・シュワブは、世界じゅうからリーダーたちを集める「ダボス会議」で知られる世界経済フォーラム(WEF)の創設者だ。シュワブは日本の新聞社のインタビューに答え、コロナ禍を体験した2021年のテーマは「(世界の社会経済システムを考え直す)「グレート・リセット」になるとしてこう語った。(*)

(リセット後は)資本主義という表現はもはや適切ではない。金融緩和でマネーがあふれ、資本の意味は薄れた。いまや成功を導くのはイノベーションを起こす起業家精神や才能で、むしろ「才能主義(Talentism)」と呼びたい。

これからの世界は、(貨幣が支配する)資本主義を脱却し、(評判が支配する)才能主義に変わっていくのだという。「資本主義」では「資本のない者」でも生きていくことはできるが、「才能主義」の世界では「才能のない者」はどうなるのか? これが私の素朴な疑問だ。

世界は「リベラル化、知識社会化、グローバル化」の巨大な潮流のなかにあると、私は繰り返し述べてきた。資本主義は、「自分らしく生きたい」「より幸せに(ゆたかに)なりたい」という“夢”を効率的にかなえる経済制度としてまたたくまに世界じゅうに広がった。その資本主義がいま、ある種の機能不全を起こしているのは確かだろう。

だが資本主義を「脱却」したあとには(もしそのようなことができるとして)、より効率的に“夢”をかなえる未来がやってくるだけだ。なぜなら、社会・経済制度がどのように変わろうとも、ヒトの脳に埋め込まれた「欲望」のプログラムは変わらないから。わたしたちは、ものごころついてから死ぬまで、「自分らしく生きる」という呪縛にとらわれ、あがくほかないのだ。

本書で述べたのは、とてもシンプルなことだ。あなたがいまの生活に満足しているとしたら素晴らしいことだが、その幸運は「自分らしく生きる」特権を奪われたひとたちの犠牲のうえに成り立っている。

ひとびとが「自分らしく」生きたいと思い、ばらばらになっていけば、あちこちで利害が衝突し、社会はとてつもなく複雑になっていく。これによって政治は渋滞し、利害調整で行政システムが巨大化し、ひとびとを抑圧する。

「リベラル」を自称するひとたちには受け入れがたいだろうが、リベラル化が引き起こした問題をリベラルな政策によって解決することはできない。すべての“不都合な事実”は、「リベラルな社会を目指せば目指すほど生きづらさが増していく」ことを示している。

ヒトの認知能力には限りがあるので、わたしたちは複雑なものを複雑なまま理解することができない。こうして、「なにか邪悪なものが世界を支配している」と考えるようになる。この陰謀思考の標的は、右派では「ディープステイト」、左派では「資本主義」が最近の流行のようだ。

だがどれほどワラ人形に呪詛の言葉を投げつけても、この巨大な潮流をせき止めることはもちろん、流れを変えることすらできないだろう。

それに加えて日本の若者たちは、人類史上未曾有の超高齢社会のなか、増えつづける高齢者を支えるという〝罰ゲーム〞を課せられ、さらには、1世紀(100年)を超えるかもしれない自らの人生をまっとうしなければならない。この状況で「絶望するな」というのは難しいだろう。

それにもかかわらず、きらびやかな世界のなかで、「社会的・経済的に成功し、評判と性愛を獲得する」という困難なゲーム(無理ゲー)を、たった一人で攻略しなければならない。これが「自分らしく生きる」リベラルな社会のルールだ。

わたしたちは、なんとかしてこの「残酷な世界」を生き延びていくほかはない。

2021年6月 橘 玲

*「資本主義の「リセット」議論を WEFシュワブ氏21年のダボス会議テーマに」日本経済新聞(電子版)2020年6月3日