「インターセクショナリティ(交差性)」はアイデンティティの迷宮

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2022年3月18日公開の「現代の社会科学で「最重要概念」である「インターセクショナリティ」は、「人種」「階級」「ジェンダー」「セクシュアリティ」「年齢」などアイデンティティズの”交差点”」です(一部改変)。

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社会がリベラル化するにつれて、ひとびとは差別や偏見にますます敏感になっている。とはいえこれは、わたしたちの社会が奴隷制、身分制、家父長制に戻りつつあるということではない。実際に起きているのは、それとは逆に、こうした「大文字の差別」が是正されてきたことで、これまで問題とされてこなかった「小文字の差別」が可視化されてきたということなのだろう。

もちろん、これが些細な問題だというつもりはない。こうした日常的な「アグレッション(攻撃)」が、あからさまな差別よりも大きなダメージを与える可能性があるとの強力な主張がある。

参考:「あなたを人種や性別ではなく、個人として評価します」はマイクロアグレッションという差別

前回紹介した「マイクロアグレッション」と並んで、現代の社会科学で「最重要概念」とされているのが「インターセクショナリティ」だ。intersectionは「交差点」のことで、そこから派生したintersectionalityには「交差性」という見慣れない訳語が当てられている。

だが用語の新奇さにもかかわらず、インターセクショナリティがなにかはきわめてわかりやすい。だがそのわかりやすさゆえに、ある種の「迷宮」に迷い込んでいくことを、あくまでも私の理解の範囲内でだが、パトリシア・ヒル・コリンズ/スルマ・ビルゲの『インターセクショナリティ』(小原理乃訳、人文書院)から考えてみたい。

著者のコリンズはメリーランド大学カレッジパーク校名誉教授、ビルゲはモントリオール大学教授で、いずれも人種、ジェンダー、階級などの研究で知られている。本書はその2人が、社会科学を学ぶ大学生などに向けて執筆した教科書の第2版で、トランプ政権下の2020年に出版された。

特権的なマイノリティへの異議申し立て

現代社会では、意識しているかどうかにかかわらず、わたしたちは複数のアイデンティティをもっている。(私も含め)この文章を読んでいるひとの多くは、「日系日本人」「異性愛者」「男/女(シスジェンダー)」だろうが、日本社会には「在日韓国・朝鮮人」「同性愛者」「トランスジェンダー」などの異なるアイデンティティをもつマイノリティもいる。

インターセクショナリティ(交差性)とは、こうしたさまざまなアイデンティティズ(identitiesと複数形で表記される)が重ね合う「交差点」だ。

私は「リベラル化」を「自分らしく生きたい」という価値観だと考えている。その必然的な帰結がインターセクショナリティであることを示すために、今から半世紀前にアメリカ西海岸で行なわれたカンビーというイベントに参加したあるブラックレズビアンの回想を引用しよう。

(カンビーでは)本当の自分自身のままでいることができ、その自分の全てが受け入れられたのは、本当に素晴らしいことであった。1970年代初めにおいて、ブラックで、レズビアンで、フェミニストであることは、ものすごく勇気のある人間であることを意味していた。それはほとんど恐怖に近い感覚だった。

1970年代のアメリカでは、「黒人」「レズビアン」「フェミニスト」という複数のマイノリティのアイデンティティを抱えることは、「自分らしさ」を全否定されるような経験だった。だからこそ自分のアイデンティティがすべて認められ、「本当の自分自身のままでいること」ができる「交差点」が求められたのだ。

著者たちによれば、アメリカにおいてインターセクショナリティが意識されたのは1960年代で、当時の社会運動のなかで、「黒人運動における黒人男性」「フェミニズムにおける白人女性」「労働者の権利を提唱する社会主義者」などの特権的なマイノリティへの異議申し立てがなされるようになった。

とりわけ、人種差別闘争で黒人男性の、フェミニズム運動で白人女性の従属物のように扱われた黒人女性が、特定のアイデンティティの優越的な地位に抗議し、1974年に「ブラック・フェミニスト声明(コンバヒー・リバー・コレクティブ声明)」を発表した。

黒人女性の法学者キンバリー・クレンショーは、1989年の論文で、ブラックフェミニズム(Black feminism)の立場から、主流派である白人のフェミニズム(White feminism)を批判し、「インターセクショナリティ」という「造語」をはじめて使った。それが、他のさまざまなアイデンティティに拡張されて現在に至っているとされる。

