巨大な「近世帝国」としての中国

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2013年1月公開の記事です。(一部改変)

f11photo/Shutterstock

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2012年11月の中国共産党大会で習近平(Xi Jinping)が総書記に選出され、次期首相に指名された李克強(Li Keqiang)との新指導部が固まった。ここに至るまでには共産党中央政治局員で重慶市トップの薄熙来(Bo Xilai)が失脚した激しい権力闘争があり、今年に入ってからは広東省の週刊紙『南方週末』をめぐる記事差し替え問題で広範な抗議行動が起きるなど、中国が政治的・社会的な変動期を迎えたことを示す事件が相次いでいる。

チベットなど少数民族の人権問題やリベラルデモクラシーを求めるひとたちへの政治弾圧、尖閣諸島(中国名:釣魚島)への度重なる領海侵入や南シナ海の南沙諸島をめぐるベトナム、フィリピンとの領有権争いなど、国際社会の懸念を募らせる問題も数多い。

私たちは、この巨大な隣人とどのようにつき合えばいいのだろうか?

ポスト中国はやはり中国

2012年9月の反日デモや、沿海部を中心とする人件費の高騰によって日本企業はチャイナリスクを意識せざるを得なくなり、ベトナムやカンボジア、ミャンマーなど「チャイナプラスワン」が注目されるようになった。日本の大手企業が東南アジアに工場を建設するほか、中産階級の台頭を見越して流通業や飲食チェーンの進出計画も相次いだ。

こうした報道を読むとき、私たちは無意識のうちに、中国とベトナム、カンボジア、ミャンマーを「同じ」国としてイメージしている。

もちろん、中国が15億の巨大な人口を抱えていることは誰もが知識としては知っている。だがその数を具体的にイメージできるだろうか?

下のグラフを見ていただきたい。東アジア、東南アジアの国々と、中国の省・自治区・直轄市の人口を並べたものだ。

中国を除けば、このなかでもっとも人口が多いのはインドネシア(2億3000万人)だが、その国境は帝国主義時代に欧米列強によって決められたもので、言語、宗教、民族の異なる多数の島が集まった多民族国家として長く軍事独裁がつづき、97年のアジア通貨危機でスハルト政権が崩壊して、いまようやく民主制国家として歩みはじめたばかりだ。日本に次ぐ人口を持つフィリピン(9400万人)も同じく多民族国家で、1986年にマルコス政権が倒れるまではやはり軍事独裁だった。

日本も含め「単一民族国家」は神話にすぎないが、すくなくともベトナム、タイ、韓国では民族=国家という神話が成立している。そのような「近代国家」と比較して、華南、広東、山東、四川、江蘇、河北、湖南、安徽、湖北、青海、浙江の各省は、それと同等か、それ以上の人口規模を持っている。省(自治区)をひとつの国と考えるならば、「アジアの大国20」のうち13までは中国国内にある。

チャイナプラスワンとして話題になる東南アジアの新興国のうち、人口規模ではミャンマー(5000万人)がかろうじて17位、カンボジア(1480万人)は37位で上海市とほぼ同じ、ラオス(630万人)は630万人でその半分以下だ。

このように中国の人口を「見える化」すると、その途方もない大きさがはっきりわかる。中国に代わり得る国は(インドを除けば)アジアにはなく、ポスト中国はやはり中国なのだ。

ヨーロッパは「できそこないの帝国」

中国を理解するひとつの考え方として、「中国=EU説」がある。

中国は50を超える少数民族の住む多民族国家だが、人口構成では漢族(Chinese)が9割を超える。だが彼らの話す言葉は地方ごとに特色があり、普通話(官話)と広東語や福建語は文法まで異なり互換性はない。ひとびとは家庭内や同郷の者とは地方言語で会話し、それ以外の中国人には共通語である普通話(Mandarin)を使う。アイデンティティは言語に強く依存するから、彼らは自分たちを「中国人」よりも広東人、福建人、上海人だと考えている。

こうした関係は、たしかにEUによく似ている。

フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語は同じロマンス語の系統で、異なる言語というより方言に近く、お互いがそれぞれの言葉を話してもある程度の意思疎通が可能だ。だが同じコーカソイド(ヨーロッパ白人)でも英語やドイツ語などのゲルマン語とは明らかに異なり、互換性がないため共通語(普通話)として英語が使われる。

ヨーロッパの知識層(中流階級)は各国語と英語のバイリンガルだが、中国人は地方言語(たとえば広東語)と普通話のバイリンガルで、香港やシンガポールでは英語を加えたトリリンガルが一般的だ。

