ニューヨーク版「セレブという生き方」

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017年11月9日公開の「気鋭の社会学者が見たニューヨークの最底辺とセレブの意外な共通点と超えられない壁」です(一部改変)。

shutterstock/AS Inc

******************************************************************************************

スディール・ヴェンカテッシュはインドで生まれ、カリフォルニアで育ち、シカゴ大学で社会学を学んでいた。文化人類学や社会学にはエスノグラフィーという分野があり、文明と接触した経験のない伝統的社会(かつては「未開社会」と呼ばれた)や、先進国のなかのマイノリティー集団などと長期間行動をともにし、フィールドワークによって独特の文化や行動様式の解明を目指す。スディールのやりたかったのは、このエスノグラフィーの手法を使って、「アメリカで貧しい黒人として生きていくのはどういう経験か」を調べることだった。

スディールはシカゴ大学の近くに、学生たちが「ぜったいに足を踏み入れてはならない」と指導されている団地があることを知る。そこで、社会学の調査票をもってその団地を訪ねることにした。

――ということではじまるのが『ヤバイ社会学』(望月衛訳/ 東洋経済新報社)で、日本でも話題になったから知っているひとも多いだろうが、そのさわりだけ紹介しよう。

アフリカ系アメリカ人と“ニガー”は別の集団

スディールが調査に赴いたのはシカゴでもっとも貧しく、失業率も生活保護率も犯罪発生率も高く、通りを歩くひとの姿はなく、建物より空き地のほうが多い地区の団地だった。

そんなところをよそ者がうろうろしていれば当然だが、スディールはたちまちギャングスター気取りの若者たちに取り囲まれ、銃やナイフで脅される。彼らはいま、メキシカンギャングと抗争中だったのだ。

窮地に陥ったところに、彼らのボスが現われる。JTと呼ばれるその男は、年齢はスディールと同じくらいかすこし上で、「キラリと光る金歯が何本か、耳には大きなダイヤモンドのイヤリング、奥のほうから空っぽの目がぼくをじっと見つめているけれど、こちらにはなにも読み取らせてくれない」。

JTはクリップボードにはさまれた質問票に興味をもち、「なんだ、それは?」と訊く。スディールは、「全国的に有名な貧困問題の専門家が指揮している調査で、若い黒人の生活を理解して、よりよい公共政策を立案するのが目的なんです」と説明する。このあとのやりとりはこんなふうにつづく。

「貧しい黒人であることについてどう感じていますか?」スディールが質問を読み上げる。「とても悪い、いくらか悪い、よくも悪くもない、いくらかよい、とてもよい」
「オレは黒人(Black)じゃねえよ」JTはニヤニヤしながらまわりを見回す。
「なるほど、それでは、貧しいアフリカ系アメリカ人(African American)であることについてどう感じていますか」
「オレはアフリカ系アメリカ人でもねえな。おれはニガー(Nigger)だ」
呆然とするスディールに向かって、「“ニガー”ってのはこういうところに住んでるやつらのことだ」とJTはいう。「“アフリカ系アメリカ人”ってのは郊外に住んでるやつらだな。アフリカ系アメリカ人はネクタイを締めて仕事に行く。ニガーは仕事なんかもらえない」

「ニガー」というのは黒人に対するあからさまな蔑称で、アメリカ社会では公にはぜったいに口にしてはならないとされている。PC(political correctness/政治的正しさ)にもっとも適した呼称はAfrican Americanだが、60年代の公民権運動の高揚のなかで「ブラック・パワー」や「ブラック・イズ・ビューティフル」が叫ばれるようになり、「ホワイト」と「ブラック」は社会的に認められる表現となった。だが黒人社会のなかで、African AmericanとNiggerが異なる集団として認識されているなどということは、それまでまったく知られていなかった。

そのあとJTは「こいつ見張っとけ」といってどこかに行くと、数時間たってビールと食料品店の袋をもって戻ってきた。仲間とスディールにビールが回され、だらだらと飲み会がつづいて朝になった頃、「来たところへ帰んな」とJTはいった。「街なかを歩くときはもっと用心しろ」

スディールがカバンとクリップボードを拾っていると、「ウロウロしてくだらない質問するのなんかやめな」と、JTは“正しい”社会学の調査方法を享受した(彼は大学で社会学を学んだことがあった)。「オレらみたいなやつらとつるんで、そいつらがなにをするとか、そういうのを知らないとダメだ。ああいう質問をしても誰も答えねえよ。街で暮らしてる若いやつらのことがちゃんとわからないとな」