78億のアイデンティティへ

インターセクショナリティを構成するアイデンティティズとして、著者たちは「人種」「階級」「ジェンダー」「セクシュアリティ」「ネイション(国籍)」「アビリティ(障害)」「エスニシティ(民族)」「年齢」を挙げているが、それ以外にも「宗教」「身分(カースト)」「血統」などが重要なアイデンティティとなっている社会があるだろう。

アイデンティティのなかには生物学的な基礎があるものもあるが(ジェンダー、セクシュアリティ、異論はあるだろうが人種=ヒト集団も)、そのほとんどは社会的に構築されたものだ。その結果、社会がリベラル化・複雑化するにつれて、アイデンティティの数は際限なく増えていく。そのことがよくわかるのが性的マイノリティの呼称だ。

かつてセクシュアリティは、「異性愛者/(男性)同性愛者」の二分法で語られたが、現在は「LGBT」と表記されるようになった。「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー」のことだが、それが本書では「LGBTQIA2+」となっている。新たに加わったのはクィア(規範的な性のあり方から外れている)/クエスチョニング(自身の性自認・性的指向が決まっていない)、インターセックス(身体的性が一般的に定められた男性・女性の中間もしくはどちらとも一致しない)、アセクシュアル(他者に対して性的欲求や恋愛感情を抱かない)、トゥー・スピリット(複数のジェンダーロールを生きるひとびとを指す北米先住民の言葉)で、最後の「+」はそれ以外のさまざまなジェンダー・セクシュアリティだ。

本書では「ピープル・オブ・カラーPeople of Color」という用語が頻出する。日本語では「有色人種」のことだが、インターセクショナリティ(および批判的人種理論Critical Race Theory: CRT)では人種は実体のない社会的構築物だとされており、そのため意図的に「Race」の使用を避けている。そうなると「有色のひとびと」と訳すほかないが、これは日本語として奇異なので、そのままカタカナ表記するようになったのだろう。――「ウィメン・オブ・カラーWomen of Color」も同じで、「有色の女性」の総称だ。

こうした言葉は白人や黒人のWoke(意識高い系)が好んで使うが、多様な人間集団を「色なし(白人)」と「色付き(有色人種)」に二分するのはあまりにも乱暴だ。この世界観では、日本人は「アジア系」で、黒人、ヒスパニック、インディアン(ネイティヴアメリカン)などといっしょくたにされて「ピープル・オブ・カラー(POC)」と呼ばれることになるが、これでは「自分らしさ」が表現できないと感じるひとは当然いるだろう。

日本人とインド人を同じエスニックグループと見なすひとはどちらの側にもいないだろが、アメリカで広く使われている「アジア系」という人種カテゴリーは、東アジア、南アジア、東南アジア、中央アジア、西アジアなどのユーラシアの多様な地域を同じものと扱っているし、そのうえ西アジアや北西アジアは「イスラーム」というくくりと混然一体となっている。「黒人(Black)」ですら、アフリカン・アメリカン(奴隷の子孫)、アフロ・ラテン(中南米からの移民)、アフロ・カリビアン(カリブ諸島からの移民)などへと細分化しはじめている。

「グローバルノース」「グローバルサウス」という用語も頻出するが、ここでは先進国を「ノース」とし、「後進国」「発展途上国」「新興国」などと呼ばれたアフリカ、中近東、南アジア、中南米カリブなどを「サウス」というなんとも大雑把なくくりに放り込んでいる。「アフリカ」というサブカテゴリーにしても、当のアフリカの活動家が、「アフリカには54の国と数えきれないほどの部族、伝統、文化(カルチャー)、そして言語があるが、多くの場合、アフリカは一つのカテゴリーにまとめられ、その多様性が軽視される」と批判している。

このように、インターセクショナリティを徹底すると、一人ひとりが「自分らしさ」を感じられる国家、民族、部族、文化共同体へとアイデンティティは「解体」していくほかはない。本書ではこのことは、「インターセクショナリティの複雑性」と呼ばれている。その必然的な帰結は、誰もが唯一無二の「自分らしさ」を主張できる78億のアイデンティティだろう。

あまりに複雑なものは理解できない

インターセクショナリティは「左派のラディカルな社会闘争の理論」と思われがちだが、本書を読むと、それが社会のリベラル化・複雑化に対応した分析の枠組みであることがわかる。

アメリカのアカデミズムは、政治的な問題を扱う際、「人種」と「ジェンダー」を異なる分野としてきた。その結果、人種とジェンダーが「交差」する場所にいる黒人女性は研究対象から排除されてしまった。

