「新しい資本主義」が目指すのはグロテスクな世代間差別をなくすこと 週刊プレイボーイ連載(508)

「新しい資本主義」は岸田政権の大看板ですが、施政方針演説やその後の国会質疑でも具体像は語られず、野党からは「ぬかに釘」と批判されています。それでも、DX(デジタル・トランスフォーメーション)や気候変動対策、経済安全保障などと並んで、「格差」に取り組む決意は繰り返し表明されています。

格差というと富裕層と貧困層の二極化の話になりますが、日本の場合、その背景には正規/非正規の「身分差別」、親会社/子会社の「所属による差別」、海外の日本企業で行なわれている本社採用/現地採用の「国籍差別」などのさまざまな「差別」があります。

日本の知識人は右も左も、「終身雇用、年功序列の日本的雇用が日本人(男だけ)を幸福にした」として、「グローバル資本主義の雇用破壊を許すな」と大騒ぎしてきました。ところがその実態はというと、彼らの大好きな日本的雇用が、重層的な差別によって「日本人」や「(本社)正社員」など特権層の既得権を守ってきたのです。

このことは一部の経済学者がずっと前から指摘していましたが、「リベラル」を自称する識者たちは、こうした批判に「ネオリベ(新自由主義)」のレッテルを貼って罵詈雑言を浴びせ、封殺してきました。

差別を容認する者は、定義上、「差別主義者」です。最近になってジョブ型雇用(らしきもの)を推進できるようになったのは、日本的雇用の差別性が司法によって次々と指摘され、このままでは「差別主義者」の烙印を捺されてしまうと気づいた(自称)リベラルが黙るようになったからでしょう。

差別をなくすには、それを生み出す日本的雇用を徹底的に「破壊」するしかありません。「あらゆる差別と戦う」と喧伝してきた労働組合、リベラル政党、リベラルなメディアは、(彼らが「差別主義者」でなければ)諸手をあげて「働き方改革」に賛同するでしょうから、これこそが岸田政権が真っ先に取り組むべき課題です。

日本社会のさらなる大きな格差は、高齢者/現役世代の「世代間差別」です。人口推計では、2040年には国民の3分の1が年金受給者(65歳以上)になり、社会保障費の支出は200兆円で、現役世代を5000万人とするならば、その負担は1人年400万円です。

「世代会計」は国民の受益と負担を世代ごとに算出しますが、2003年度の内閣府「経済財政白書」では、年金などの受益と、税・保険料などの負担の差額は、2001年末時点で80歳以上の世代がプラス6499万円、40歳未満がマイナス5223万円で、その差は約1億2000万円とされました。――これがあまりに不都合だったからか、その後、政府による試算は行なわれていません。

人類史上未曾有の超高齢社会が到来したことで、いまの若者たちは「高齢者に押しつぶされてしまう」という恐怖感を抱えています。その結果、政治家がネットで「あなたたちのために政治に何ができますか?」と訊くと、「安心して自殺できるようにしてほしい」と”自殺の権利”を求める声が殺到する国になってしまいました。

未来を担う若者が生き生きと働ける社会を目指すのなら、このグロテスクな世代間差別を是正しなければなりません。これこそが、岸田政権が実現すべき「新しい資本主義」になるでしょう。

『週刊プレイボーイ』2022年2月7日発売号 禁・無断転載

「下級国民のテロリズム」はますます増えていく 週刊プレイボーイ連載(507)

大阪北新地のビルに入居する心療内科のクリニックが放火され、25人が死亡した惨事(21年12月)は、重度の火傷を負った容疑者(61歳)が事情聴取できないまま死亡したことで、動機などの全容解明が不可能になりました。

その後の報道によると、容疑者は腕のいい板金工として働き、1985年に看護師の女性と結婚、2年後に新築の家を建てて妻と息子2人とともに約20年間この家で暮らしていました。ところが2008年に離婚、翌年、元妻に復縁を申し込んだものの断られ、やがて仕事も辞めてしまいます。そして11年4月、包丁計3本や催涙スプレー、ハンマーなどを持って元妻宅を襲い、居合わせた長男を出刃包丁で殺そうとしたとして逮捕、懲役4年の実刑判決を受けます。

大阪地裁の判決では「寂しさを募らせて孤独感などから自殺を考えるように」なり、「死ぬのが怖くてなかなか自殺に踏み切れなかったため、誰かを殺せば死ねるのではないか」と考えたとされています。

出所後は仕事に就くこともなく、父親から相続した文化住宅に暮らし、自宅を賃貸に出して家賃収入を得ていましたが、借り手がつかなくなったことで経済的に困窮。生活保護を申請したものの認められなかったことから、ふたたび自殺を考えはじめたと思われます。標的が家族から約3年間通った心療内科に変わっただけで、「他者を巻き添えにして死ぬ」という計画はまったく同じです。