こうしてスディールはシカゴの黒人ギャングと行動をともにすることになり、最後には1日だけだがリーダーを任されることになる。そのフィールドワーク体験を書いたのが“Gang Leader for a Day(1日だけのギャングリーダー)”で、それが人気経済学者スティーヴン・レヴィットの世界的ベストセラー『ヤバい経済学』(Freakonomics)に紹介されたことで広く知られるようになる。

『ヤバイ社会学』には、派手な暮らしをしているように見えてもギャングが実家に“パラサイト”しているのは稼ぎが少ないからだとか、売春婦たちはきわめて戦略的に価格や相手を決めているなど、興味深い知見がたくさん出てくる(未読の方はぜひ)。

こうして名前を売ったスディールは、コロンビア大学に職を得てニューヨークに移ることになる。そこでの新たなフィールドワークの成果をまとめたのが『社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた』(望月衛訳、東洋経済新報社)だ。原題は“Floating City”で、「たゆたう街」の意味になる。

ニューヨークの“アッパーグラウンド”に潜入する

スディールはニューヨークに拠点を移すとき、ハーレムに住むシャインというドラッグディーラーを紹介してもらう。

スディールが最初に気づいたのは、ニューヨークのアンダーグラウンドではシカゴのようにギャングが縄張りをめぐって抗争しているわけではないことだ。シャインはハーレムの黒人を相手に商売するのではなく、白人のビジネスマンにコカインの販路を拡大しようとしていた。

スディールが連れて行かれたのはヘルズキッチン(ミッドタウン)にあるアダルトビデオ店で、マンジュンという南インドからの移民がオーナーだった。ポルノショップやあやしげな飲み屋が集まるその一帯は赤線地帯で、スディールは店の手伝いをしながらヒスパニックの売春婦たちから聞き取り調査を行なう。

これがフィールドワークの核になるのだが、この本の面白さはじつはニューヨークのアンダーグラウンド事情ではない。スディールはちょっとした偶然から、“アッパーグラウンド”すなわち白人エリートのハイソサエティに潜入する機会を得たのだ。

ハーヴァード大学で行なわれるソサエティ・オブ・フェローズ(著名な作家や科学者たちの友愛会)のディナーでワイン選びを担当することになったスディールは、魚料理のときに赤ワインを出すなど、ワインについてなんの知識もなかった。そこで付け焼刃の勉強をしたのだが、「1982年物のシャトー・リー……」と、フランス語の単語をどう発音していいかわからず立ち往生してしまう。

そのとき、「リーオーネィだよ」と囁く若い女性がいた。それがアナリーズで、スディールを脇に引っぱっていくと、白ワインと赤ワインではグラスがちがうことを教え、「そんなに難しいもんじゃないよ。基本的なことをいくつか知っていればいいだけ」といって、急場しのぎのワインの基礎まで伝授してくれた。アナリーズは絵に描いたようなセレブ(良家の子女)だが、10代の大学生の頃、社会勉強だとして親にインドに送り込まれたことがあった。それで、インド人のスディールに興味をもったのだ。

アナリーズの交友関係は全員が上流階級の子女で、一族の資産を受け継ぐことになる者ばかりだった。その資産は信託(トラスト)に預けられており、彼らを「トラストファリアン」と呼ぶのだという。ジャマイカのレゲエミュージシャンたちはエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝をキリストの再来と崇める新興宗教ラスタを信仰し、自らを「ラスタファリアン」と名乗ったが、それと「トラスト」をかけたのだ。

アナリーズに連れられて上流階級のパーティーに顔を出すようになったスディールだが、そんな頃、奇妙な相談を受けることになる。アナリーズが、同居していた男に3万ドルを盗まれたのだという。

その恋人もトラストファリアンで、莫大な財産を相続することになっていた。アナリーズとは大学時代からのつき合いで、「お札をパンに挟んで分厚いサンドウィッチにしてバーテンダーに投げつけるわ、20ドル札の束をタクシーの窓から差し込むわ」という所業を繰り返していた。

そんな彼は自主映画のプロデュースに夢中で、若いスタッフとともにサンダンス映画祭を目指していた。だが信託基金から受け取る金額は決められており、それだけでは制作資金に足りない。そこで、アナリーズが自宅に置いていた現金を勝手に持ち出したのだという。

アナリーズが困っていたのは、それが友人たちから預かっていたお金だからだ。しかしなぜそんな大金を、しかも現金で自宅に置いておかなければならないのか。

スディールは嫌な予感がした。そしてその勘は当たった。

アナリーズは、金持ちの男とデートする女の子たちの面倒をみていた。彼女は、上流階級の子女を専門に扱う高級エスコートクラブのマネージャーだったのだ。

“お嬢さま”たちの素の会話

アナリーズが“ビジネス”をはじめたのはちょっとしたきっかけからだった。「社交界の花になって結婚してファッションと慈善活動の人生を送るなんてイヤだ」とニューヨークで一人暮らしを始めたのだが、そんな彼女のまわりには同じように享楽的な生活を送りたい上流階級の娘たちが集まってきた。彼女たちにとってもっとも手っ取り早くお金を稼ぐ方法がリッチな白人男性と“交際”することで、そんな友人が増えたことで、ごく自然にアナリーズがスケジュールを仕切るようになったのだ。