社会運動にしても同じで、シングル・イシュー・ポリティクス(単一の問題のみに着目する政治)では、人種問題では黒人男性が、ジェンダー問題では白人女性が特権的な地位を得る一方で、それ以外のマイノリティの存在は忘れられていく。こうした現実に光を当てたからこそ、インターセクショナリティは研究と実践の双方で大きな影響力をもつようになったのだろう。

著者たちは、女性に対する暴力がなぜ解決できないかについてこう述べている。

女性を一つの均質な集団として捉えたり、男性を加害者として描いたり、暴力の現場としての個人や国家権力にのみ焦点を当てていては、解決策は見つけられない。女性に対する暴力を解決するために、ジェンダー、人種、階級といった単一の視点だけを通していては、対処できることはないだろう。例えば、加害者である男性と被害者である女性というジェンダーに限定された視点や、黒人女性に対するDVよりも黒人男性に対する警察の暴力を優先する人種的に限定された視点は、非・交差的思考の限界を示している。

女性への暴力について、フェミニズムは「トキシック・マスキュリニティ(有毒の男らしさ)」を批判するが、インターセクショナリティの視点に立てばこれだけでは充分ではない。なぜなら、性暴力という権力の発動の背後には、ジェンダーだけでなく、人種や宗教、エスニシティなど、多様なアイデンティティに向けられた複雑な権力システムがあるのだから。

著者たちは、現代社会の主要な権力について「レイシズム」「植民地主義」「異性愛主義的家父長制」「ナショナリズム」「エイブリズム(障害者に対して健常者を正常と見なすこと)」「ネイティヴィズム(移民に対してネイティヴに優越的な地位を与えること)「エイジズム(若者に対して高齢者を劣った者と見なすこと)「種差別主義(生物界においてある種が他の種よりも優れているという考え。スピーシージズム)」を挙げている。インターセクショナリティはいまや、人間を超えて動植物や地球環境にまで拡張しているのだ。

こうした細分化は、これまで無視されてきた社会の周縁にいるマイノリティを研究や実践の場に拾い上げ、代表的なマジョリティ(白人/男性)と代表的なマイノリティ(黒人/女性)の対立という粗雑な分析を、権力システムの複雑性を取り入れたより精緻なものに推し進める原動力になった。

だがすぐにわかるように、インターセクショナリティのこうした長所は、同時にさまざまな問題を引き起こすことになる。なぜなら、あまりにも複雑なものをわたしたちは理解できないから。

このことは、インターセクショナリティを説く著者たちが、それにもかかわらず「ピープル・オブ・カラー」や「グローバルサウス」という個別性を無視した用語を使わざるを得ない矛盾によく表われている。「白人/先進国が社会の仕組みを支配している」と主張するためには、単純な善悪二元論に依拠する以外ないのだ。

こうしてインターセクショナリティは、さまざまな批判にさらされることになる。

アイデンティティ・ポリティクスへの左派からの批判

インターセクショナリティの“出自”がブラックフェミニズムである以上、標的となったホワイト・フェミニズムからの反発は必至だった。著者たちはそれを、「一部の白人のフェミニストたちがインターセクショナリティに対してあらわにしている抵抗、さらに言えば真っ向からの敵意」と述べている。

白人のフェミニストは、インターセクショナリティを「特権のあるウィメン・オブ・カラーのためのツール」だとして、「黒人女性やウィメン・オブ・カラーは、もはや権利を奪われることなく、疎外的な言葉であるインターセクショナリティを介して、教育水準が低い白人女性の抑圧者になったり、インターセクショナリティがフェミニズムを弱体化させる欠陥のあるアイデンティティ・ポリティクスに頼っている」と批判した。

高学歴の白人フェミニストたちは、黒人など人種マイノリティのフェミニストから自分たちの「特権」を批判されたことで、「教育水準が低い白人女性」を持ち出して、ピープル・オブ・カラーの高学歴のフェミニストこそが「特権層」だと反論した。これは控えめにいってもかなり醜悪な主張で、著者たちが「私たち〔白人のフェミニスト〕の用語を用いろ、そうでなければ私たちの問題は最前面かつ中心でなくなるからだ」といっているだけだと一蹴するのも当然だろう。

