ヘイトコメント対策にAIを使うのは責任をとりたくないから 週刊プレイボーイ連載(497)

皇族の結婚をめぐる一連の騒ぎは、メディアの煽情的な報道だけでなく、ネットやSNSが抱える問題も浮き彫りにしました。

典型的なのは、大手ポータルに掲載された「眞子さん、一番大きな不安は「誹謗中傷が続くこと」文書で回答」という新聞社配信の記事に「誹謗中傷」の投稿が殺到して、コメント欄が非表示にされたケースです。

このニュースポータルはコメント欄設置について、「ユーザーのみなさまが発信主体となることで新しい価値が生まれると信じています」とその意義を述べつつも、「人権侵害や差別に当たりうる投稿は一切許容していません」と強調しています。

しかし現実には、皇族についての記事には毎回数千件ものネガティブなコメントが投稿され、当事者が「恐怖を感じた」と述べ、精神に不調をきたしているにもかかわらず、私人になって以降も同様の状態が続いています。

これが放置できないことはニュースポータルも気づいているようですが、その対応は「AIが判定した違反コメント数などの基準に従い、コメント欄を自動的に非表示とする」というなんとも奇妙なものです。なぜここでAI(人工知能)が出てくるのでしょうか?

AIがチェスや将棋ばかりか、「もっとも難しいゲーム」とされた囲碁でも世界トップ棋士を破ったことは世界じゅうを驚愕させました。すでに医療現場では、エックス線やCTなどの放射線画像診断を高い精度で行なうなど、大きな成果をあげています。

とはいえ、AIがなんでもできるわけではありません。投稿のなかから差別語や猥褻語を抽出するだけなら簡単でしょうが、こうした単純なルールは投稿者がすぐに学習し、一見、中立を装って、あいまいなニュアンスによって攻撃する「嫌味な」表現を使うようになります。現時点で、これを判定できる高度なAIは存在しません(もし可能なら、そのAIは人間と変わらなくなってしまいます)。

だったらなぜ、(できもしない)AIに判定させようとするのか。それは、人間がコメント欄の削除を行なった場合、誰がどのような基準で決めたのかの説明責任が生じるからでしょう。「Aの表現はOKでBの表現はNG」のような整合性のあるルールがつくれるわけもなく、泥沼に陥るのが目に見えています。

それに対してAIの機械学習には、どのような基準で判断したのかわからない「ブラックボックス」という特徴があります。これなら「なぜ削除したのか」の抗議に対して、「AIの判定なので説明は不可能」と回答できて都合がいいのです。

とはいえこれは、ニュースポータルだけを批判すればいい話ではありません。コメント欄をアクティブにするかどうかは記事の配信側で決められるので、誹謗中傷の投稿を予想して、あらかじめコメント欄を閉じておくこともできるはずです。

ところが、多くのコメントが集まる記事はその分だけ閲覧数が増えます。ニュースポータルも配信者もできるだけアクセスを稼ぎたいので、けっきょく「人権」は建前だけになり、誹謗中傷にさらされている者のことなどどうでもよくなってしまうのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2021年11月8日発売号 禁・無断転載

第99回 お宝を教えぬ生保の不誠実(橘玲の世界は損得勘定)

20年くらい前に、知人から保険の見直しについて相談されたことがある。彼女が加入していたのは積立型の終身保険と個人年金保険で、正直、かけすぎに思えたが、予定利率が5.5%(現在は0.25%程度)という、俗にいう「お宝保険」だった。そこで、入院特約や三大疾病保障のような余分なものをすべて外して、主契約だけ残すようアドバイスした。

その後、すっかり忘れていたのだが、つい最近、個人年金が満期になったので、どうすればいいかまた相談された。保険金を一括で受け取るか、15年の分割にするかを決めなくてはならないのだという。

ファイナンス理論的には、どちらが有利かは分割払いにしたときのプレミアム(利率)で決まる。それが予定利率の5.5%なら年金方式がものすごく有利だし、0.25%なら一括で受け取って自分で運用した方がいいかもしれない。

ここまではシンプルだが、彼女はまだ現役で働いていて、いますぐ保険金(年金)が必要なわけではないという。そこでふと思いついて、「65歳や70歳まで受給開始を繰り下げたらどうなるか訊いてみたら」とアドバイスした。

そんな質問をする契約者はあまりいないらしく、生保レディではわからず、本社に持ち帰って回答することになった。

その結果は、予想外のものだった。年金開始を60歳から65歳まで5年間延ばすと「責任準備金差額金の清算金」が発生し、それにともなって約190万円が(年金とは別に)一括で支払われるのだという。たった5年、年金の受け取りを伸ばしただけで、総受給額が16%も増えたのだ(70歳まで受給開始を延ばすことはできないという)。

