あなただけの〈U〉

『文學界』2022年2月号「特集 AIと文学の未来」に寄稿した「あなただけの〈U〉」を、編集部の許可を得てアップします。

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ディズニーアニメ『美女と野獣』を下敷きにした細田守監督のアニメ映画『竜とそばかすの姫』では、高知県の田舎町に住む女子高生すずが、世界50億人が利用する〈U〉というネット空間で歌姫のベル(Belle)になり、そこで竜という野獣(Beast)と出会う。

〈U〉はVoices(ボイシズ)という5人の賢者によって創造された究極の仮想世界で、イヤホンや腕時計、眼鏡などの専用デバイスから生体情報を読み取り、最適な分身As(アズ)が自動生成される。

そのためアバターは、本人の現実世界の一部を反映している。歌が好きだった母を目の前で亡くしてから、すずは歌うことができなくなるが、仮想空間では歌姫として「再生」されるのだ。

映画の冒頭で、ひとびとを仮想空間へと誘うプロモーションが流される。

「〈U〉はもうひとつの現実。Asはもうひとりのあなた。ここにはすべてがあります」
「現実はやり直せない。でも〈U〉ならやり直せる。さあ、もうひとりのあなたを生きよう。さあ、新しい人生を始めよう。さあ、世界を変えよう――」

〈U〉のメッセージは、「ヴァーチャル空間でもうひとつの人生を手に入れ、世界を変えよう」とひとびとを誘惑する。なぜなら、現実(リアル)は壊れているから。

このように論じるのは、ゲームデザイナーのジェイン・マクゴニガルだ。“Reality is Broken(現実は壊れている)”――邦訳は『幸せな未来は「ゲーム」が創る』(早川書房)では、若者たちがゲームに夢中になるのは、現実では見つけられない人生の価値を提供しているからだと述べている 。

「現実世界は、仮想世界が提供するような周到にデザインされた楽しさや、スリルのある挑戦、社会との強い絆を容易に提供することはできません。現実は効果的にやる気を引き出したりはしませんし、私たちが持つ能力を最大限に引き出して何かに取り組ませることもありません。現実は私たちを幸せにするためにデザインされていません」

こうして「現実は不完全だ」と考えるようになったゲーマーたちは、大挙して「ゲーム空間へのエクソダス(大脱出)」を敢行することになったのだという。

ゲームはプレイヤーをフロー状態にするよう設計されており、「ワールド・オブ・ウォークラフト」のようなMMO(大規模多人数同時参加型)ロールプレイングゲーム(RPG)では、仲間たちとちからを合わせて世界全体を改善している(壮大な物語に貢献している)という感覚を得ることができる。

現実世界では、わたしたちは「失敗してはならない」という強い圧力を受けていながら、富や名声など実現不可能な目標によって失敗を不可避にしてしまっている。これはいわば「攻略不可能なゲーム(無理ゲー)」で、世界じゅうで疫病のようにうつが広まる原因になっている。

だがゲームは、「楽しい失敗」をするように設計されている。子どもたちがゲームが大好きなのは、失敗するからだ。いちども失敗せずにクリアできるゲームほどつまらないものはない。

優れたゲームは、失敗するほど「もっとうまくなりたい」という気持ちになるようなフィードバックを送っている。だからこそもっと没頭したくなり、もっと楽観的になって成功への期待が高まっていく。

それに対して現実世界では、希望を感じさせるような挑戦は稀で、失敗は挫折を生むだけだ。マクゴニガルは、「ゲームと比べると、現実には希望がない。ゲームは失敗への恐れを取り除いて、成功のチャンスを高めてくれる」という。

AI(人工知能)は専門家の予想をはるかに超えるスピードで性能を向上させているが、AIだけを単独で取り上げて論じてもあまり意味がない。シンギュラリティ大学の創設者であるピーター・ディアマンディスは、驚異的なイノベーションは、さまざまな分野で開発された驚異的なテクノロジーが「融合(コンヴァージェンス)」することで生まれるという(ピーター・ディアマンディス、スティーブン・コトラー『2030年 すべてが「加速」する世界に備えよ』 NewsPicksパブリッシング)。

