【アクセス3位】わたしたちは文明化によって不幸になったのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

アクセス3位は2020年10月16日公開の「「農耕の開始によって定住が始まり、文明が生まれ国家が誕生した」という従来の歴史観はかんぜんに覆された?」です(一部改変)。

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いま古代史が大きく書き換えられつつある。そのきっかけとなったのはトルコ南東部の古代都市ウルファ(現在のシャンルウルファ)近郊で発見された「ギョベクリ・テペ」という巨大な神殿で、1万4000年前から1万2000年前に建造されたと考えられている。

この遺跡が考古学者たちを驚かせたのは、周辺地域で農耕が行なわれていた形跡がまったくないことだ。旧石器時代の末期、メソポタミア北部で狩猟採集生活をする部族社会のひとびとは、高度な文化をもち、交易を行ない、万神殿(パンテオン)にそれぞれの部族の神を祀っていたのだ。

メソポタミア地域では旧石器時代の定住の考古学的証拠が次々と見つかっており、「農耕の開始によって定住が始まり、文明が生まれ国家が誕生した」という従来の歴史観はかんぜんに覆されてしまった。

ジェームズ・C・スコットはイェール大学政治学部・人類学部教授で、東南アジアなどに残る「非国家」をフィールドワークしてきたが、『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(立木勝訳、みすず書房)では、国家というシステムへの批判的な検証の集大成として、「古代史のパラダイム転換」に挑んでいる。原題は“Against The Grain : A Deep History of the Earliest States(反穀物 最初期の国家のディープヒストリー)”。

古代メソポタミアは「狩猟採集民の天国」

まず古代のメソポタミアについてかんたんに説明しておこう。

イラクというと私たちは砂漠を思い浮かべるが、先史時代、この一帯はティグリス川とユーフラテス川がつくりだすデルタで、広大な湿地が広がっていた。海岸線は現在よりずっと川上にあり、紀元前4000年頃にはバスラ(自衛隊がPKOで駐屯した南部の主要都市)は海の底で、バグダッドとの中間まで湾が延びていた。上流から運ばれてくる堆積物が重なる前は、沖積層は現在より10メートルも低かったのだ。バビロンはバグダッドの南にあり、なぜこんな中途半端な場所に都市を築いたのか不思議に思っていたが、古代世界ではここは海と陸とを結ぶ戦略の要衝だった。

メソポタミアの湿地帯は、これまでの常識に反して「狩猟採集民の天国」ともいうべき地域だった。

沼地からわずかに盛り上がった高台に暮らしていたひとびとは、膨大な数の魚類、貝類、甲殻類、軟体動物などの海洋資源だけでなく、海辺や川辺には鳥や水禽類、小型哺乳類やガゼルのような大型哺乳類も集まってきた。ベリーやナッツもかんたに手に入ったし、沼にはイグサ、ガマ、スイレンなどの可食植物が生い茂っていた。

このようなデルタでは、そもそも農耕を始める理由がなかった。灌漑などしなくても、毎年の洪水によって土壌が入れ替わるのだから、放っておいても植物は生えてきた。定住が始まったのは農耕のためではなく、移動しなければならない理由がなかったからだ。

古代メソポタミアの南部では、ほぼ農業なしに定住する人びとがあちこちに見られ、住民数が5000人に達する「町」まであった。その当時から狩猟採集民は、篩(ふるい)、石臼、すり鉢とすりこぎなど、野生の穀物や豆類を加工するためのあらゆる収穫具を作り出していた。――三内丸山遺跡などで縄文人の定住が広く知られている日本では当たり前だと思うかもしれないが、西欧ではこれは「大発見」だった。

従来の古代史は、現在の地形に引きずられ、大規模な定住と農耕は乾燥地帯で始まったとしていた。だが、ちょっと考えればこれはおかしいとわかる。なぜわざわざ条件の悪い場所で暮らさなくてはならないのか。巨大なデルタがゆたかな自然を育んでいたからこそ、ひとびとが集まってきたのだ。

紀元前1万2000年頃には、メソポタミア全域で定住の断片的な証拠が見つかっている。作物化植物と家畜の断片的な証拠が発見されたのは紀元前9000年、コムギなど主要な基礎作物の栽培が確認されるのは紀元前8000年だから、3000~4000年ものあいだ農業を営まずに定住が続いたことになる。

