世界的に「リベラルの失敗」が議論されています。しかしこれは、「リベラルズムが間違っていた」ということではありません。それとは逆に、「リベラルはあまりに成功したからこそ、失敗した」のです。
リベラリズムを「自分らしく生きるのは素晴らしい」という価値観と定義するならば、「私は自分らしく生きるが、あなたにはその権利がない」ということはできません。こうしてリベラルは、性別や人種、性的志向など自分では変えることのできない属性による差別を否定し、すべてのひとに平等な機会を与え、理不尽な差別に苦しんでいた多くひとたちの人生をよいものに変えました。
これはもちろん素晴らしいことですが、女性や有色人種、同性愛者などマイノリティの法的権利が次々と認められるにつれて、運動は行き詰まってしまいます。低い枝に実った果実を収穫してしまえば、あとは高い枝に手を伸ばすしかありませんが、それは簡単ではないのです。
そこでリベラルは、大きく2つの戦略に頼ることになりました。
1つは「マイノリティ探し」で、社会のなかで差別されている新たな集団を見つけて、それを運動の核にしようとしました。こうして「発見」されたのがトランスジェンダ―ですが、その割合は多く見積もっても人口の0.5%程度で、(その運動が無意味とはいいませんが)大衆の広い共感を得ることはできませんでした。
もう1つは、法律以外のさまざまな「制度的差別探し」で、そうした問題が残っているのは間違いないとしても、自分たちを「目覚めた者(ウォーク)」として、白人や男性などマジョリティの「無意識の差別」を上から目線で批判する態度に強い反発が生じたのは当然です。
しかしより本質的な困難は、リベラルな社会がメリトクラシーを土台としていることです。
日本では「能力主義」と訳されますが、「メリット」の本来の意味は、学歴・資格・経験(職歴)のような「客観的に評価できる人的資本」のことです。リベラルな社会では属性にもとづく選別は許されませんが、それでも組織を維持するには、入学や採用・昇進などで個人を評価することが必要になります。このとき唯一公正な評価基準が、「努力によって獲得できる(とされている)メリット」なのです。
しかしいうまでもなく、これは机上の空論です。メリットは知能に強く依存しており、知能のばらつきの大半は環境ではなく遺伝によってほぼ決まるからです。こうして、メリットをもてないひとたちが知識社会から「脱落」し、怨嗟の声をあげるようになりました。
しかしリベラルは、この事態にまったく対応できません。平等な社会では、成功できないのは「自己責任(努力が足りないから)」になるしかないのです。
だったら、メリトクラシーを廃止すればいいのでしょうか。でもこれでは、個人を身分によって差別する前近代の社会に戻ってしまいます。メリトクラシーが問題であることはわかっていても、誰もその代案を出すことができないのです。
ひとつだけ確かなのは、これがリベラルが嫌われる理由だとするなら、この状況を変えるのはほとんど無理ということです。
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