彼女の話によると、このことを知って(かなりベテランの)生保レディも驚いていたという。繰り下げにともなう一時金は保険の種類や契約によって異なり、繰り下げできないこともあるそうで、「ラッキーですね」と一緒に喜んでくれたらしい。

しかしこの話には、大きな疑問がある。受給開始を繰り下げることで多額の一時金が支払われるのなら、保険会社はこの重要な情報を最初から契約者に説明するべきではないのか。

ところが保険会社は、生保レディだけではなく、一緒についてきた若手の正社員にすら、この仕組みを伝えていなかった。これではまるで、「契約者に有利な(自分たちに不利な)情報は教えません」といっているようなものだ。

生保レディの話では、その契約で繰り下げの一時金を請求したのは彼女で2人目だという。残りの契約者は全員、多額のお金を受け取る権利を知らないうちに放棄させられていたことになる。この保険会社は「社会貢献」にちからを入れていることで有名だが、それ以前にやるべきことがあるのではないか。

とはいえ、思いがけないお金が振り込まれてき知人は大喜びで、ずいぶん感謝された。緊急事態宣言も解除されたことだし、そのうち食事をおごってもらえると期待しておこう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.99『日経ヴェリタス』2021年10月30日号掲載
禁・無断転載

「適当に投票する」のが合理的な理由 週刊プレイボーイ連載(496)

アメリカでもヨーロッパでも、20%以上のひとは、地球が太陽の周りを回っている(地動説)のではなく、太陽が地球の周りを回っている(天動説)を思っているそうです。

2001年の同時多発テロを受けて、アメリカはイラクとアフガニスタンに侵攻しましたが、06年の調査では、アメリカ人の63%は地図上のイラクの場所を知らず、88%はアフガニスタンがどこにあるかわかりませんでした。そればかりかこの調査は、過半数のアメリカ人が地図上でニューヨク州の場所を示すことができないという驚くべき事実を明らかにしました。

とはいえ、これは「バカがたくさんいる」ということではありません。賢いひとでも、「生きていくのに差し支えないことについては、正しい知識を積極的に獲得する合理的な理由がない」ことはじゅうぶんあり得るからです。大半のひとは、天文学や地理を知らなくても幸福に生きていくことができるのです。

政治学はずっと、有権者がごく基本的な知識もなく投票しているという「不都合な事実」に困惑してきました。しかしこれも、「合理的な無知」の一種だと考えれば悩む理由はありません。

自民党は「保守」、立憲民主党は「リベラル」とされますが、安倍元首相は「国際標準では私がやっていることはリベラル」と述べ、岸田新首相は自民党のなかの「リベラル派」とされ、立憲民主党の枝野代表は「私はリベラルであり、保守であります」と演説しました。だとしたら。誰が「保守」で誰が「リベラル」なのでしょうか。

「左派ポピュリスト」政党であるれいわ新選組は最低賃金引き上げを強く主張しましたが、「ネオリベ」の菅政権は、「生産性の低い中小企業を淘汰する」という理由で、反対を押し切って最賃引き上げを実行しました。この政策は、「左」か「右」かどちらになるのでしょう。

これはほんの一例ですが、そもそもこんなことを真剣に考える価値があるのか、疑問に思うひとがほとんどではないでしょうか。一人ひとりの人生には、ほかももっと重要なことがいくらでもあるのですから。

民主的な社会では投票は市民の義務とされますが、国政選挙では自分の一票が候補者の当落や政権選択に影響を与える可能性はほぼゼロです。とはいえ、棄権すると「大人としての自覚がない」という烙印を捺されてしまうかもしれません。だったら、候補者についてなにも知らないまま投票し、会社や学校で「選挙行った?」と訊かれたら「行きました!」と堂々とこたえたほうが精神衛生上いいでしょう。

決定すべきことについて知識がないことが、意思決定の質を下げることは間違いありません。しかし近年の政治学は、投票率がそれなりに高いと為政者にプレッシャーを与え、すくなくとも、戦争や飢餓のような「とてつもなくヒドいこと」のリスクを下げると考えます。

ほとんどのひとは(私も含め)「合理的な無知」のまま投票していますが、これは不道徳でも批判されるべきことでもなく、そんな一票にもちゃんと意味があるようです。

参考:イリヤ・ソミン『民主主義と政治的無知 小さな政府の方が賢い理由』信山社

『週刊プレイボーイ』2021年11月1日発売号 禁・無断転載