だとしたら問うべきは「なぜ農耕などというものを始めたのか」だ。

「なぜ農耕を始めたのか」という謎

耕作農業の最大の特徴は、同じカロリーを得るために必要な労働量が狩猟採集と比べて格段に多い(「コスパ」が極端に悪い)ことだ。エデンの園のような楽園で暮らしていた狩猟採集民が、自ら望んでそんな苦役を始める理由はどこにもない。

この疑問に対する有力な答えが「寒冷化」説だ。

定住して狩猟採集生活していた古代のひとびとを、紀元前1万800年頃から1000年におよぶ寒冷期(ヤンガードリアス)が襲った。北アメリカのアガシー湖(かつて北米大陸の中央にあった巨大な氷河湖で、その大きさは黒海に匹敵するとされる)の氷床が温暖な気候によって溶け出し、大西洋に流れ込むようになったために起きたとされる(異論もある)。気温が急速に下がったこのきびしい時期に、生き延びるために農耕に依存せざるを得なくなったのではないだろうか。

だが、このかなり説得力のある説には考古学的証拠の裏づけがないとスコットはいう。紀元前9600年頃になって急激な寒冷期が終わると、ふたたび温暖で湿潤な気候がやってきた。10年もしないうちに摂氏にして7度も平均気温が上昇することもあった。樹木も哺乳類や鳥類も生気を取り戻し、自然環境は突如として快適になった。そして、寒冷期ではなく再度の楽園が訪れたこの時期に、通年で占有される遺跡とともに最初期の農耕の形跡が見られるようになるのだ。

紀元前8000~6000年には、穀類(コムギ、オオムギ)や豆類(レンズマメ、エンドウマメ、ヒヨコマメ)、亜麻などの「基礎作物」が、全般に小規模とはいえ栽培されていた。この同じ2000年間には、家畜化されたヤギ、ヒツジ、ブタ、ウシも登場している。最初の小規模な都市的地域も含めた農業革命は、恵まれた時期に恵まれた地域(狩猟採集民の天国)で始まったのだ。

これについては、人口の増加、乱獲による野生動物の減少、高栄養の植物の採集が難しくなったことなどによって、いわば「背水の陣」として耕作農業に移行したとの説がある。「寒冷化」説の別ヴァージョンで、これもそれなりの説得力があるが、やはり考古学的な証拠と整合しない。この時期はまだメソポタミアのデルタ地帯はゆたかな湿地帯で、狩猟や採集が困難になっていたという確固たる証拠は見つかっていない。農耕が始まったのは、食料が「欠乏」しているのではなく「豊富」な地域なのだ。

スコットはこの謎に「農耕の広がりについて満足のいく代替説明はまだない」としているが、『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』(白須英子訳、文藝春秋)でレザー・アスランは、定住民が巨大な神殿をつくるようになり、石工などの専門家集団に安定した食料を提供しなければならかったために農耕と野生動物の飼育が必要になったのではないかと述べている。

それがどのような理由にせよ、いったん農耕が始まると、紀元前6500年頃には小規模な町が生まれ、紀元前5000年までにメソポタミア南部には数百の町があり、完全に作物化した穀物が主食として栽培されていた。紀元前4000年になると敷地を壁で囲った原始的な「都市」が登場し、紀元前3100年頃に「階層化した、税を集める、壁をめぐらせた国家」がはじめて生まれた。作物栽培と定住が始まってから4000年以上もたっていた。

国家による農耕によってひとびとの暮らしは劇的に変わったとして、スコットは新しい環境を「ドムス複合体」と呼ぶ。ドムスはdomestication(家畜化)の略だが、その本来の意味は「住居」だ。ドムスでは穀物と動物を「飼い馴らし」、その世話をするのに大量の人力を必要とした。その結果、「耕地、種子や穀物の蓄え、人、そして家畜動物が前例のないほど密集し、すべてが共進化しながら、誰にも予想しなかったような影響を生み出した」のだ。

