リベラル化が生み出した問題を、リベラルが解決することはできない(『世界はなぜ地獄になるのか』まえがき)

明後日(8月1日)発売の小学館新書『世界はなぜ地獄になるのか』のまえがき「リベラル化が生み出した問題を、リベラルが解決することはできない」を出版社の許可を得て掲載します。一部の書店ではすでに店頭に並んでいるようです。見かけたら手に取ってみてください(電子書籍も同日発売です)。

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時代とともに社会の価値観は変わっていく。だがわたしたちは、それに適応して自分の価値観を自在に変えられるわけではない。

綺羅星のごとく男性アイドルを輩出してきたジャニーズ事務所の創設者、ジャニー喜多川に少年愛の性癖があることは、1960年代から業界関係者のあいだでは公然の秘密で、80年代末には元アイドルの告発本がベストセラーになって広く知られることになった。90年代末には『週刊文春』が連続キャンペーンを行ない、それに対してジャニーズ事務所が提訴、一審では文春側が敗訴したものの、東京高裁は「セクハラに関する記事の重要な部分について真実であることの証明があった」と認定し、2004年に最高裁で判決が確定した。

ところが、日本のほとんどのメディアはこの裁判を報じなかった。ジャニーズ事務所の圧力を恐れたからだとされ、たしかにそうした事情もあるだろうが、その背景には「しょせん芸能人の話」という認識があったはずだ。

事態が動き出したのは23年3月、イギリスのBBCが「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」というドキュメンタリーを放映してからだ。4月には事務所に所属していた元タレントが日本外国特派員協会で記者会見し、2012年からの4年間にジャニー喜多川から15回ほどの性的被害を受けたと証言、この「外圧」で追い込まれたジャニーズ事務所は現社長が動画での謝罪を余儀なくされた。

この一連の経緯は、ハリウッドを揺るがせた「#MeToo」とよく似ている。大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラを女優らが実名で告発、性被害を受けた女性たちがSNSで次々と声を上げる世界的な運動へと発展した。

映画界では、新人女優がプロデューサーなど実力者と性的な関係をもつことはよくある話だとされていた。この慣習が黙認されたのは、ハリウッドが特殊な世界だとされてきたからだろう。自ら望んでそこに足を踏み入れた以上、一般社会の常識を期待することはできず、異世界のルールに従わざるを得ない、というわけだ。

権力とセックスのたんなる交換(いわゆる枕営業)であれば、この理屈も成り立つかもしれない。しかしワインスタインは、配役と引き換えに女優に性交渉を強要するだけでなく、女性スタッフにまで性加害を行なっていたことが暴露され、はげしい批判を浴びて映画人としての社会的存在をキャンセル(抹消)された。──その後、強姦など11件の罪で逮捕・起訴され、禁錮16年の刑を言い渡された。

ジャニー喜多川がある種の天才だったことは間違いないが、困惑するのは、その才能が少年愛から生まれたものらしいことだ。70年代や80年代の出来事であれば「そういう時代だった」で済んだかもしれないが、今回の証言で明らかになったのは、最高裁で判決が確定してからも少年に対する性加害が続いていたことだ。

相手が成人なら合意のうえだと説明できても、未成年の場合はどのような弁明も不可能だ。そして現在では、相手の明確な同意を得ない性行為は許されなくなり、とりわけ拒絶のできない小児や少年・少女への性加害は、道徳的には殺人に匹敵する重罪と見なされる。しかし日本の芸能界で大きな権力を手にした80歳過ぎの老人には、こうした価値観の変化に気づくことは難しかったのだろう。

社会がリベラル化すれば異世界は一般社会に回収され、「あのひとは特別」「あそこはふつうとちがうから」という言い訳は通用しなくなってくる。その意味では、ジャニー喜多川は長く生き過ぎたし、その結果、残された者たちは名声と既得権の呪縛にとらわれて身動きがとれなくなってしまったのだろう。