とはいえ、テクノロジーによって社会が根底から変わるというのは机上の空論だ。現実の社会は複雑怪奇な利害によってがんじがらめになっており、AIによる「改革」が導入されるには膨大な議論と途方もない時間がかかるだろう。既得権を脅かされる側が権力をもっていれば、どのような「正しい」提案も、難癖をつけて葬り去ることができる。その提案をするのが「機械」であれば、なおさらだ。

しかしヴァーチャル空間であれば、なんのしがらみもなく「世界」を最適設計できる。AIが「融合」によってその潜在能力をいかんなく発揮するのは、〈U〉のような仮想世界なのだ。

SNS最大手のフェイスブックが社名を「メタ」に変えたのは、メタバース事業に注力するためだという。ゴーグル型の仮装現実(AR)端末を使って3次元の仮想空間に「没入」する体験がどのようなものかはまだよくわからないが、確かなのは、今後、IT企業が多種多様なメタバースを開発し、市場に投入して、そのなかからユーザーに選ばれたものだけが生き残ることだ。

この競争はきわめてはげしいものになるだろうが、フェイスブックやインスタグラムのユーザーを自社のメタバースに誘導して別の「世界」をつくれば、文字どおり「世界を変える」ことができる。社名変更は米上院によるSNS批判をかわすためともいわれたが、創業者マーク・ザッカーバーグの意図はきわめて明快だ。

とはいえ、メタバースでまったく新しい「世界」が誕生するわけではない。ヒトの脳には「進化的制約」とでもいうべきものがあり、ひとびとが求めるものは限られている。それを端的にいうなら、「生存」「性愛」「評判」だ。

このうち「生存」は、人類史の大半においてもっとも困難な課題だったが、第二次世界大戦以降、「とてつもなくゆたかで、とてつもなく平和な社会」を実現したことで、欲望のリストから消えつつある。先進国のひとびとの関心は、いまや「どうしたら食べなくできるか(ダイエット)」なのだ。

「性愛」は、男と女では欲望の持ち方がちがう。これは男(精子を無制限につくれる)と女(妊娠・出産・育児のコストがきわめて高い)の性戦略が異なるからで、その結果、男の欲望は「性(若い女とセックスすること)」、女の欲望は「愛(理想の男=アルファから愛されること)」になる。これはメタバースでは、VRのポルノやロマンスとして提供されることになるだろう。

しかし脳にとって、性愛よりもさらに重要なものがある。それが「評判」だ。徹底的に社会化された動物である人間は、共同体のなかで大きな評判を得ると幸福度が上がり、評判が傷つけられると、殴られたり蹴られたりするのと同様に(あるいはそれ以上に)傷つくように進化の過程で「プログラミング」されている。SNSは評判を可視化するというイノベーションによって、世界じゅうの若者を虜にする(依存症にする)ことに成功した。

性愛も金銭(経済的な成功)も、大きな評判があれば手に入る。この単純な事実から、AIなどのテクノロジーによって最適化されたメタバースでは、ひとびとは夢中になって評判を求めるようになるはずだ。メタバースは、人類史上はじめて実現する純化した「評判社会」になるだろう。

ここで問題になるのは、評判がロングテール(ベキ分布)になることだ。Twitterでは、どこまでも延びるテール(尾)の端に、オバマ元大統領やジャスティン・ビーバー、ケイティ・ペリー、リアーナのように1億人を超えるフォロワーをもつセレブリティがいる一方で、数十人から数百人のフォロワーしかいない大多数がショートヘッドを形成している。