この事件が難しいのは、どうしたら防ぐことができたのかがわからないことです。「拡大自殺」の難を逃れた元妻や子どもたちからすれば、出所後の容疑者を受け入れるのはあり得ないでしょう。容疑者に自殺願望があるからといって、いつまでも刑務所に留めておいたり、精神科施設に強制入院させることもできません。銀行口座の残高がゼロになったといっても、2軒の家を所有していて生活保護を認めることは難しいでしょう。

こうして「社会に居場所がなかった」という話になりますが、容疑者の(おそらく)唯一の話し相手だったクリニックの院長は、逆恨みされて生命を奪われてしまうのですから理不尽としかいいようがありません。この状況で、誰がどのような「居場所」を容疑者に提供すればよかったのでしょうか。

この事件が社会を動揺させたのは、容疑者と同じように「どこにも居場所がない」中高年男性が(ものすごく)たくさんいることにみんな気づいているからでしょう。もちろん孤独だからといって犯罪を実行するわけではありませんが、高齢化が進むにつれて母数は確実に増えていきます。

人口動態は大きく変化することはないので、2030年の日本は国民の3分の1が65歳以上の「高齢者」になることがほぼ確実です。歳をとるほど「成功者」と「失敗者」の格差は開いていきますから、「新しい資本主義」がなにをしようとも、居場所のない男たちが社会にあふれることは避けられそうにありません。

それを考えれば、これからも「下級国民のテロリズム」が突発的に起きることを覚悟するほかないのかもしれません。

参考:「25人犠牲 孤立深めた末に」2022年1月18日「朝日新聞」

【追記】このコラムの掲載3日前に起きた埼玉県ふじみ野市の医師射殺事件も、状況は異なるものの、「下級国民のテロリズム」の一形態なのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2022年1月31日発売号 禁・無断転載

美男/美女でも幸福にはなれない? 週刊プレイボーイ連載(506)

SNSに自撮りがあふれる現代社会では、外見で幸不幸が決まるのは当然とされています。では、美男/美女はほんとうに幸福なのでしょうか。これを調べたアメリカの興味深い研究があります。

実験では、イリノイ大学の白人学生200人(男女ほぼ同数)に「全体的な幸福感」「生活満足度」「ポジティブ感情」を測るテストを受けたもらったあと、顔写真と動画を撮影し、それを第三者が10段階で評価しました。客観的な評価は2.33から7.05の範囲でばらつき、(常識どおり)外見の魅力にはかなりの「格差」があることが確認されました。

ところが奇妙なことに、女子学生では外見の魅力と幸福度になんの関係も見られませんでした。そればかりか、統計的に有意ではないものの、「全体的な幸福感」は「魅力的なほど低くなる」という逆の結果になったのです。「美人は不幸」とまではいえませんが、けっして「幸福」ではないのです。

男子学生も、「生活満足度」のみ、外見が魅力的なほど高くなりましたが、あとの指標はほとんど影響がありませんでした。美男子だからといって、「全体的な幸福感」や「ポジティブ感情」が高くなるわけではないのです。――ただし例外が一つあって、男でも女でも、「魅力的であることが重要だ」と思っている学生は、外見が幸福度に影響していていました。

次に研究者は、外見の魅力度を上位4分の1(美男美女)と下位4分の1に分けて、幸福度とデートの回数を調べてみました。

幸福度については、外見にかなりの差があっても、やはり同じ結果になりました(統計的に有意ではないものの、女子学生では、外見の魅力がない方が幸福度が高くなりました)。一方、デートの回数には男女差があって、女性ではたしかに魅力的な方がデートしていましたが、男性ではほとんどちがいがありませんでした。

なぜこんなことになるのでしょうか。ひとつは、同じ顔写真を見ても、あるひとは「魅力的」と思い、別のひとは「そうでもない」と思うこと。外見の評価にはかなりの多様性があって、これによって、平均的には魅力度の低い学生も、「美男/美女」とさほど変わらない頻度でデートできるようです。――男子学生の場合、外見よりコミュ力のような別の指標で評価されているのかもしれません。

もうひとつは、「幸福なひとほど魅力的で恋愛にも積極的」という逆の因果関係があること。「美人だから幸福度が高い」のではなく、「主観的な幸福度が高いと、自分を魅力的に見せようとして、結果として恋愛もうまくいく」のです。

ビールは最初の一杯が美味しくても、あとは惰性になってしまうように、ヒトの脳はあらゆることにすぐに慣れてしまいます。研究者は、「美男/美女は幼い頃から自分の容姿に慣れているので、それが幸福感と結びつかないのだ」と説明しています。

とはいえこれは、「魅力があってもなにもいいことはない」という話ではありません。一般に思われているように、外見が魅力的だとさまざまな場面で得をしますが、本人たちはそれが当たり前なので、いちいち自分が恵まれているとか、幸福だとか思わないようなのです。

参考:Ed Diener, Brian Wolsic and Frank Fujita(1995)Physical Attractiveness and Subjective Well-Being, Journal of Personality and Social Psychology

『週刊プレイボーイ』2022年1月24日発売号 禁・無断転載