「家畜化」が農耕によって加速した

「農耕の開始によって人口は大きく増えた」というのが常識になっているが、これも正確とはいえない。紀元前1万年には地球上のホモ・サピエンスの数は400万と推計されるが、農耕が始まってから1000年以上経った紀元前5000年になってもその数は500万人程度だった。人口が増えるのはそれからで、その後の5000年間で世界人口は1億人超になっている。

スコットは、疫学的に見て、ドムス複合体の初期が人類史上もっとも致死率が高い時期だったとする。紀元前3200年までに、メソポタミアのウルクは2万5000人から5万人の住民を抱える世界最大の都市となった。人間と家畜が狭い空間に集住したことで、コレラ、天然痘、おたふく風邪、麻疹、インフルエンザ、水痘、マラリアなどの疫病が蔓延した。

初期のメソポタミア人は、感染症が伝染する原理を理解していたようだ。病人を分離して接触を避け、それでもうまくいかなければ町を放棄して逃げ出した形跡があちこちに残されている。

狩猟採集民は感染症の危険を十分にわかっていたから、大きな定住地には近寄らなかった。都市文明を拒否したのは「未開」だからではなく、それが伝染病との接触を避ける最良の方法だったからだ。

都市国家を維持するには多数の人口を維持しなくてはならないが、疫病によって住民は死んでいく。だとしたら、国家はなぜ維持できたのだろうか。これには主に2つの理由があった。

ひとつは奴隷で、古代国家は戦争による捕虜と、奴隷貿易による大規模な買い付けで人口を補充していた。もうひとつが「多産」で、ドムスで暮らすようになった女性はより多くの子どもを産むようになった。

狩猟採集民の女性はいちどに2人の子どもを抱えて運べないため、子どもをつくるのはおよそ4年ごとになる(これには離乳を遅らせる、堕胎薬を使う、育児放棄する、あるいは子殺しをするなどの手段がとられた)。また、激しい運動とタンパク質豊富な赤身肉の食餌という組み合わせは思春期の訪れを遅らせ、排卵を不定期にし閉経を早めた。

それに対して定住では初潮が早まるほか、穀物食は軟食をつくりやすいので離乳も早まった。その結果排卵が促進されて毎年子どもを産めるようになり、女性の生殖寿命も伸びたため、「定住農民は前例がないほど繁殖率が高く、死亡率の高さを補って余りある」ほどになったとされる。だがその代償として、定住民は狩猟採集民と比べると平均身長が5センチ以上も低く、たいては骨や歯に栄養不足の痕跡がある。

ここで興味深いのは、野生動物も家畜化されると多産になることだ。生殖年齢に達するのが早くなり、排卵と妊娠の回数が多く、生殖寿命も長くなって、繁殖率が高くなる。それに加えて家畜は野生種より暴力性が低くなり(人間に慣れやすい)、雌雄差(性的二形)が小さくなる。これは「幼形成熟(ネオテニー)」と呼ばれる。

こうして、スコットがなぜ都市国家を「ドムス複合体」と呼ぶのかがわかる。そこでは人間が野生動物を家畜化するだけでなく、人間まで「家畜化」されるのだ。

一般に「自己家畜化」とは、旧石器時代の人類が、小さな共同体で濃密な社会生活を営むなかで徐々に暴力性を低め、向社会的になっていったことをいうが、スコットはその「家畜化」が農耕と国家によって加速したとする。

これはきわめて刺激的な説だが、「ヒトが最初に農業を採用してからまだ240世代しか経過していない。農業が広まってからだと、せいぜい160世代にしかならない」との理由で、遺伝的な変異が起きたかどうかについては留保している。

穀物と徴税

初期の都市国家は疫病が蔓延し、奴隷を駆り集めて人口減を補い、高位のひとびとを除けば住民の大半は過酷な農作業に従事していた。それに対して狩猟採集民は「物質的に安楽で、自由で、健康的」な暮らしをしていた。

だったらなぜ、ひとびとは都市で暮らしたのか? 「それは閉じ込められていたからだ」というのがスコットの答えだ。敷地を囲む壁は、外部の「野蛮人」の侵入を防ぐと同時に、内部の住民を逃亡させないためのものだった。