スディールの本でものすごく面白いのは、そんな“お嬢さま”たちの素の会話が活写されていることだ。彼はフィールドワークの専門家なのだから、彼女たちの言葉づかいをそのまま再現しているのだろう。

たとえば、一族の歴史を説明しようとすると独立戦争までさかのぼらなければならないというジョジョ。彼女自身も名門イェール大学を出ているが、「卒業してニューヨークに来て、9時5時の仕事をやってみた。ごめん、むり。神様(ジーザス)、生き地獄ってあのことだね。それでパパはあたしを勘当したの。おまえのためだ、だってさ」ということで、いまはアナリーズのところで月に1万ドル稼いでいる。

そんな超セレブの女性が自分の仕事をスディールに説明するところは、原文と望月衛氏の訳を合わせて紹介しよう。

「Are we fucked up? Probably. I take Vicodin, snort coke, get drunk off my ass. But who doesn’t? あたしらファックされまくり? まあそうだろうね。咳止めやってコークやって、ケツから吹き出すほど酒食らって。でもみんなそうでしょ?」

次は、アナリーズが女友だちのブリタニーと喧嘩する場面。ブリタニーは「めったに見ないぐらいきれいな若い女の子」で、アナリーズとは大学時代からのつき合いで、彼女の“ビジネス”の稼ぎ頭だった。

「あんたはあたしがやってること(売春)やんないでしょ」と、まずはブリタニーがアナリーズを批判する。それに続いて出た言葉は、やはり英日併記で紹介しよう。

「That’s the fucking problem, Analise. So unless you know how to make it out there, I’d try to be less fucking bossy. You’ve been a real fucking pain in the ass lately and I’m tired of it.それがファックみたいに問題なんだな。アナリーズ、あたしだったら出かけてってひと仕事やり遂げるってどんなもんか知らないなら、ファックみたいに威張りちらすのちょっとは控えようってするけどねぇ。あんた最近マジでファックみたいにイタいんだよ。あたしゃほとほと疲れたね」

これに対してアナリーズが、「You’re pissing people off.あんたあっちこっちで人の神経逆撫でしてるんだよ」と反撃する。「Showing up late, not showing up, showing up wasted out of your fucking mind. You can’t piss everyone off, Brittany, and just think it’s okay and nothing will happen. 遅れるわ出てこないわファックみたいにラリって出てくるわ。誰も彼もブチギレさせてどうしようっちゅーのブリタニー。そんなんで大丈夫なんて思ってるならもうどうにもならないよ」

繰り返すがこれは不良娘ではなく、「階級社会アメリカ」の頂点にいる超セレブのお嬢さまたちの会話なのだ。

「文化資本」の壁

いまやアメリカでは、セレブも不良と同じ話し方をするようになった。しかしスディールは、そこには明確な壁があるという。アナリーズやブリタニーがごく自然にもっていて、ヘルズキッチンの赤線街で春を売る女たちにないものは「文化資本」だ。

これはフランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱した概念で、金銭以外の、学歴や文化的素養といった「資本」のことをいう――というような難しい話をする必要はない。アナリーズのところではたらくイェール出身のジョジョがきわめて簡潔に説明してくれるからだ。

あるときジョジョは、レストランで男にふられて泣いている女の子を見かける。彼女がデートクラブから来たことがわかったジョジョは、「気持ちわかるよ」と慰める(このことからわかるように、ジョジョは気のいい女性だ)。するとデート嬢は、ジョジョに将来の相談をはじめた。以下はジョジョによるそのときの描写だ。

「1時間くらいそうしてて、彼女言うわけ。今のクラブもうやめたい、助けてくれる? って。ありえないから。なんで? その子、なんていうか、ガテン系の家の子でしょ。ジュリア・ロバーツがファックしたみたいな? バレエとか芸術とか、そういうのクソわからないでしょって。っていうか、誰かのチンポ舐めてリャいいなんてぜんぜん違うって。だいたいそんなことぜんぜんしなかったりすることもあるし。あんたと人前に出て恥ずかしくない、そういうんじゃないとだめなのよ」

