ギリシアの「南の思想」は北のヨーロッパの合理性に対抗できるか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2015年7月公開の「ギリシア問題の本質は、「南」が経済だけでなく思想、ライフスタイルすべてで「北」に敗北したということ」です。(一部改変)

SCStock/Shutterstock

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2015年7月5日に行なわれた国民投票でギリシア国民はEUの緊縮財政策に「NO」の意思表示をしたはずなのだが、その民意を受けて交渉に臨んだチプラス首相はあろうことか、ユーロ圏首脳会議でドイツなどが強硬に主張したより厳しい財政改革案を丸呑みし、国会での法制化を条件とする金融支援再開が決まった。「民主主義」によって反対と決めたはずなのにいつのまに賛成しているという不条理劇みたいな話だが、誰も驚いていないところにギリシア危機の病理の深さがある。

参考:金融危機のギリシアで、世界の残酷さについて考えたこと

このEU首脳会議ではじめて知ったのだが、ギリシアの提案に首相同士が合意しても、ドイツだけでなく(ギリシアに対してきわめて批判的な)フィンランドや東欧諸国でも国会の承認が必要で、支援策の実行にはEU加盟国すべての合意が条件になっているのだから、チプラスがどんな名演説をしようが債権放棄のような大幅な譲歩を獲得できる可能性は最初からゼロだった。高齢にもかかわらず徹夜で協議をまとめたEU首脳はもちろん、株価や為替の乱高下に振り回された市場関係者や投資家もたまったものではないだろう。

なぜこんなことになってしまったのかは、EU発足時の構造的な欠陥だとか、ギリシアの前近代的な政治風土だとか、いろいろなことがいわれている。それらはどれも間違ってはいないが、ここではすこし視点を変えて、この問題を「北の思想」と「南の思想」の対立として考えてみたい。

合理的・計画的に社会を構築(デザイン)していこうする意思

“北のヨーロッパ”は北欧(スウエーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク)やベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)のことで、それにアイスランドやスイスなどが加わる。これらの国はどこも1人あたりGDPが高く、福祉が充実していて、国連の「幸福度報告書」で上位の常連になっている(2015年版世界の幸福度ランキングでは1位がスイス、2位がアイスランド、3位がデンマーク。ちなみに日本は43位から46位に順位を下げた)。そしてこの「幸福な国々」は、ギリシアに対してきわめてきびしい態度をとる国でもある(ノルウェーとアイスランドはEU未加盟)。

“北のヨーロッパ”がどんな社会かを知るには、(昨年までは「世界でいちばん幸福な国」だった)デンマークの通勤風景を見るといい。コペンハーゲンでは自転車道が歩道と完全に分離されていて、自転車で通勤するひとたちは車道の右側を走り、逆走は許されず、信号が赤になれば横断歩道の手前で停まる(要するにオートバイと同じ扱いだ)。

この自転車道は車道とも明確に分離されていて、車は入ってこないようになっている。このためきわめて安全で、自転車の後ろにベビーカーをつけ、赤ん坊といっしょに自転車通勤する母親(あるいは父親)の姿も珍しくない。

自転車を歩行者からも車からも分離する交通システムはオランダのアムステルダムなどで始まったが、10年もしないうちに“北のヨーロッパ”全体に広がった。なぜなら、この方が誰にとっても快適だからだ。この自転車通勤が象徴するように、“北の思想”の特徴は合理性へのあくことなき追求で、彼らにとっては効率的なシステムこそが快適をもたらすのだ。

“北のヨーロッパ”はどこも福祉を重視する大きな政府だったが、それが80年代に次々と行き詰まると、福祉を活かしたまま効率的な小さな政府をつくることに舵を切った。この新しい国家モデルは、いまでは“ネオリベ型福祉国家”と呼ばれている。