しかし、「インターセクショナリティがフェミニズムを弱体化させる」との左派からの反論には根拠がある。これまで述べたように、アイデンティティが細分化されれば、それに応じて社会運動も細分化されていくからだ。「すべての女性のためのフェミニズム」が「白人のフェミニズム」と「黒人のフェミニズム」に分裂したように、やがて「ヒスパニックのフェミニズム」「アジア系のフェミニズム」などが「ブラックフェミニズムは自分たちを代表していない」と主張するようになるだろう。

同様に、人種問題におけるピープル・オブ・カラーのアイデンティティも細分化され、それが別のアイデンティティと「交差」することで、一つひとつの運動の規模はきわめて小さなものになっていくだろう。「インターセクショナリティは社会現象や政治的なプロセスを解明するためにアイデンティティに説明力を与えすぎている」「分析カテゴリーとしてパーソナル・アイデンティティが過剰に用いられている」という指摘には説得力がある。

経済格差や社会階級を主要な問題とするマルクス主義者は、「インターセクショナリティは、人々の注意をカルチュラルな問題に向けることで、階級闘争を弱体化させる」と批判する。「アイデンティティ・ポリティクスは、資本主義の下で疎外された個人の姿を再現するため、闘争は、よくても集団間の平等、最悪の場合は個人化された闘争という形態をとる」のだ。

現代社会で「階級」や「人種」「ジェンダー」がどれほどの意味をもっているかについては膨大な論争があり、ここではこのやっかいな領域には立ち入らないが、運動を担う側からすれば、インターセクショナリティを脅威と感じるのは当然だろう。

液状化する社会運動

アイデンティティ・ポリティクスは、個人の多様なアイデンティティに基づいた社会を実現しようとする政治的立場だが、社会がリベラル化・複雑化するにつれてそれは「分離主義的で断片的なもの」になっていくほかはない。グループをこれまで以上にさらに小さなグループに分割してしまう傾向は、「無限の逆行問題」と呼ばれている。

さらに近年、アメリカでは「白人至上主義者」が、「自分たちはアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)という“逆差別”の被害者だ」というアイデンティティ・ポリティクスを展開するようになり、アイデンティティを重視してきた左派のあいだで混乱が広がった。その結果、現在では「黒人」「女性」のようなアイデンティティを絶対化することは「悪しき本質主義」と見なされるようになったという。

これまでアイデンティティ・ポリティクスに抗議(というか罵倒)するのは右派・保守派と相場が決まっていたが、興味深いことに、近年のアメリカでは「ポストモダン左翼」がインターセクショナリティを「被害者性の政治(ポリティクス)を助長する」と批判するようになった。「アイデンティティ・ポリティクスを主張する人々は、基本的に、承認を求めるための分離主義的な主張をベースとし、女性、黒人、あるいは障害者といったある種の「犠牲者」的な立場にしがみついている」とされ、「こうした人々の政治的な主張は、被害者性にのみ基づいており、他に価値のあるものは何もない」のだという。

日本においては、「被害者中心主義」は嫌韓の“ネトウヨ”が好んで使う言葉だが、アメリカでは左翼(レフト)が、マイノリティによるアイデンティティの主張を「傷ついた執着」だとし、「自らの傷を蒸し返し抑圧者を責める」だけだと、“ネトウヨ”とまったく同じ主張をしているのだ。

これに対して著者たちは、「アイデンティティは流動的なものだ」として、次のように反論する。

インターセクショナリティの研究は、アイデンティティの意味を「〔個人/集団が〕持つもの」から「〔個人/集団が〕行うもの」へと変えた。個人のアイデンティティズは、人がある状態から次の状態へと抱えていく固定された本質なのではなく、ある社会的文脈から次の社会的文脈へと異なる形で演じられて(パフォーム)いくものと見なされるようになった。

アイデンティティは常に完成されることのないbocoming(なること)の〈プロセス〉であり、単一で、完全で、完成された状態ではなく、移り変わりゆく〈アイデンティフィケーションズ〉のプロセスなのだ。

アイデンティティとは個人の「本質」ではなく、社会のなかでの「パフォーマンス」だというのは魅力的な視点だと思うが、しかしこれでは、「問題」はさらに悪化するだけではないのか。アイデンティティが「移り変わりゆく」ものなら、「人種」や「ジェンダー」という社会運動の基盤が“液状化”してしまう。そこでは、アイデンティティに基づいたどのような政治(ポリティクス)も正当化できないだろう。

とはいえこれは、インターセクショナリティという新しい社会概念に対するあくまでも私の理解であることを最後にもういちどお断りしておきたい。

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