私は“リベラル”を「自分らしく生きたい」という価値観と定義している。そんなのは当たり前だと思うかもしれないが、人類史の大半において「自由に生きる」ことなど想像すらできず、生まれたときに身分や職業、結婚相手までが決まっているのがふつうだった。「自分らしさ」を追求できるようになったのは近代の成立以降、それも第二次世界大戦が終わり、「とてつもなくゆたかで平和な時代」が到来した1960年代末からのことだ。

アメリカ西海岸のヒッピームーブメントとともに登場したこの(人類史的には)奇妙奇天烈な思想は、「セックス・ドラッグ・ロックンロール」とともにまたたくまに世界中の若者たちを虜(とりこ)にした。その影響は現代まで続いているだけでなく、ますます強まっており、もはや誰も(右翼・保守派ですら)「自分らしく生きる」ことを否定できないだろう。

「自分らしく生きたい」という価値観が社会をリベラル化させる理由は、自由の相互性から説明できる。

わたしが自分らしく生きるのなら、あなたにも同じ権利が保障されなくてはならない。そうでなければ、わたしとあなたは人間として対等でなくなってしまう。それで構わないと主張するのは、奴隷制や身分制を擁護する者だけだろう。

このようにして、人種や民族、性別や性的指向など、本人には選べない「しるし」に基づいて他者(マイノリティ)を差別することはものすごく嫌われるようになった。わたしと同じ自由をあなたがもっていないのなら、あなたにはそれを要求する正当な権利があるし、先行して自由を手にした者(マジョリティ)は、マイノリティが自由を獲得する運動を支援する道徳的な責務を負っている。

「社会正義(ソーシャルジャスティス)」をあえてひと言で表わすなら、「誰もが自分らしく生きられる社会をつくろう」という運動のことだ。そしてこれは、疑問の余地なくよいことである。誰だって、自分らしく生きることを許されない社会(たとえば北朝鮮)で暮らしたいとは思わないだろう。

ここまではきわめてわかりやすいし、自分を「差別主義者」だと公言するごく少数を除けば、異論はほとんどないはずだ。世界も日本も、このリベラル化の巨大な潮流のなかにある。誰もが「自分らしく生きたい」と願う社会では、「自分らしく生きられない」ひとたちの存在はものすごく居心地が悪いのだ。

光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。社会がますますリベラルになるのはよいことだが、これによってすべての問題が解決するわけではない。差別的な制度を廃止し、人権を保障し、多くの不幸や理不尽な出来事をなくすことができるかもしれないが、それによって新たな問題を生み出してもいる。このことをリベラルを自称する知識人の多くは無視している(あるいはそもそも気づいてすらいない)が、それはおおよそ以下の4つにまとめられるだろう。

(1)リベラル化によって格差が拡大する

行動遺伝学の多くの研究によって、社会がリベラルになるにしたがって遺伝の影響が強まり、男女の性差が大きくなることが一貫して示されている。

これは考えてみれば当たり前で、「自分らしく生きられる」社会では、もって生まれた才能を誰もが開花させられるようになるが、知識社会に適応する能力にはかなりの個人差がある。その結果、社会がゆたかで公平になればなるほど、環境(子育てなど)の影響が減って遺伝による影響が大きくなるのだ。

リベラル化で男女の性差が拡大するのは、男と女で好きなこと・得意なことに生得的なちがいが(一定程度)あるからだ。男女の知能の平均は同じだが、男は論理・数学的知能が高く、女は言語的知能が高い。その結果、経済的に発展した国の方が共通テストの平均点が高くなると同時に、男は数学の成績が、女は国語の成績がよいという傾向が見られ、男女の性差は拡大している。

性差だけでなく個人のレベルでも、知能や性格、才能など、わたしたちはかなりの遺伝的多様性をもって生まれてきて、そのちがいは自由でゆたかな環境によって増幅される。誰もが自分の才能を活かすことができるリベラルな社会でこそ、経済格差は拡大するのだ。逆に、独裁者が国民の職業を決めるような専制国家では、(一部の特権層以外の)経済格差は縮小するだろう。

