キャンセルカルチャーの光と影 週刊プレイボーイ連載(572)

社会がぎすぎすして、自由に発言できなくなったと感じているひとは多いでしょう。これは日本だけでなく世界的な現象で、「ポリコレ(政治的正しさ)」に反する言動をした個人や企業・団体を一斉に批判し、社会的な地位を抹殺(キャンセル)する運動は「キャンセルカルチャー」と呼ばれています。

なぜこのようなことが目立つようになったのかは、大きく2つの理由が考えられます。

ひとつは、SNSによって「道徳エンタテインメント」が安価に提供されるようになったこと。近年の脳科学は、不道徳な者を罰すると脳の報酬系が活性化することを発見しました。これは長大な進化の過程で埋め込まれたプログラムで、法律も警察もない人類史の大半において、わたしたちの祖先はお互いに隣人を監視し、誰もが「道徳警察」になることによって共同体の秩序を守ってきたのです。

不道徳な相手に対して「正義」を振りかざすとき、ひとは怒りとともに大きな快感を得ることができます。芸能人の不倫、皇族の結婚から回転寿司店で醤油差しをなめる行為まで、毎日のようにネットやSNSが炎上しているのは、それが誰でも参加できる娯楽だからです。

もうひとつは、社会がリベラル化するにしたがってアイデンティティが多様化したこと。徹底的に社会化された動物であるヒトには、自我(わたし)を他者や集団と融合させるという驚くべき能力があります。これが「アイデンティティ融合」で、その対象がアイドルなら「推し活」と呼ばれ、国や宗教だとナショナリスト、原理主義者になります。

リベラルな社会の大原則は、本人の属性にかかわらずすべての市民が平等な人権をもつことですから、差別や偏見にさらされているマイノリティが、自分が属する集団にアイデンティティ融合し、権利のために闘うことには正当な理由があります。女性の参政権や黒人の公民権など、こうした運動によって社会は進歩してきたのですが、その一方で、個人が前面に出るにつれて共同体が解体し、アイデンティティは細分化されていきます(性的少数者の呼称が「LGBTQIA+」のようにどんどん長くなるのはその典型です)。

問題は、さまざまなアイデンティティが社会のなかで協調できる保証がないことです。欧米では黒人(有色人種)や移民に対して、白人労働者階級がトランプや「極右」政党を支持し、自分たちこそがリベラルの偽善に抑圧されているのだと主張しています。女性の権利拡大を目指す活動家(フェミニスト)と、自分たちこそが社会(性愛の自由市場)から排除されていると訴える男権活動家(MRA: Men’s Raights Activist)が衝突するのも同じ構図です。

アイデンティティの対立はどちらが正しいと客観的に決めることはできず、たちまち泥沼に陥ってしまいます。それに加えて、「ダイバーシティ(多様性)教育」の名の下にそれをビジネスにする者まで現われて、収拾がつかなくなっています。

新著『世界はなぜ地獄になるのか』では、こうした「社会正義」の光と影を描いています。このやっかいな状況を変えることはできなくても、「地雷」を踏まないようにするためには役に立つはずです。

『週刊プレイボーイ』2023年8月7日発売号 禁・無断転載