平和な時代が続くと富(資産)がロングテールの分布になり、これが「経済格差」と呼ばれるが、評判はお金よりもさらにベキ分布になりやすく、「評判格差」は苛烈なものになる。なぜなら、お金は(徴税のような国家の“暴力”で)再分配できても、評判を再分配することはできないから。

50億人が利用する〈U〉で圧倒的な人気があった歌姫のペギースーは、ベルにその座を奪われたことで嫉妬するが、それ以外にいるはずの膨大な数の歌い手は話題にすらならない。ネットワークが無限大に拡がっていく仮想空間では、ロングテールの端の位置を占めることはきわめて難しい(というより、ほとんど不可能だ)。

だとしたら、どうすればいいのか。AIによって最適設計されたメタバースでは、最終的には、一人ひとりの〈U〉がつくられるのではないだろうか。

『竜とそばかすの姫』で、アバターの「ベル」が「竜」に出会って物語が展開するのは、それがすずのための仮想空間だからだ。同様に、すべてのユーザーに、それぞれが主人公となる物語が用意されているとしたら、評判格差を気にせず、誰もがヒーロー/ヒロインとして活躍できるだろう。

テクノロジーの指数関数的な進歩を考えれば、いずれクラウド上に80億のメタバースがつくられても不思議はない。そのときこそ、ひとびとは「もうひとつの現実」で新しい人生を始め、ありのままの姿で「自分らしく」生きられる「自分だけの世界」を創造することになるのではないだろうか。

『文學界』2022年2月号 禁・無断転載

第100回 続・お宝を教えぬ生保(橘玲の世界は損得勘定)

生保の個人年金の受給開始を60歳から65歳まで5年間延ばしただけで、「責任準備金差額金の清算金」が発生して、約190万円(総受給額の16%)が銀行口座に振り込まれた知人の話を前回書いた。その彼女から、「こんなものを見つけた」と、「年金開始のしおり」という加入者向けの資料が送られてきた。

「ご契約内容を変更する」の項目には、「年金開始日を変更する(年金繰下げ等)」があるが、そこには、受給前に契約者が死亡した場合は死亡給付金の受け取りになり、年金の総受給額より少なくなる場合があるというリスク説明があるだけで、詳しいことは担当者に相談せよとなっている。

これだけでは、繰り下げによってまとまった額の清算金が受け取れるとはまったくわからないので、ほとんどの契約者は真剣に検討することなくスルーしてしまうはずだ。もちろんこれは保険会社の策略で、予定利率の高い「お宝保険」を繰下げ受給されてしまうと、保険会社の持ち出し(赤字)になってしまうからだろう。

この保険会社はSDGsにちからを入れていて、「地球環境や地域社会への貢献」をうたっているが、もっとも大切な「顧客への貢献」を忘れているのではないか――と皮肉のひとつもいいたくなるのは、「年金を毎年すえ置く(当社で預かる)」という選択肢を見つけたからだ。

据え置きを選択すると、「所定の利率」で顧客の年金を一定期間預かり、運用してくれるのだという。この「所定の利率」が保険加入時の利率(彼女の場合は年率4.5%)なら、これもじゅうぶん検討する価値があるが、担当者からはやはり一切説明がなかったという。

本来であれば、年金を据え置いた場合と、受給を繰り下げた場合の総受給額を試算して、保険加入者が有利な方を選択できるようにすべきだ。しかし実際には、保険会社にとって有利な(顧客にとっては不利な)「60歳受給開始」に顧客を誘導しているのではないか。

もうひとつ気づいたのは、年金の受け取り方に「定額型」「逓増型」「前厚型」の3種類があることだ。逓増型では、1年目の年金額の5%が(単利で)毎年増えていく。前厚型では、当初の5年間は増額された年金を受け取り、6年目以降は半額になる。

詳細は書かれていないが、受け取りを後ろ倒しにすればプレミアムが、前倒しにすればペナルティが発生するはずだ。それは総受給額に反映されるので、定額で受け取る標準的な方法に比べて、逓増型や前厚型を選ぶとどの程度の増減になるかもシミュレーションしてもらう必要がある(プレミアムが大きければ逓増型が、ペナルティがなければ前厚型が有利になる)。