その場に同席していた、やはり上流階級出身のエスコート嬢が説明をつづける。

「プエルトリコの子たちとか、シロいゴミ(ホワイト・トラッシュ)の連中とか。ほら、家じゃ2段ベッドで寝てました、みたいなヤリマン便女、いるでしょ。あたしらのお客はね、ホテルでウロウロしてお客を探すような女相手にして自分の格下げたりしないわけ」

ニューヨークには若くてきれいな女の子はいくらでもいる。超リッチな男たちが求めるのは、容姿は当然として、上流階級の集まる場所でごく自然に「名家の(ちょっとやんちゃな)令嬢」を演じられる女性なのだ。そしてこれを演技で学ぶのは無理で、それができるのはホンモノの名家の令嬢だけなのだ。

ちなみに日本でこれに近い“フィールドワーク”となると、慶応SFCから東京大学大学院で社会学を学び、大手新聞社に就職したあと、退職してデリヘル嬢になった体験を書いた鈴木涼美氏の『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論 』(幻冬舎文庫)だが、それによると日本にはここまではっきりとした「階級(クラス)」のちがいはないようだ。これは急速に世俗化した戦後日本で、そもそも上流階級(ハイソサエティ)の文化がなくなったからだろう。

なにもかも恵まれたニューヨークのセレブ女性たちの人生はどのようなものなのだろうか。

画廊をはじめるという夢が破れ、エスコートクラブの経営もうまくいかなくなったアナリーズは、スディールに悩みを打ち明けて「インドに行きたい」という。

「あたしらの部族には目的がない。目標はあるよ、でも目的はない。できることはっていうと、ただ続ける、それだけ」

それを聞いたスディールは、アナリーズの世界を「フワフワ思い描くグローバル・ロンパー・ルーム」と形容する。社会の底辺で呻吟するたくさんの女性たちを見てきたからだ。そこで思わずいってしまう。

「君の部族の問題はっていうと、君たちはみんな、この世は自分らのものだって思ってるよね。ルールは君たちが作る。変えたくなったらいつでも変えられる。ちょっと売春に手を出したり、インドに出かけていって茶色の小さい子たちに勉強を教えたり――で、それでなにがどうなろうと君らはどうにもならないよね」

でもアナリーズには、なにを批判されているのかうまく理解できない。

「ぼくが出会う人はほとんどみんな、これでどうなるかってものすごく考えてるよ。建物に勝手に棲みついてる人、ヤクの売人、ギャングのメンバー――あの人たちはみんな、将来どうなるか、必死に考えてる」

「でもあたしの友だちだってみんなそう」と、アナリーズはこたえる。「自分がどうしたらどうなるって、気になるのが人ってもんでしょ。根っこの部分で。だからインドに行くの。あたし、生まれ変わるんだ。あたしの家族はここにいる。でもあたしはしばらく家族の元を離れる。あたし、誰か違う人になるんだ。ずっとそうしたいと思ってた」

「たゆたう」という生き方

ニューヨークのアッパーグラウンドとアンダーグラウンドをフィールドワークしたスディールは、その成果を次のようにまとめている。

(a) どう考えてもニューヨークはシカゴじゃない。人の生活は固い絆で結ばれた界隈1つの中で展開する、なんて昔ながらの社会学の考えには、もうさよならすべきだ。
(b) 新しい世界では、文化がすべてを支配する。どんな振る舞いをするか、どんな服を着るか、どんな考え方をするかが、成功のカギの一部になる。
(c) 境界を乗り越えていく力が不可欠である。ニューヨークでは、複数の世界がいやおうなしに覆いかぶさってくる。ポルノショップの店員だろうが、ヤクの売人だろうが、社会の境界を軽やかに越えていけるようにならないといけない。
(d) 貧しい人たちも、あなたやぼくと違わない。違うときもあるってだけだ。

スディールによれば、グローバル都市で成功のカギは、その場その場でできた社会的な結びつきを使ったり捨てたりする能力にある。役に立つときには利用し、役に立たなくなったら四の五の言わずにさっさと切り捨てるのだ。

「成功するためには決まった界隈や階級や自分のあり方に安住する居心地の良さは捨てないといけない。そういうのを利用しようというときでも、距離を置かないといけない。自分の罪を許し、失敗したらあきらめ、新しい自分を創り、明日を向いて生きるのだ」

これが“Floating”すなわち「たゆたう」という生き方だ。境界をかろやかに超え、常に生き延びるのにもっとも有利な場所に移動しつづけること。これができなくなると、いずれは社会の最底辺に堕ちて消えていくことになる。

「グローバルな都市は、キャンヴァスよろしく場を提供する。でもそこから先はそれぞれが自分の手で創っていく」のだ。そしてスディールが見つけたこの原則は、おそらくグローバル都市・東京にもあてはまるだろう。

禁・無断転載