(2)リベラル化によって社会がより複雑になる

前近代的な社会では、個人はイエやムラ、同業組合などの共同体に所属していたから、社会を統制するには何人かの有力者に話をつければよかった。だが「自分らしく生きられる」社会では、個人はこうした中間共同体のくびきから解放され、一人ひとりが固有の利害をもつようになる。その結果、従来の仕組みで利害調整することが困難になり、政治は機能不全を起こすだろう。

(3)リベラル化によってわたしたちは孤独になる

自由は無条件でよいものではないし、共同体の拘束は無条件に悪ではない。あることを自由意志で選択すれば、当然、その結果に責任を負うことになる。逆にいえば、自分で選択したわけではないことに責任をもつ必要はない。共同体は自己責任の重圧からわたしたちを庇護してくれるが、「自分らしく生きられる」社会では、この「ぬくもり」は失われてしまうだろう。

わたしが自由なら、あなたも同じように自由だ。その結果、ひとびとの出会いは刹那的になって、長期の関係をつくることが難しくなる。このことは、日本だけでなく先進国で婚姻率や出生率が低下していることに現われている。

(4)リベラル化によって、「自分らしさ(アイデンティティ)」が衝突する

「自分らしく生きる」ためには、「自分らしさ」を見つけなくてはならない。これが“アイデンティティ”で、「わたしとは何者か」の定義のことだ。このとき、マジョリティは個人的なこと(仕事や趣味など)を「自分らしさ」にできるが、マイノリティは所属する集団(人種、宗教、性別、性的指向など)をアイデンティティとして強く意識する。

自分たちのアイデンティティを社会に受け入れさせようとする運動が「アイデンティティ政治」だが、これによってマジョリティとマイノリティの間だけでなく、マイノリティ集団同士でも軋轢や衝突が起きる。

リベラルを自称するひとたちは多くの基本的なことを間違えているが、そのなかでももっとも大きな勘ちがいは、「リベラルな政策によって格差や生きづらさを解消できる」だろう。なぜなら、そのリベラル化によって格差が拡大し、社会が複雑化して生きづらくなっているのだから。

リベラル化が格差を拡大しているにもかかわらず、「リベラルな政策で格差を解消できるはずだ」という強固な信念を抱いていると、現実と信念の不一致(認知的不協和)を解消する方法は陰謀論しかなくなる。一部の過激なリベラル(「レフト=左翼」や「プログレッシブ=進歩派」と呼ばれる)の主張が、「世界はディープステイト(闇の政府)によって支配されている」というQアノンの陰謀論と不気味なほど似ているのは、どちらも世界に対する認識が根本的に間違っているからだ。

わたしたちは「知識社会化」「グローバル化」「リベラル化」という人類史的な変化のただなかにいるが、誰もがこの未曾有の事態に適応できるわけではない。その結果、欧米先進諸国を中心にはげしいバックラッシュが起きている。これが「反知性主義」「排外主義」「右傾化」で、一般にポピュリズムと呼ばれるが、これはリベラリズムと敵対しているのではなく、リベラル化の必然的な帰結であり、その一部なのだ。──したがって、リベラルな勢力がポピュリズム(右傾化)といくら戦っても、打ち倒すことはできない。

社会がリベラル化すればするほど、そこからドロップアウトする者が増えていくのは避けられない。その典型的な存在が、恋愛の自由市場から脱落してしまった若い男で、日本では「モテ/非モテ」問題と呼ばれ、英語圏では自虐的に「インセル(不本意な禁欲主義者)」を自称している。そしてその(ごく)一部が社会に強い恨みをもち、無差別殺人のような惨劇(非モテのテロリズム)を起こす。日本でも近年、こうした重大事件が目立つようになったのは、母数である「社会からも性愛からも排除された者」が増えているからだろう。

私はこれらのことを『上級国民/下級国民』『無理ゲー社会』(ともに小学館新書)で述べてきたが、その続編となる本書では、「誰もが自分らしく生きられる社会」を目指す社会正義の運動が、キャンセルカルチャーという異形のものへと変貌していく現象を考察している。なぜならこれも、リベラル化の必然的な帰結だからだ。

世界はなぜ地獄になるのか──まずは、日本にキャンセルカルチャーの到来を告げた象徴的な事例から始めたい。