こうしたことは、金融商品の仕組みを理解するうえでの常識だが、どうやら保険会社は、顧客が金融リテラシーを身につける手伝いをする気はないようだ。個人年金保険に加入しているひとは、保険の見直しだけでなく、受け取り方もちゃんと考えた方がいいだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.100『日経ヴェリタス』2021年12月25日号掲載
禁・無断転

米中対立は「言うだけ番長」 週刊プレイボーイ連載(504)

「今年はどうなる?」の予想が当たる確率はせいぜいコイン投げと同じというのが相場ですが、数少ない例外のひとつに米中対立があげられるでしょう。

バイデン政権は、国内が共和党支持(保守派)と民主党支持(リベラル)に二極化しているだけでなく、「過激化したリベラル」である左翼(レフト)からもはげしく批判されています。社会が不安定化したときに、特定の国(第二次世界大戦前の日本の鬼畜米英)や特定の集団(ナチスのユダヤ人に対するホロコースト)を悪魔化するというのは、歴史上、繰り返し行なわれてきました。

誤解のないようにいっておくと、もちろん中国にも批判される理由があります。とりわけ新疆で行なわれている監視テクノロジーを駆使したウイグル族への弾圧は、現代のリベラルな社会ではけっして容認できないものです。

とはいえこれは「米中冷戦」というコインの表側で、その裏側には欧米諸国の「コロナ敗戦」があります。コロナの死者・感染者数でみても、経済への影響や財政負担でみても、欧米の民主国家が感染症への対応で失敗したことはもはや否定しようがなくなっています。しかしこれは、「自分たちがもっとも優れている」と信じている(リベラルを含む)欧米の白人たちには受け入れがたい「ファクト」でしょう。――さらにアメリカにとっては、2030年代にGDPで中国に逆転される予想が現実味を帯びてきたという背景もあります。

そんなバイデン政権が昨年末に鳴り物入りで開催した「民主主義サミット」は、オンラインで行なわれたこともあって、まったく盛り上がらないまま、共同声明もなしに閉会しました。中国とロシアを「非民主国家」として排除する一方で、人権団体から「独裁」と批判されているフィリピンのドゥテルテ大統領やブラジルのボルソナロ大統領を招待したことで、すっかり足元を見透かされたようです。北京冬季オリンピックの「外交ボイコット」も、「嫌がらせ」以上の影響力はないでしょう。

米中対立が冷戦から熱戦に発展する可能性はあるでしょうか。これについて興味深いのは、トランプ支持者による連邦議会占拠事件(21年1月6日)の2日後、米軍トップの統合参謀本部議長が、中国人民解放軍のトップに電話で、中国を攻撃する意図はないと説明していた事実が暴露されたことです。

しかしこれは、軍幹部の損得勘定を考えれば不思議でもなんでもありません。米中両軍が衝突すれば兵士に大きな犠牲が出るでしょうし、万が一負ければ(あるいは予想以上の損害を被っただけで)責任をとらされて幹部のクビが飛ぶかもしれません(人民解放軍幹部にとっては生命の保証もないでしょう)。

だとすれば、米中どちらの軍幹部にとっても、危機を煽って多額の軍事予算を確保しつつ、ほんとうに危機が近づいたら、お互いに裏で話し合って丸く収める「言うだけ番長」が唯一の合理的な解なのです。

ゲーム理論によるこうした説明は「机上の空論」とされますが、軍人たちは実際に理論どおりの行動をしていました。今年も米中はお互いに罵り合うでしょうが、事態がエスカレートすることはなく、わたしたちは「ぎすぎすした平和」を享受できると予想しておきましょう。

『週刊プレイボーイ』2021年12月27日発売号 禁・無断転載