デンマークにおいて新自由主義的改革を全面的に推し進めたのは、2001年から09年まで3期にわたって首相の座にあったアナス・フォー・ラスムセンだ。そのラスムセンは、憲法の規定によって09年に政権を引き渡すときに、「2020年までに果たすべき10の目標」をデンマーク国民に宿題として残した。それを見ると、この国が目指しているものがよくわかる。

  1.  国民1人あたりGDPで、世界でもっともゆたかな国のベスト10に入る(2000年7位)
  2.  世界でもっとも起業家の多い国ベスト3に入る(2005年5位)
  3.  労働力人口に占める就労者の割合が世界でもっとも大きい国ベスト10に入る(2001年12位)
  4.  子どもの学力が、読解、数学、自然科学ではPISAの国際比較でベスト5に入ること。英語は、英語を母語としない国と比較してベスト5に入ること(2006年読解15位、算数10位、科学18位)
  5.  タイムズ紙における世界大学ランキングにおいて、少なくともひとつがヨーロッパの大学ベスト10に選ばれること(2009年コペンハーゲン大学15位)
  6.  平均寿命の長さで世界ベスト10に入ること(2006年22位)
  7.  世界でもっともエネルギー効率のいい国ベスト3に入ること(2009年19%、順位不明)
  8.  非西側世界から来た移民やその第二、第三世代を、EUで労働市場にもっともうまく統合した国のひとつになること(2002年時点で非西欧諸国からの移民の就労割合は45%、デンマーク人の就労割合は78.4%)
  9.  国内で犯罪に巻き込まれる可能性がヨーロッパでもっとも低い国のひとつになること(2005年で5位)
  10.  失業率、公共財政赤字、インフレ率、国際収支赤字などの基準で、世界じゅうでもっとも強靭な経済を備える国、ベスト5を維持すること(2007年4位)
    *鈴木優美『デンマークの光と影 福祉社会とネオリベラリズム』(リベルタ出版)より

こうして見ると、平均寿命や子どもの学力、治安など日本の方がすぐれている項目もあるが、起業率や財政赤字などまったく太刀打ちできないものも目につく(そもそも日本の財政状態ではEUに加盟することすらできない)。だがここで日本とデンマークの優劣を論じても意味はない。注目すべきは、このような「国家目標」を定めたら、それを実現すべく合理的・計画的に社会を構築(デザイン)していこうとする国民性だ。

そしていま、“北のヨーロッパ”のひとびとは、自分たちがやってきたのと同じ「ネオリベ的改革」をギリシアにも要求している。だが果たして、そんなことが可能なのだろうか。

「速さ」と「過剰」に対抗する「遅さ」と「適度」

“北のヨーロッパ”がネオリベ型福祉国家という自分たちのモデルに強烈な自負を持つのは、世界幸福度調査などで明らかなように、それが目に見える結果を出しているからだ。国連から「世界でもっとも幸福な国」のお墨付きを得た彼らは、EUのすべての国が、あるいは発展から取り残されている世界のすべての国が、「幸福」になるために、自分たちと同じような“合理的”改革を行なうべきだと考えるだろう――それも善意によって。

それを“南”のひとびとはどのように受け止めているのだろうか。

“北の思想”が福祉社会と新自由主義の融合というはっきりしたビジョンを掲げているのに対して、南欧の国々にどのような「思想」があるのかはあまりはっきりしない。だがその特徴が、反近代、反グローバル資本主義、反消費主義、反新自由主義であることは間違いないだろう。しかし、“北”の価値観(と彼らが考えているもの)すべてに反対しても、これを「思想」と呼ぶことはできない。

南イタリア、バール在住の哲学者フランコ・カッサーノは、“南の思想”を「ゆっくり歩むこと」と「適度であること」だと述べる(『南の思想 地中海的思考への誘い』ファビオ・ランベッリ訳/講談社選書メチエ)。