ベルリンの壁を考えれば、壁にこのような機能があるのはわかるが、「壁=侵入者を防ぐ」という常識にとらわれていると、この単純な事実に気づけない。これはスコットの慧眼で、中国の万里の長城も、その本来の目的(の一部)は、農民が域外に逃れるのを防ぐことだったかもしれない。

さらに国家には、伝染病に匹敵する「疫病」があった。それが「税」だ。

スコットは、国家が税を徴収するには「計算」できなくてはならないとする。そのため、税の対象は計量可能な食物になる。

タピオカの原料となるキャッサバは世界じゅうの熱帯で栽培されるイモ類で、栽培がかんたんで栄養価が高い(ただし食用には毒抜きが必要になる)。それ以外にもヤマノイモやタロイモなど食用に適した作物がたくさんあるが、そのなかでなぜ穀物(コムギ、オオムギ、イネ)が集中的に植えられたのだろうか。穀物からつくられる食べ物(パンや米、麺)が美味しいからではない。「集中的な生産、税額査定、収奪、地籍調査、保存、配給」などの税の条件を満たすからだ。

キャッサバは地中で育ち、ほとんど世話はいらないし、隠すのも容易で1年で成熟する。地中に放っておいても腐らないので、向こう2年は食べられる(収穫時期がない)。それに対して穀物は毎年1回の収穫時期が決まっていて、計量と持ち運びが容易なので、税吏は収穫時期に農地を訪れて課税するだけでいい。穀物のこの利点を「発見」したからこそ、国家が成立したのだ。

スコットは、国家とは「再生と繁殖」を管理するために奴隷、臣民、女性などを文明によって「家畜化」するシステムだとする。国家を否定する「アナキスト」のスコットが「反穀物」な理由がこれでわかるだろう。穀物がなければ国家は存在できなかったのだから、人類が「エデンの園」から追放される悲劇も起きなかったのだ。

初期の国家は脆弱で、戦争や疫病だけでなく、集中的な灌漑農業 森林破壊による洪水、土壌の塩類化などで穀物の収量が低下し、かんたんに崩壊した。そうなると文明のない「暗黒時代」になるが、じつはこの時期にひとびとの福祉が向上していた形跡がある。国家や文明のない方が、ひとびとは幸福だったのだ。

明確な国家覇権の時代の始まりを紀元1600年頃(大航海時代の始まり)とすれば、国家が支配してきたのは人類の歴史のごく一部(「最後の1パーセントのうちの、そのまた最後の10分の2」)にすぎない。世界の大半では、国家はその最盛期ですら季節限定の制度だった。「国家」のなかで生きるのが当たり前になった私たちは、文字や遺跡などの歴史資料によって「国家」をあまりに過大評価し、「非国家」を極端に過少評価しているのだ。

もうひとつ興味深いのは、国家と「野蛮人(国家の周辺で暮らす遊牧民など)」との関係だ。「定住と町と国家からなる文明世界」と「移動性で分散性の狩猟民、採集民、遊牧民からなる原始世界」という二元論は「根本的に間違っている」とスコットはいう。

実際には、数千年にわたって定住と非定住は往来可能で、両者の中間にもさまざまな組み合わせの多くの選択肢があった。国家に隣接する野蛮人の多くは、事実上、「国家作りのプロセスそのものから逃れた難民」だった 命がけで国家に対して反乱を起こすよりも、逃亡した方がずっと危険が少ないのだ。

そのうえ移動性の高い遊牧民の軍の方が、国家の軍隊より優秀だった。そのため国家は、ヤクザにみかじめ料を払うように、遊牧民を金銭で懐柔するほかなかった。中国ではこれが「朝貢」として制度化され、匈奴などに賄賂を支払うことは、野蛮人(外夷)が皇帝の威光に服する行事に“粉飾”された。騎馬民族は「農業余剰物の支配をめぐって国家と競合した最強のライバル」で、文明自体が「野蛮人という自分自身の疫病」をつくりだしたのだ。