EUで共通通貨ユーロが広く使われているように、中国ではすべての省(行政区)で共通通貨・元が流通している。ユーロ圏は通貨だけを共有し、各国の財政政策がばらばらのままで苦しんでいるが、元圏は通貨も財政も統一されており、各省(各国)は税制など広範な「経済的自治権」を有しながらも、中央政府(共産党)のマクロ経済政策に従っている。

こうしたEUと中国の類似性は、歴史的な文脈で説明することも可能だ。

世界システム論で知られるウォーラーステインに師事した歴史学者・山下範久は、『現代帝国論 人類史の中のグローバリゼーション』(NHKブックス)などで、近世(15世紀末~17世紀初頭)を「長い16世紀」と名づけ、この時期に旧世界(ユーラシア)に5つの帝国が君臨したとの説を展開している。東アジアの中華帝国(明・清朝)、南アジア(インド)のムガル帝国、西アジア(中近東)のオスマン帝国、ユーラシア北部のロシア帝国、そして「ヨーロッパ帝国」だ。

「帝国」というのは、異なる言語や宗教、民族の集団を包含する「普遍的」な権力だが、このなかで唯一、ヨーロッパ帝国だけが権力の統一に失敗した。ヨーロッパは宗教(カトリック)と王族同士の縁戚関係のネットワークで結ばれ、ありうべき帝国の理念を共有するものの、最後まで「できそこないの帝国(想像上の帝国)」だったのだ。

近世の平和は帝国的な停滞

山下は、こうした「帝国」の周縁に衛星的な小帝国が生まれるとも述べる。東アジアにおいては、中華帝国の周縁に日本帝国、朝鮮王朝(李氏朝鮮)、越王国(ベトナム)が誕生し、それぞれが独自の「中華思想」を唱えた。

日本では江戸時代に、万世一系をもって、王朝の血統が断絶する中国よりも優れているとの説が広く唱えられた。朝鮮王国では、中国に異民族の清王朝が成立したことから、李朝こそが儒教(中国文明)の正当な後継者だとされた(古田博司『東アジア・イデオロギーを超えて』〈新書館〉)。

日本は、中世の戦国時代を徳川幕府が統一することで近世的な小帝国となった。その類比を使えば、ヨーロッパは帝国になることができないまま、近世までずっと戦国時代をつづけていた。

文化的にも学問的にも、中国やインド、イスラム帝国に比べて、ヨーロッパがずっとユーラシアの後進地域だったことはよく知られている。これはヨーロッパ各国が戦乱に明け暮れて国力を消耗するばかりだったからだ。

しかしその一方で、いったん帝国の秩序が生まれると、社会は安定して進歩は止まる。戦国時代の日本は、織田信長に見られるように、銃火器で武装した世界でも最先端の強大な軍隊を擁していたが、江戸時代になると戦闘集団だった武士は銃を捨てて、刀と槍の世界へと歴史の針を逆に回してしまった。明王朝は15世紀にヨーロッパに先んじて大航海を行なったが、帝国外に領土を拡張する意思はなく、その成果はやがて忘れられていった。近世の平和とは、帝国的な停滞のことだった。

それに対してヨーロッパは、帝国になり損ねたために平和や停滞とは無縁で、隣国を制圧するためにひたすら“進歩”を求めた。これが、後進地域であるヨーロッパから近代が始まった理由だ。

そう考えると、ヨーロッパの「戦国時代」は第二次世界大戦でようやく終わり、現在は「ヨーロッパ帝国」の統一に向けて第一歩を踏み出したことになる。それに対して中国では、改革解放によって帝国内の各省に経済的な主権が分け与えられ、それぞれの省(国)が経済成長を争っている。

中国共産党は、易姓革命によって清朝に取って代わった毛沢東王朝のことであり、鄧小平を最後に建国世代の権威が失われたことで、これまでの歴史で繰り返されてきたように地方の反乱から帝国は解体に向かう、というひともいる。中国の政治は官僚支配で、科挙が北京大学や清華大学などの国家重点大学に変わっただけで、隋(より正確には北宋)以来の士大夫(科挙官僚)による富と権力の独占がつづいているとの指摘も多い。これは近代的なリベラルデモクラシーとは似て非なるもので、アメリカの「人権外交」から強い圧力に晒されている。

その一方で、近世的な帝国は近代のグローバリズムのなかで解体したものの、いままた同じグローリズムのちからで再<帝国>化しつつあるとの主張もある。

もちろん私は歴史学者ではないからどれが正しいかはわからないが、いずれにしてもここでは、「近世的な帝国を近代的な主権国家として扱えるのか」という重大な問題提起がなされている。はっきりしているのは、この巨大な人口を抱える隣国の政治や経済が、ほかの国々とは明らかに異なるシステムで運営されていることだ。

これから私たちは、中国という巨大な「近世帝国」の動向が世界に、とりわけ私たち日本人の運命に大きな影響を与えることを繰り返し体験することになるだろう。

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