カッサーノによれば、地中海はかつて世界の中心であったにもかかわらず、ヨーロッパの近代化によって「周縁」に追いやられ、「遅れた」「開発すべき」「劣等」な地域に貶められている。それに対して“南”は自らの尊厳を放棄し、必死に“北”の真似をしようとしているが、それでは永久に自律性を取り戻すことはできない。

“北”すなわちヨーロッパ近代の特徴は「速さ」と「過剰」にある。それは先進国のひとびとに目も眩むようなゆたかさをもたらしたが、同時に、植民地主義やホロコースト、核戦争のような病理的なゆがみをも生んだ。だとしたら“南”は、いたずらに“北”を崇め追随するのではなく、「遅さ」と「適度」によって病的な近代を治癒しなければならない。カッサーノは次のようにいう。

最も速い恋愛とはお金で買える愛であり、加速化された教育は知の消化を勝手に時間的に圧縮できることを前提にするものとなる。ファストフードレストランの客は、同じテーブルに座っていても互いに無関係であり、それぞれの孤独の計算に夢中になっている「個」人でしかない。

和解の余地はどこにもない

こうした考え方はいまではそれほど目新しいものではなくなった。カッサーノが『南の思想』を出版したのは1996年で、この20年のあいだに「“南”は文化や哲学、生き方において“北”に対抗すべきだ」との感覚は南イタリアだけでなく、スペインやギリシアなど南欧諸国でも広く共有されるようになった。今回の国民投票でひとびとが口にした「ギリシアの尊厳」の背景には、こうした“南の思想”がある。

「過剰」で「速い」“北”は、彼らの歪んだ生き方を傲慢な態度で“南”に押しつけようとしている。そこには異なる社会や文化を尊重する寛容もなければ、自分たちとは別の生き方を望むひとたちと真摯に対話する誠実さもない。“北”が要求するさまざまな「改革」は、「国家の品格」を全否定するのだ。―-そう考えれば、ギリシアの保守的な(愛国的な)知識層の怒りがわかるだろう。

だがこうした批判を、“北”のひとびとがぜったいに受け入れないことも間違いない。“南の思想”は、“北”の彼らが享受している恋愛や友情、家族への愛情などはすべてニセモノで、世界幸福指数がはじきだした「幸福」になどなんの価値もない、といっているのだから。

ついでにいっておくと、カッサーノが描く病的な“北”は、映画『ウォール街』のゴードン・ゲッコーのような金ぴかで薄っぺらな強欲さのことだ。それに対して北欧のひとたちは、質素と倹約を旨とし、自然とのふれあいをこよなく愛している。彼らにすれば、ユーロ加入でバブルに踊ったギリシア人の方がよほどグローバル資本主義の病理におかされているのだ。

もちろん、ここでどちらの“思想”が正しいのか審判を下すことはできない。ひとつだけたしかなのは、“北”と“南”の思想が真正面からぶつかったとき、和解の余地はどこにもないことだ。あとは感情的な対立がヒートアップしていくだけだろう。

“南の思想”は魅力的だが、それをまっとうするのなら、ギリシアはユーロ(すなわち“北”)に組み込まれるべきではなかった。いまさらどれほど立派なことをいったとしても、「説教するなら借金を返してからにしてくれ」と反論されて、それでおしまいだ。

ギリシア問題の本質は、速い“北”と遅い“南”の経済効率が大きく異なることにある。南のひとたちがゆたかさを求めて北に頼ったときに、「遅さ」と「適度」は放棄された。いまさらそれを取り戻そうと思っても、もう「遅い」のだ。

ギリシアはたんに経済的に「敗北」したのではなく、思想も、ライフスタイルも、人生の喜びまでも“北”に合わせることを要求されている。しかもその「幸福」は、彼らにとってはなんの魅力もない「孤独な自由」にすぎない。

いうまでもなくこれはきわめて理不尽な状況だが、ギリシアにはほかに道はない。国民がどこまで我慢できるかはわからないが。

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