現代人は「自分がつくった動物園で暮らす唯一の種」

クリストファー・ライアンはパートナーであるカシルダ・ジェタとの共著『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』(山本規雄訳、作品社)で、「人類はもともと乱婚だった」という刺激的な主張をして注目を集めた。新著『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』(鍛原多惠子訳、河出書房新社)は、そのライアンが(スコットのいう)「エデンの園からの追放」物語をさらに先に進めたものだ。原題が“Civilized to Death The Price of Progress(死へと向かう文明化 進歩の代償)”であるように、この本では現代文明が全否定される。

ライアンにいわせると、現代人は「自分がつくった動物園で暮らす唯一の種」であり、狩猟採集民のほうが、健康、ゆたかさ、幸福度などあらゆる面においてずっと優れている。その事実を隠蔽するのが「不断の進歩の物語(NPP/Narrative to Perpetual Progress)」で、「世界はどんどんよくなっている」という楽観的な進歩主義者がハーメルンの笛吹き男よろしくひとびとを惑わしているのだという。

リチャード・ドーキンスは「利己的な遺伝子」の教祖となったが、狩猟採集民の特徴は平等主義で、「寛大さと親切心」は人間の本性だ。スティーブン・ピンカーは狩猟採集民の暴力性がきわめて高いというが、これは開拓民よって殺された原住民が含まれるなど、データの扱いに問題がある。マット・リドレーは「(一部の人は)いまだに石器時代の最悪な状態より悲惨で不自由な暮らしに甘んじている」と断言するが、石器時代の狩猟採集民は悲惨でもなければ不自由でもなく、農耕民よりも生活水準はずっと高かった……などなど。

それに対して「楽観的な進歩主義者」がほめそやす現代社会は、「人間によってデザインされ、つくられ、管理され、占有される究極の人間動物園」だ。ライアンは、私たちがどれほど悲惨な人生を送っているか(身体を病み、こころを病み、幸福から見放されている)の事例をこれでもかというくらいに並べ立てる。

「先史時代(狩猟採集民)の再評価」は現代社会批判の新しいトレンドで、なるほどと思う指摘も多いが、「狩猟採集民の世界は素晴らしい」と単純にいうことはできない。

現代社会では、生きづらさを抱える子どもたちが増えている。それに対して狩猟採集民の子どもは、大人たちから大切に育てられ、共同体のなかで居場所を与えられる。これはたしかに素晴らしいが、それには条件がある。ライアンはそのことを率直に書いているので、その部分を引用してみよう。

現代社会では、愛されず望まれない子どもたちも生き延びる。それは一見良いことにも思える。だが(人類学者のサラ・)ハーディーは、テクノロジーの発達によって「子どもは母親や他の養育者との絶え間ない触れ合いから切り離され」、農耕後の社会では祖先の環境では生き延びることができなかった大勢の男女が成人すると論じる。これらの人びとが生き延びるために、世界は「ありとあらゆる虐待」を生き抜いた「哀れな浮浪児の群れ」や「難民キャンプの孤児」にあふれている。

狩猟採集民の子どもが共同体から愛されるのは、愛される子どもだけしか残されないからなのだ。

この本の最後でライアンは、ホモ・サピエンスの未来として、エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』で論じた「悲嘆の五段階説」に依拠して、以下の3つの可能性をあげる。

  1. 「否認」と「怒り」 経済、生態系、政治の崩壊によるハルマゲドン。ただし自然災害(人為的災害も)は、それを生き延びた被害者を抑圧的な日常から解放するかもしれない。災害は「物理的には地獄かもしれないが、一時的とはいえ一種の社会ユートピアを形成する」のだ(災害ユートピア)。あえていえば映画『マッドマックス』のような世界だろうか。
  2. 「取引」と「抑うつ」 テクノロジーによる漸進的な問題の解決。人間は機械(コンピュータ)と融合し、メモリーの中だけの存在になる。これはSFの世界で、レイ・カーツワイルはシンギュラリティによってそれが現実になるとする。
  3. 「受容」 狩猟採集民的な思考を戦略的に現代生活に持ち込む。ここでライアンが取り上げるのが、サイケデリック(幻覚剤)と神秘体験の効用だ。これもまた最近のトレンドになっているようだ。

サイケデリックの復興についてはマイケル・ポーランの『幻覚剤は役に立つのか』 (宮﨑真紀訳、亜紀書房)に詳しいので、合わせて読まれたい。

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